第四章 一人きりの最初の夜
玄関の鍵を回すと、思っていたより大きな音がした。
里美はそれから、ドアの上のほうについているチェーンを掛けた。越してきてから、ほとんど使ったことのないチェーンだった。健太の帰りが遅い夜が多かったから、掛けておくと健太が入れなかった。金具が錆びていて、溝に滑りこませるのに、二度やり直した。
玄関の明かりを消した。廊下の明かりを消した。居間の明かりを消そうとして、ソファの背に掛けられたままのバスタオルが目に入った。
里美はバスタオルを取って、洗面所の洗濯かごに入れた。タオルはまだ湿っていて、重かった。
洗面台のコップに、白い歯ブラシが一本だけ、縁にもたれかかっていた。
コップの底に、青い歯ブラシの跡が、薄い水垢の輪になって残っていた。里美は自分の歯ブラシを取って、コップの真ん中に立てた。手を放すと、歯ブラシはまた縁のほうへ倒れた。もう一度立てた。また倒れた。
里美は歯ブラシをそのままにして、洗面所の明かりを消した。
台所の水切りかごに、健太の黒いマグカップが伏せてあった。縁が一か所、小さく欠けている。四年前に健太が流しに落として欠かしたとき、「まだ使える」と言って、それからもずっと使っていた。今日の昼、焼きそばのあとで健太がコーヒーを飲んだマグだった。
その隣に、里美の白いマグが、同じように伏せてあった。
二つのマグは、取っ手が同じ向きを向いていた。
里美はしばらくそれを見てから、居間の明かりを消した。
寝室の押入れが、開いたままになっていた。健太が引き出した引き出しも、半分出たままだった。なかに、片方だけの靴下が一つ残っていた。
里美はベッドに腰を下ろした。窓側の、健太の側だった。
シーツの上に、健太の体の形のくぼみがあるわけではなかった。昨日の朝、里美がシーツを替えたばかりだった。それでも、枕に顔を近づけると、匂いがした。
柑橘のシャンプーの匂いと、その下の、健太の頭の地肌の匂い。汗と、整髪料と、七年分の夜の、どれとも区別のつかない匂い。
里美は枕に顔を押しつけた。
最初は、しゃっくりのような音だった。喉の奥で何かが引っかかって、息が吸えなくなった。吸おうとすると、胸の底から押し上げてくるものがあって、それが声になって口から漏れた。
里美は枕カバーの端を噛んだ。
声は、枕カバーの布地に吸われて、それでも部屋のなかに響いた。自分の声だとわからなかった。どこか遠くの部屋で、知らない誰かが泣いているような声だった。
肩が勝手に跳ねた。膝を胸に引き寄せて、体を丸めた。丸めても、跳ねるのは止まらなかった。
窓の外で雨が降っていた。枕元の時計の緑色の数字が、十一時を過ぎ、十二時を過ぎた。
ベッドの足もとに放り出したスマホが、一度震えた。
里美は手を伸ばさなかった。しばらくして、もう一度震えた。
一時を過ぎたころ、ようやく手を伸ばした。画面に、健太の名前が二つ並んでいた。
『吉川んとこ着いた』
『ごめん。ちゃんと話したい』
絵文字はついていなかった。
里美は画面を伏せて、枕の下に押しこんだ。
眠ったのは、窓の外が灰色になりかけたころだった。
六時半に目覚ましが鳴った。
洗面所の鏡に映った顔は、自分の顔ではないようだった。まぶたが腫れて、二重の線が消えていた。目の下が赤黒く、鼻の頭の皮が剥けかけていた。
大学のころ、失恋した真由が、冷凍庫で冷やしたスプーンを目に当てていたのを思い出した。里美は台所の引き出しからスプーンを二本出して、冷凍庫に入れた。冷凍庫の扉の内側に、あずきのアイスの箱が、昨日買ったときのまま入っていた。
十分後、冷えたスプーンの背をまぶたに当てた。冷たさが、目の奥まで刺さった。
コンシーラーを二度重ねて、マスクをした。
駅までの道で、雨は霧のように細かくなっていた。里美は生成り色の傘を差した。傘立てから抜くとき、紺の傘の持ち手に、指の関節が当たった。
会社のエレベーターを降りると、杏奈がちょうど給湯室から出てきたところだった。
「あ、田中さん、おはようございます。紫陽花の写真、あとで――」
杏奈はそこで口を閉じた。
一瞬だけ、杏奈の目が里美のマスクの上の目もとに留まった。それから杏奈は、何もなかったように笑った。
「あとで見せますね。今日、午前中ばたばたしてるんで」
「うん」
里美の声は、自分でも驚くほどかすれていた。
十時過ぎ、席に戻ると、キーボードの横に紙コップが一つ置いてあった。ふたの飲み口から、湯気が細く立っていた。ほうじ茶のラテだった。一階のコンビニの、茶色い紙コップ。
紙コップの下に、のど飴が二つと、黄色い付箋が一枚あった。
『声、がらがらでしたよ。のど、お大事に。杏奈』
里美は仕切りの向こうを見た。杏奈はヘッドセットをつけて、取引先と電話をしていた。こちらを見なかった。
里美は付箋をはがして、ノートの表紙の裏に貼った。のど飴の包みを一つ開けた。はちみつと金柑の味がした。飴の角が、腫れた喉の内側に当たって、ひりひりと痛んだ。
里美はマスクを顎に下げて、ほうじ茶のラテを一口飲んだ。甘かった。
午後、梅雨特集のバナーの差し替えをした。
石原から届いていた指示書のとおりに、画像を二段目に上げる。新しい画像は、紫陽花の青を背景にした傘の写真だった。リンク先の住所を、管理画面の入力欄に貼りつけた。
去年の特集のフォルダを開いたまま、そこから住所を写した。今年の特集と去年の特集は、住所の末尾の四桁が違うだけだった。
公開のボタンを押して、自分のスマホでトップページを開いた。バナーが二段目に表示されているのを確かめた。
バナーを押して、飛んだ先を確かめることは、しなかった。
火曜の朝、九時四十分。
「田中さん、ちょっといい?」
飯島課長が、自分の席から手招きした。課長の画面に、問い合わせの管理画面が開いていた。
『梅雨の特集から入ったのですが、売り切れの商品ばかりです。去年のページではないですか』
昨夜の十一時に届いた問い合わせだった。その下に、今朝の七時にもう一件、同じような文面が届いていた。
課長は画面を指で叩いた。
「バナーのリンク、去年の特集に飛んでる。昨日の午後から、ずっと」
里美は画面を見た。住所の末尾の四桁。
「申し訳ありません。すぐ直します」
「うん。直したら、お客さんへの返信と、報告だけ簡単に」
里美は席に戻り、管理画面を開いた。入力欄の四桁を打ち直し、公開のボタンを押した。今度は自分のスマホでバナーを押して、今年の特集の、折りたたみ傘の二色展開が表示されるのを確かめた。もう一度押して、もう一度確かめた。
問い合わせの二件に、お詫びの返信を書いた。一件目の文面を書き終えて読み直すと、「ご迷惑をおかけしまして」が二回続いていた。一つを消した。
報告書を送ると、五分後に課長から返事が来た。
『確認しました。昨日の午後から今朝までの、去年ページへの流入数も念のため出しておいてください』
それから、少し間を置いて、もう一行届いた。
『田中さんにしては珍しいですね』
里美はその一行を、しばらく見ていた。返信の欄に「申し訳ありません」と打って、消して、「承知しました」と打って、送った。
隣の島の石原が、椅子ごとこちらを振り向いて、口の動きだけで「ドンマイ」と言った。里美は、うなずいて見せた。
その日の夕方、健太からまたメッセージが届いた。
『昨日はほんとにごめん』
『明日休みだから、会えない? ちゃんと話したい』
里美は返事をしなかった。
水曜の夜、里美は家に帰って、台所の米びつを開けた。
計量カップで米をすくって、内釜に入れる。一杯、二杯。水で研いで、白く濁った水を三度捨てた。内釜の目盛りの「2」の線まで水を入れて、炊飯器のふたを閉め、スイッチを押した。
炊飯器が湯気を吹きはじめてから、里美は気づいた。
二合だった。七年間、毎晩そうしてきた量だった。手が、米びつの前で、二杯すくう動きを覚えていた。
炊き上がったご飯を、茶碗に一杯よそった。残りを、ラップで四つに包んだ。まだ熱いご飯がラップ越しに手のひらを焼いて、里美は包みを調理台の上に落とした。
冷凍庫を開けると、あずきのアイスの箱と、冷やしたままのスプーンが二本、奥に並んでいた。里美はラップの包みを四つ、その手前に並べた。
それから、あずきのアイスを一本取り出して、冷凍庫の前に立ったまま齧った。凍りきったアイスは硬くて、前歯の根もとがしんと痛んだ。健太が土曜に「あずきのやつ」と言った箱だった。六本のうち、まだ一本も減っていなかった。
里美は、その夜のうちに、健太にメッセージを一つだけ送った。
『今は話せない。残りの荷物は、来月、まとめて取りに来て。来る前に連絡して』
既読の印はすぐについた。返事は来なかった。
それから銀行のアプリを開いて、健太の口座に、四万八千円を振り込んだ。振込名義を入力する欄に、しばらく指を置いたまま迷ってから、「タナカ サトミ」のあとに「ヤチン」と打った。
木曜の朝、寝室のベッドで、里美は窓側に寝ていた。いつのまにか、健太の側に移っていた。
金曜は、朝から雨だった。
玄関で傘立てから生成り色の傘を抜いた。紺の傘は、そのまま残った。ドアを閉めてから、里美は鍵を回し、ドアノブを二度引いて確かめた。
土曜の午後、雨は上がっていた。
里美は洗濯物を干し終えて、ソファに座った。グレーのソファの、健太がいつも寝そべっていた側に、座面のへこみがあった。里美は反対の端に座り、スマホで真由の名前を探した。
呼び出し音が四回鳴った。
「もしもしー? おー、里美。どしたの、珍しいじゃん、土曜に」
真由の声の後ろで、子ども向けの番組の歌が流れていた。
「ごめん、いま大丈夫?」
「大丈夫大丈夫。拓也がひなた見てる。見てないけど。……あ、ちょっと待って。ひなた、それ、ママのだから。……ごめん、いいよ」
里美は、息を吸った。
言う言葉は決めてあった。電話をかける前に、三回、頭のなかで言ってみていた。
「健太と、別れた」
「と」のところで、声が裏返った。「わかれた」の「れ」が、喉に引っかかって、半分しか出なかった。
電話の向こうで、子ども番組の歌だけが続いた。
「……は?」
「日曜に。別れた」
「ちょ、待って。え、ちょっと待って」
がたがたと何かを動かす音がして、子ども番組の歌が遠くなった。扉の閉まる音がした。
「ごめん、ベランダ出た。え、なに、いつ。日曜? 先週の?」
「うん」
「なんで。どっちから」
「私から」
「……なにがあったの」
里美は、ソファの肘掛けの、布のほつれを指でつまんだ。
「健太の携帯に、通知が来て。マッチングアプリの」
「は?」
「女の子と、やりとりしてた。三月から」
「はあ?」
真由の声が、一段高くなった。
「三月からって、え、ずっと? あいつが? マッチングアプリ?」
「うん」
「相手、いくつ」
「二十四」
「二十四!」
電話の向こうで、真由が何かを蹴ったような音がした。ベランダの、植木鉢か何かのようだった。
「あいつ、三十二でしょ。え、三十二で、二十四?」
「プロフィールには三十歳って書いてあった」
「サバ読んでんの? 二歳? 二歳だけ?」
「独身、とも書いてあった」
「独身って、まあ、それはそうだけど。……最悪。最悪すぎてちょっと笑うんだけど。ごめん、笑ってない。笑ってないよ」
真由の声は、笑っていなかった。
「で、なんて言ったの、あいつ。ばれて」
里美は、肘掛けのほつれを引っぱった。糸が一本、指に絡んだ。
「最初は、お客さんだって。それから、人の携帯勝手に見るなって怒って」
「うわ」
「それで、最後に」
里美は、その言葉を口に出す前に、一度唾を飲んだ。
「彼女は遊びだよ。本命はお前だけだって」
電話の向こうで、真由が長く息を吐いた。
「……それ言う? ほんとに言う人いるんだ、それ。ドラマのなかだけかと思ってた」
里美は、笑った。
喉の奥から、短い息が漏れて、それが笑い声になった。日曜の夜に健太の前で漏れた笑いとは、違う音だった。
「ほんとに言ったよ。一字一句そのまま」
「録音しときゃよかったのに。結婚式で流してやりなよ、あいつの」
「ひどい」
「ひどいのはあいつでしょ」
しばらく、二人とも黙った。真由のいるベランダの向こうで、車の通る音がした。
「里美」
「うん」
「私さ、ずっと思ってて、言わなかったこと、言っていい?」
「……うん」
「誕生日の、コンビニのケーキの話聞いたとき。正直、キレそうだった。ホワイトデー兼ねてって何? って。でも、里美が笑って話してたから、言わなかった」
里美は、ほつれた糸を指から外した。
「私、笑って話してた?」
「笑ってた。『健太らしいでしょ』って」
里美は覚えていなかった。三月の、どこかのカフェで、真由がひなたにりんごジュースを飲ませながら聞いていた。自分がどんな顔をしていたのかは、思い出せなかった。
「……そっか」
「ごめん、今言うことじゃないね」
「ううん」
「部屋は? あいつ、まだいんの?」
「出てった。その夜に。部屋、私の名前だから」
「よし。えらい。それは本当にえらい」
真由の声が、少しだけ和らいだ。
「ちゃんと食べてる?」
「ご飯、炊きすぎて、冷凍庫がいっぱい」
「それ、食べてるって言うのかな」
「いちおう、一日一個は解凍してる」
「いちおう、ね」
電話の向こうで、ガラス戸をこつこつと叩く音がした。「ママー」と、ひなたの声が、戸越しにくぐもって聞こえた。
「はいはい、今行くから。……ごめん、ひなたが呼んでる」
「うん。ごめんね、急に」
「急にじゃないよ。ていうか里美、七月空いてる?」
「七月?」
「七月の、たぶん三週目の土曜。拓也の大学のときの友達とか、会社の後輩とか集まって、ご飯食べる会があんの。毎年なんだけど、今年は私も出ようかなって思ってて。里美も来なよ」
「そういうの、今は」
「わかってる。別に、誰かと付き合えとか言ってないよ。独身の人も何人か来るっぽいけど、それはどうでもいい」
真由は、そこで一度言葉を切った。
「私もさ、最近、名前で呼ばれるの、保育園の先生から『ひなたちゃんのママ』って呼ばれるのだけなんだよね。だから、たまには自分の名前で呼ばれるとこに行きたいの。付き合ってよ」
里美は、ソファの背にもたれた。天井に、窓からの光が、薄い四角に映っていた。
「……考えとく」
「考えとくは、行くってことね。はい決定。日にち決まったら送る」
「真由」
「ん」
「ありがとう」
「お礼は、あいつの悪口十個言ってからにして。今度会ったとき、ちゃんと聞くから。……ひなた、開けないで、指はさむよ! じゃあね、切るよ」
通話が切れた。
里美はしばらく、スマホを膝の上に置いたまま、天井の四角い光を見ていた。光は、雲が動くたびに、濃くなったり薄くなったりした。
夕方、里美は台所に立った。
米びつのふたを開けた。計量カップを差しこんで、米をすくう。すり切りの一杯。
それを内釜に空けた。
米は、内釜の底の片側に寄って、白い小さな山を作った。里美は内釜を傾けて、底に平らにならした。ならしても、底の銀色が、米のあいだからところどころ見えていた。
計量カップは、米びつのなかに戻さないまま、里美の手のなかにあった。




