第五章 三十歳、見えない女
土曜の午後四時、里美はクローゼットの扉を開けたまま、床に座り込んでいた。
ベッドの上には、もう三着が並んでいる。去年の春、後輩の結婚式の二次会のために買った紺のワンピース。通勤でも着ている白いブラウスと、薄いベージュのワイドパンツ。それから、いつ買ったのかも思い出せない、小花柄のロングスカート。
どれを着ても、何かが違う気がした。
真由からのメッセージは昼過ぎに来ていた。
『六時半、神田の「さかな屋たつみ」ね。拓也の会社の人たち、みんな気さくだから。変に気合い入れなくていいよ、居酒屋だし』
変に気合い入れなくていい、という一文を、里美は三回読み返した。気合いを入れていると思われたくない。けれど、何も考えずに来たとも思われたくない。そもそも誰に何を思われたいのか、自分でもよくわからなかった。
紺のワンピースを頭からかぶり、姿見の前に立った。胸元の切り替えがきれいに出る服で、二次会の日には何人かに褒められた。けれど梅雨明け前の湿った午後の光の中で見ると、張り切りすぎた人に見えた。居酒屋の掘りごたつで、この裾をどう収めるのかも想像がつかない。
脱いで、ブラウスとワイドパンツに替えた。これなら無難だった。無難すぎて、会社帰りに寄っただけの人に見える。
鏡に顔を近づけた。
口の横に、笑っていないときにも消えない線が一本ある。いつからあったのかわからない。去年の写真を見返せばわかるかもしれないが、去年の写真にはたいてい健太が写っている。
ファンデーションを塗り直し、眉を描き、口紅を二本並べて迷った。いつもの落ち着いたローズと、半年前に後輩の杏奈に勧められて買ったまま一度もつけていない、朱の強い色。朱のほうを塗ってみて、鏡の中で唇だけが浮き上がって見えたので、ティッシュで押さえて半分落とした。どちらともつかない色が残った。
結局、ブラウスとワイドパンツにした。小花柄のスカートはクローゼットの奥に戻し、紺のワンピースはハンガーに掛け直して、扉の内側に吊るしたままにした。
玄関で、踵の低いサンダルを履いた。傘立てには、里美の傘と、健太の紺の傘がまだ並んで差さっていた。空は白く曇っていたが、雨の予報は夜中からだった。里美はどちらの傘にも手を伸ばさずに、ドアを開けた。
「さかな屋たつみ」は、神田駅の高架下から一本入った路地にあった。
引き戸を開けると、炭の匂いと、焼き魚の脂の匂いと、人の声がいっぺんに押し寄せてきた。奥の座敷から、真由が手を振っていた。
「里美、こっちこっち」
真由は黒い麻のシャツを着て、髪を後ろで一つにまとめていた。耳たぶに、真珠のピアスが光っていた。
「ひなたちゃんは?」
「うちの母に預けてきた。十時までに迎えに行けば怒られない」
真由の隣で、拓也が軽く頭を下げた。大学時代から何度も会っているのに、会社の人間といる拓也は、いつもより背筋が伸びて見えた。
座敷の長いテーブルには、すでに男性が三人座っていた。拓也が一人ずつ紹介した。
「こっちが岸本。俺の同期で、営業企画。こっちが松尾さん、一個上。で、浅野。今年から同じ課」
岸本は日に焼けた顔で、半袖のポロシャツから太い腕を出していた。松尾は眼鏡をかけた細身の人で、すでに一杯目のジョッキを半分空けていた。浅野はいちばん若く、二十代の後半に見えた。
「田中です。真由の大学の同級生で」
「ああ、聞いてます聞いてます。真由ちゃんの親友の」
岸本が大きな声で言い、里美のためにおしぼりの袋を破ってくれた。悪い人ではなさそうだ、と里美は思った。
乾杯をして、枝豆と、刺身の盛り合わせと、ポテトサラダが来た。最初の三十分は、里美も会話の中にいた。仕事を聞かれ、雑貨の通販サイトのマーケティングをしていると答えると、松尾が「あ、じゃあうちの嫁が使ってるかも」と言い、社名を聞いて本当に知っていたので、場が沸いた。岸本は学生時代にラグビーをやっていた話をし、浅野は最近始めたという釣りの話をした。
七時を過ぎたころ、引き戸が開いた。
「すみません、遅くなりましたあ」
二人の女性が、並んで座敷に上がってきた。一人は肩までの明るい茶色の髪で、白いノースリーブのニットを着ていた。もう一人は黒髪を高い位置で結び、耳元で大ぶりのイヤリングが揺れていた。
「藤井です。拓也さんの課の、新人です」
「藤井の友だちの、沙耶です。今日、ついてきちゃいました」
藤井は二十三、沙耶は大学院に通っていて二十二だと、二人が座るまでの一分でわかった。岸本が聞いたからだ。
席が詰め直され、藤井は岸本と浅野のあいだに、沙耶は松尾の向かいに収まった。里美はテーブルの端、真由の隣に押し出される形になった。
そこから、テーブルの重心が動いた。
沙耶が、研究室で流行っているという動画アプリのダンスの話を始めた。松尾が「それ知らない、やってみて」と言い、沙耶が座ったまま手の振りだけやってみせると、男性三人が声を上げて笑った。藤井が「沙耶、それ前に友だちの結婚式でも」と言い、岸本が「え、結婚式で踊ったの」と身を乗り出した。
里美は笑うところで笑った。笑いながら、自分の笑い声が誰にも向いていないことに気づいた。岸本の体は藤井のほうへ斜めに向き、松尾の眼鏡は沙耶の手元を追っていた。浅野は二人の顔を交互に見ながら、枝豆のさやを皿の縁に一つずつ並べていた。
店員が、大皿のシーザーサラダと、唐揚げの山を運んできた。
里美は反射的に、重ねてあった取り皿を手に取った。トングでサラダを取り分け、上に砕いたクルトンを散らし、一枚ずつテーブルの向こうへ回した。唐揚げにはレモンを添えた。かけていいか聞くのを忘れたので、皿の端に置いた。
「あ、すみません、ありがとうございます」
藤井が皿を受け取り、にっこり笑った。よく笑う子だった。笑うと目尻が下がって、二十三歳の顔がもっと幼くなった。
里美は空いたジョッキの数を数え、店員を呼んで、飲み物の追加を聞いてまわった。ハイボールが二つ、レモンサワーが一つ、ウーロン茶が一つ。沙耶は甘いのがいいと言い、カシスのソーダ割りを頼んだ。
「田中さん、ほんと気が利くね」
松尾が言った。
「うちの部署にほしいわ、こういう人」
褒められたのだと思う。里美は「いえいえ」と言って、醤油の小皿を沙耶の前に寄せた。
八時近くになって、岸本がトイレから戻ってきたとき、席の都合で、一瞬だけ里美の隣に腰を下ろした。
「田中さん、全然飲んでないじゃん。何飲んでるの」
「梅酒のソーダ割りです」
「渋いね」
岸本は笑って、自分のハイボールを一口飲んだ。それから、何でもないことのように聞いた。
「田中さんって、いくつ?」
「三十です」
答えてから、一拍、間があった。
「あ、そうなんだ。真由ちゃんと同い年か。そっか、そうだよね」
岸本はうなずいた。何度か、必要以上にうなずいた。
「落ち着いてるもんね。なんか安心感ある」
それで話は終わった。岸本は向こうの席で藤井が呼ぶ声に「なになに」と振り向き、腰を浮かせて元の場所へ戻っていった。里美の隣には、座布団のへこみだけが残った。
安心感、という言葉が、梅酒の甘さと一緒に喉に残った。
悪意はなかった。それはわかっていた。岸本は三十という数字を聞いて、何かの箱の蓋を閉じたのだ。開けてみたら思っていたのと違う中身だった箱を、そっと閉じるように。
テーブルの向こうでは、浅野が沙耶に釣りの写真を見せていた。スマートフォンの画面を寄せ合い、沙耶が「え、これ自分で釣ったんですか、すごい」と言い、浅野の耳が赤くなっていた。
里美は、自分の前の取り皿を見た。
サラダを取り分けたトングが、まだ手元にあった。誰の皿にも、里美が盛った量のサラダが載っていた。唐揚げのレモンは、誰も使っていなかった。自分の皿だけが、ほとんど空だった。取り分けているあいだ、自分の分を取るのを忘れていた。
家でも、そうだった。健太の皿に先に盛り、健太のグラスが空けば注ぎ、健太が見たい番組があればリモコンを渡した。七年そうしてきた手が、知らない人たちのテーブルで、同じ動きをしていた。
真由が、隣から小声で言った。
「ごめん、なんか若い子たちのほうで盛り上がっちゃってるね」
「全然。楽しいよ」
里美はそう言って、梅酒のグラスを空けた。
八時四十分、里美はバッグからスマートフォンを出し、画面を見るふりをした。
「ごめん、私、明日ちょっと早くて。先に失礼します」
「えー、まだいいじゃん」
岸本が言った。その「えー」は軽くて、明るくて、引き留める重さを持っていなかった。
里美は財布から三千円を出して拓也に渡し、座敷の端で靴を探した。サンダルは、誰かの大きなスニーカーの下敷きになっていた。
店を出ると、空気が肌に張りついた。高架の上を電車が通り、足元のアスファルトが細かく震えた。
駅の方向へ歩きはじめて、二つ目の角を曲がったところで、後ろから名前を呼ばれた。
「里美、ちょっと待って」
真由が、サンダルの音を立てて走ってきた。手に、里美が座敷に置き忘れた薄手のカーディガンを持っていた。
「これ。忘れてた」
「ありがとう。……ごめんね、わざわざ」
「明日、早くないでしょ」
真由は息を整えながら言った。
「日曜だよ、明日」
里美は黙ってカーディガンを受け取った。
「帰りたいなら帰っていいけどさ。なんか言ってよ。いきなりスマホ見て立ち上がるから、びっくりした」
「言ったら、真由が気をつかうでしょ」
「つかうよ。つかうために呼んだんだもん」
真由の言い方は、いつもどおり率直だった。その率直さが、今夜は里美の神経のどこかに触った。
「私、取り皿配りに行ったんじゃないんだけど」
口に出してから、言い方がきつかったと思った。けれど、止まらなかった。
「岸本さんに年聞かれて、三十って言ったら、安心感あるねって言われた。安心感だよ。私、あそこで何してたんだろうって」
「岸本くん、悪い人じゃないよ。ああいう言い方しかできないだけで」
「悪い人じゃないのはわかってる。悪い人じゃない人に、ああいう顔されるのが嫌なの」
真由は何か言い返しかけて、口を閉じた。
二人は、閉店したあとのドラッグストアの前で立ち止まっていた。下りたシャッターの前に、自転車が三台、斜めに停められていた。
「真由には分かんないよ」
里美は言った。
「拓也くんがいて、ひなたちゃんがいて。帰る場所があるじゃん。私、帰ったら誰もいないんだよ。三十で、七年いた人に浮気されて、今日みたいな場所で、若い子の横で取り皿配ってるの」
言いながら、声が震えた。真由の顔を見られなかった。
しばらく、真由は何も言わなかった。
電車がまた高架を通った。その音が去ってから、真由が口を開いた。
「今日さ、化粧したの、三週間ぶりなんだよね」
里美は顔を上げた。
「朝から、どのピアスつけようって、洗面所で三十分迷った。ひなたが泣いて、拓也がひなた抱っこして、早くしろよって顔して。で、これにした」
真由は、耳の真珠を指で触った。
「さっきの店で、誰か一人でも、これに気づいたと思う?」
里美は答えられなかった。自分も、店に入ったとき一度見ただけで、そのあとは忘れていた。
「公園行くとさ、私、ひなたちゃんのママ、なんだよね。保育園でも、ひなたちゃんのお母さん。拓也の実家行ったら、拓也の嫁。今日、岸本くんに真由ちゃんって呼ばれて、あ、私、名前あったんだって思った」
真由は笑った。笑ったけれど、目は笑っていなかった。
「帰る場所はあるよ。でも、帰ったら私、いないんだよ。里美とは違う意味で」
里美は、何か言わなければと思った。ごめん、と言うのは簡単だったが、それでは足りない気がした。
「……ピアス、似合ってる」
やっと出てきたのは、それだけだった。
真由は一瞬きょとんとして、それから吹き出した。
「遅いって。二時間遅い」
「ごめん」
「いいよ。私もごめん。若い子来るって、知ってたんだよね、実は。拓也から聞いてた。言わなかった。言ったら里美、来ないと思って」
「来なかったと思う」
「でしょ」
真由は、ドラッグストアの横の自動販売機に歩いていき、小銭を入れた。がこん、と音がして、冷たいお茶が二本、取り出し口に落ちた。一本を里美に渡した。
二人は、自転車の並んだシャッターの前の、低い段差に腰を下ろした。ワイドパンツ越しに、昼間の熱がまだ残るコンクリートの温度が伝わってきた。
「次は、若い子いないやつにするから」
「次、あるの」
「あるよ。里美が嫌なら、うちにご飯食べに来ればいいし。ひなた、里美ちゃんまだ来ないのって、この前言ってたよ」
「本当に?」
「嘘。でも、言いそう」
里美は、冷たいお茶の缶を頬に当てた。缶の表面の水滴が、顎を伝って落ちた。
「真由、戻らなくていいの」
「戻るよ。拓也に全部払わせる。里美の三千円も返しとく」
「いいよ、それは」
「よくない。取り皿代もらいたいくらいだよ、本当は」
真由は立ち上がり、黒いシャツの裾を払った。
「改札まで送る」
改札の前で、真由は里美のカーディガンの肩を、母親が子どもにするように整えた。それから何も言わずに手を振って、高架下の暗い道を戻っていった。背中の真ん中で、結んだ髪の先が揺れていた。
最寄り駅に着いたのは、十時を過ぎたころだった。
アパートの階段を上がり、鍵を開けて、玄関の明かりをつけた。傘立ての紺の傘が、出たときと同じ角度で差さっていた。
化粧を落とし、シャワーを浴び、髪を乾かした。ドライヤーを止めると、部屋の音は、冷蔵庫のうなりと、エアコンの送風だけになった。
ベッドに横になって、天井を見た。
眠れなかった。目を閉じると、岸本がうなずく顔が浮かんだ。必要以上に、何度もうなずく顔。安心感ある、と言ったときの、口の形。
十二時を過ぎたころ、里美は枕元のスマートフォンを手に取った。
アプリのストアを開いて、検索窓に文字を打った。「出会い」と打って、消した。「恋活」と打ち直した。候補がいくつも並んだ。どれも、笑顔の男女のイラストか、柔らかい色の丸いアイコンだった。
健太のスマートフォンの画面に光っていた通知を、里美は思い出した。あのアイコンがどれだったか、わからなかった。わからないことに、ほっとした。
評価の数がいちばん多いものを選んで、インストールのボタンを押した。読み込みの円が一周するあいだ、自分が何をしているのか考えないようにした。
登録画面が開いた。
ニックネーム、と書いてあった。「さとみ」と打った。ひらがなだと子どもっぽい気がして、「サトミ」にした。片仮名だと別の誰かに見えたので、「さとみ」に戻した。
居住地。東京都。
職業。会社員。
次の欄は、年齢だった。
指先で触れると、画面の下から、数字の並んだ回転式の選択肢がせり上がってきた。十八から始まっていた。親指で弾くと、数字がからからと回って、二十四のところで止まった。
二十四、という数字を、里美はしばらく見ていた。
もう一度弾いた。二十九で止まった。
二十九なら、と思った。二十九なら、嘘というほどの嘘じゃない。三月まで、自分は二十九だった。つい四か月前まで。
親指を二十九の上に置いたまま、動かせなかった。
三月十四日の夜を思い出した。健太が店の予約を忘れていて、二人で角のコンビニまで歩いて、ショートケーキを二つ買った。ろうそくはついていなかった。健太は「来年はちゃんとするから」と言って、ケーキのフィルムをはがしながら、スマートフォンで何かを見ていた。あの夜、自分は三十になった。
里美は、数字を一つ進めて、三十に合わせた。
決定のボタンは押さなかった。
次の画面に進めば、写真を登録しなければならない。里美はアルバムを開いた。スクロールしても、スクロールしても、仕事で撮った商品の写真と、競合サイトの画面の切り抜きばかりだった。ときどき、自分の顔が写っている写真があった。その半分には、健太の肩か、健太の腕か、健太の頬の端が写っていた。残りの半分は真由が撮ってくれた写真で、隣にはひなたがいた。
一人で写っている写真が、一枚もなかった。
「……だめじゃん」
声に出して言った。暗い部屋で、自分の声が思ったより大きく響いた。
「もう、だめじゃん、私」
誰も返事をしなかった。
アプリを閉じ、ホーム画面でそのアイコンを長く押した。並んだアイコンが一斉に揺れはじめ、角に削除の印が出た。
押した。確認の画面が出た。もう一度押した。
アイコンが消えると、右隣にあった天気予報のアイコンが一つ左にずれて、空いた場所を埋めた。何事もなかったような並びになった。
天気予報は、夜中の二時から雨だと言っていた。
里美はスマートフォンを伏せて枕元に置き、横向きになって、膝を抱えた。カーテンの隙間から、向かいのマンションの廊下の明かりが、細く一本、天井まで伸びていた。
やがて窓の外で、ぱらぱらと何かが庇を打つ音がした。予報より、一時間早かった。




