第三章 受け入れがたい言い訳
健太は首にバスタオルを掛けて、居間の入り口に立った。
髪から垂れた雫が、灰色のスウェットの肩に丸い染みを作っていた。片手で頭を拭きながら冷蔵庫のほうへ行きかけて、足を止めた。
里美の手のなかにあるものを見たのだと、里美にはわかった。健太の目は、里美の顔ではなく、里美の両手に向いていた。
「それ、俺の?」
「うん」
「何してんの」
里美は答えずに、画面を健太のほうへ向けた。ケーブルがローテーブルから引っぱられて、充電器がかたんと倒れた。
「ユイさんって、誰」
健太はタオルを頭から下ろした。
「ああ、それ」
健太は、笑った。口の端だけを上げる、客の前で見せる笑い方だった。
「客だよ。部屋探してる子。一人暮らし始めたいって」
「お客さんに、健ちゃんって呼ばれるの」
「若い子はそういう感じなんだって。距離近いほうが契約取れんの。お前にはわかんないかもしれないけど」
「このアプリで、お客さん探すの」
「会社で……」
健太はそこで言葉を切って、タオルを握り直した。
「会社で登録させられてんだよ。集客の一環で。いまそういうの多いの」
里美は画面を自分のほうへ戻した。いちばん下から、二つ上の吹き出しを探した。
「次はちゃんと朝まで空けとくわ」
自分の声が、思っていたより平らに出た。読み上げる声だった。会議で数字を読むときと、同じ声だった。
「ユイちゃんが帰りたくないって言ったんじゃん、笑」
「おい」
「笑、って書いてある」
「やめろって」
健太が三歩で近づいてきて、里美の手からスマホを取ろうとした。里美は腕を引いた。ケーブルが外れて、床に落ちた。
「返せよ」
「プロフィール、三十歳って書いてある」
「返せって」
「独身、って書いてある」
健太の手が里美の手首をつかんだ。風呂上がりの手のひらは熱くて、湿っていた。里美は指の力を抜いた。スマホは健太の手に移った。
健太はスマホを胸の前で握りしめて、里美を見下ろした。顔が赤いのは、シャワーのせいだけではなかった。
「人の携帯、勝手に見るとか、ありえないだろ」
「鳴ってたから」
「鳴ってたら見ていいのかよ。何様だよ」
「ロック、かけてないのは健太でしょ」
「かけてないのは、お前を信用してたからだろうが」
里美は、健太の顔を見上げた。
健太は自分の言ったことの意味に、言い終えてから気づいたようだった。口を開けたまま、次の言葉を探していた。
「……信用してた?」
「そういう意味じゃなくて」
「どういう意味」
「だから、お前がそういうことする人間だと思ってなかったってこと。こそこそ人の携帯見るような」
健太はタオルを床に投げた。濡れたタオルがフローリングに落ちて、べしゃりと音を立てた。
「だいたいさ、最近のお前、俺に興味ないじゃん。帰ってきても黙ってスマホ見てるし。飯のときもそうだし。俺が何言っても、うん、そうだね、で終わりだろ」
「……」
「俺だってさ、話したいことくらいあるんだよ。仕事のこととか。でも、お前、聞いてないじゃん」
健太は、息継ぎもしないで続けた。
「それにさ、お前、俺と結婚したいとか、一回も言ったことないだろ。先のこととか、なんも言わないじゃん。こっちは、お前が何考えてんのか、全然わかんねえんだよ」
「……言おうとしたよ」
「いつ」
「金曜も」
「金曜?」
健太は眉を寄せた。本当に思い出せないという顔だった。
「何の話だよ。金曜、パスタ食っただけだろ」
「更新の話、した」
「ああ、あれ? あれが?」
健太は鼻で笑った。
「わかるわけないだろ、そんなの。部屋の話じゃん」
里美は口を開いた。何か言おうとした。金曜の夕食で、紫陽花の話をしたことを。更新の話をしたことを。九月の従妹の結婚式の葉書を、冷蔵庫に貼ったままにしていることを。
言葉は出てこなかった。代わりに、喉の奥から、短い音が漏れた。
笑い声だった。里美は、自分が笑っていることに驚いた。
「何笑ってんだよ」
「ビストロ」
「は?」
「中目黒の、川沿いの。窓にランプが並んでるとこ」
健太の顔から、赤みが引いていった。
「二十一日の土曜、七時。予約したんだね」
「それは……」
「私の誕生日には、忘れたのに」
「あのときは本当に忙しかったんだって。三月は繁忙期だって、毎年言ってるだろ」
「うん。知ってる」
里美は、自分の手のひらを見た。さっきまでスマホを持っていた手のひらに、ケーブルの跡が一本、赤く残っていた。
「コンビニのケーキ、おいしかったよ」
健太は何も言わなかった。
「ホワイトデーのお返しも兼ねてって言ったよね。私、笑ったよね」
「……」
「写真も撮ってたよね、あのとき。ケーキと私の。あれ、どこにやったの」
「知らねえよ、そんなの」
「高尾山の写真は、使ってるのに」
健太が、息を吸った。
「私が撮ったやつだよね、あれ。頂上で。右下に私の影が写ってたの、切ったんだね」
「……ほかに、いいのなかったから」
健太の声は、それまでより低かった。言ってから、健太は自分の足もとのタオルに目を落とした。
「あの写真、健太、気に入ってたもんね。待ち受けにもしてたでしょ、しばらく」
「……」
「私が撮った写真で、私のいないところに行ってたんだね」
健太は顔を上げなかった。濡れたタオルの端から、フローリングの継ぎ目に水が一筋、細く伸びていた。
里美はソファから立ち上がった。膝が震えていた。立つと、健太の顔が、さっきより近くなった。シャンプーの匂いがした。二人で同じボトルを使っている、柑橘の匂いのするシャンプーだった。
「いつから」
「……」
「いつから」
「三月、くらい」
「十六日」
健太が顔を上げた。
「最初のメッセージ。三月十六日だった。私の誕生日の、二日後」
「全部読んだのかよ」
「全部は読んでない。読みきれなかった」
健太は、何かを言いかけてやめた。それから、ソファの肘掛けに腰を下ろし、両手で顔をこすった。濡れた前髪が、指のあいだから額に垂れた。
長い息を吐いた。
「……悪かったよ」
里美は立ったまま、健太の頭のつむじを見ていた。つむじのまわりの髪が、まだ濡れて束になっていた。
「悪かった。ほんとに。でも、本気じゃないから」
健太は顔を上げた。目が、赤かった。
「彼女は遊びだよ。本命はお前だけだって」
里美は、その言葉を聞いた。
聞いたあとで、それが耳から入って、胸のあたりまで下りてくるのに、時間がかかった。遊び。本命。
健太の口から出たその言葉は、健太が仕事の電話で「こちらが本命の物件でして」と言うときと、同じ抑揚をしていた。
「遊び」
「そう。ほんとに、ただの暇つぶしっていうか。向こうだって、そんなに本気じゃないって。若いし」
「若いし」
「そういう意味じゃなくて」
「ユイさんには、なんて言うの」
「え?」
「私にばれたって。別れるって。なんて言うの」
健太は、困ったように首の後ろをかいた。
「別に、言わなくてもいいだろ。返事しないでいれば、そのうち向こうも」
里美は、健太の顔を見た。健太は、それが当たり前のことのように言っていた。ビストロの予約も、そのうち取り消すつもりなのだろうと思った。あるいは、取り消すのを忘れて、二十一日の七時に、窓際のランプの席が一つ空いたままになるのかもしれなかった。
「二十四」
「……」
「私が二十四のとき、健太とここに住んでたよ」
健太は、また顔を両手でこすった。
「だから、お前とは違うんだって。七年だぞ。七年一緒にいて、そんなの、比べるようなもんじゃないだろ。お前は、なんていうか、家族みたいなもんで」
里美は、ローテーブルの上の腕時計を見た。銀色のベルトの輪が、天井の明かりを受けて光っていた。
「その時計」
「え」
「写真に写ってた。グラスの向こうに」
健太は腕時計を見た。手を伸ばしかけて、止めた。
「家族みたいなもの、の人がくれた時計、つけて行ったんだね」
健太の肩が、びくりと動いた。
里美は、自分の両手を握った。爪が手のひらに食いこんだ。握っていないと、何かをつかんで投げてしまいそうだった。ローテーブルの上の時計でも、スマホでも、リモコンでも、なんでもよかった。
投げなかった。代わりに、腕時計を取り上げて、健太の膝の上に置いた。そっと置いた。秒針が、健太の膝の上で回っていた。
「別れよう」
健太が、里美を見上げた。
言ってから、里美は自分の口がその四文字を形づくったことを、確かめるように唇を閉じた。
冷蔵庫の低いうなりが聞こえた。今まで一度も気にしたことのない音だった。電気代が上がっていたのは冷蔵庫のせいじゃないかと、金曜の夜に健太が言っていた。その冷蔵庫の扉には、まだ従妹の葉書が、「ご出席」に丸をつけたまま留まっていた。
「は?」
「別れよう」
「ちょっと待てよ。そこまでの話かよ」
「そこまでの話だよ」
「七年だぞ。七年を、こんなので」
健太は手を伸ばして、里美の肩をつかもうとした。里美は後ろへ下がった。ふくらはぎがローテーブルの角にぶつかって、鈍い痛みが脚の裏側を走った。里美は声を出さなかった。健太の手は、里美の肩のあった場所で止まって、行き場をなくしたまま下ろされた。
「こんなの」
「だから、そういう意味じゃなくて!」
健太が立ち上がった。膝から腕時計が滑って、床に落ちた。硬い音がした。健太は拾わなかった。
「アプリ消す。今消すから。見てろよ、ほら」
健太は自分のスマホを掲げて、画面に指を押しつけた。橙色のアイコンが震えはじめて、その上に小さな×印が浮かんだ。
「消すとこ、見せなくていい」
健太の指が止まった。
「見せなくていいから」
アイコンは、震えたまま画面に残っていた。
健太はスマホを持った手を下ろした。しばらく、二人とも黙っていた。テレビでは、夜のスポーツニュースが始まっていた。野球の結果を読み上げる声が、場違いに明るかった。里美はリモコンを取って、テレビを消した。
雨の音が聞こえた。
「……出てって」
「は?」
「今夜、出てって」
「今から? 夜の十時だぞ。外、雨だぞ」
「知ってる」
「どこ行けっていうんだよ」
「吉川くんのとこでも、どこでも」
ユイさんのところでも、と言いかけて、里美は口を閉じた。
「なんで俺が出ていくんだよ。家賃、半分払ってきただろ。七年ずっと」
「うん。だから、今月分は返す。明日振り込む」
「そういう話じゃ……」
「ここ、私の名前で借りてる部屋だから」
健太は口を開けて、それから閉じた。
七年前、不動産屋のカウンターで、契約書に名前を書いたのは里美だった。健太は隣で、「俺の会社のほうが仲介手数料安いのに」と言っていた。保証会社の書類も、火災保険の書類も、二年ごとの更新の書類も、里美の名前で書いた。
「……わかったよ」
健太は、床に落ちたバスタオルを拾った。拾って、どこに置くか迷ってから、ソファの背に掛けた。
「わかった。今夜は出る。でも、ちゃんと話そう。落ち着いたら」
里美は答えなかった。
健太は廊下に出て、玄関の手前で電話をかけた。声を低くしていたけれど、狭い部屋だから、全部聞こえた。
「悪い、吉川。今夜、泊めてくんない? ……いや、ちょっと。……うん。……あとで話す。……悪い。ほんと悪い。三十分くらいで行く」
電話を切ると、健太はスマホの画面を何度か叩いた。タクシーを呼ぶ画面の、地図の上の小さな車の印が、里美のところからも見えた。
健太は寝室に入り、押入れを開けた。上の段から、黒いボストンバッグを引きずり出した。ジムに通っていたころに買って、三回しか使わなかったバッグだった。
里美は寝室の入り口に立って、それを見ていた。
健太は引き出しからワイシャツを三枚取り出した。アイロンがかかっているのは一枚だけだった。今夜かけておくと言った残りの二枚は、しわのまま、バッグの底に押しこまれた。靴下を五足、下着を五枚。ノートパソコンと、その充電器。スマホの充電器は居間に取りに行った。
クローゼットから、スーツを二着、ハンガーごと外した。ネクタイを三本、上着の内ポケットに押しこんだ。
洗面所へ行った。電動の髭剃りと、コンタクトレンズのケースと、洗浄液のボトル。それから、洗面台のコップから、自分の青い歯ブラシを抜いた。コップのなかに、里美の白い歯ブラシが一本残って、からんと縁に倒れかかった。
浴室の棚に手を伸ばしかけて、健太は振り返った。
「シャンプー、持ってっていい?」
「……二人で使ってるやつだよ、それ」
健太は、手を引っこめた。柑橘の絵が描かれた詰め替え用のボトルは、棚の上に残った。
健太は、それらを全部、ボストンバッグの隙間に詰めた。ファスナーが、途中で一度引っかかった。
居間に戻ってきた健太は、床の腕時計を拾った。里美のほうを見ずに、それを左の手首に巻いた。
「残りの荷物は、また取りに来るから」
「うん」
「連絡する」
「来る前に、必ず連絡して」
「……鍵は、持ってていいよな。荷物あるし」
里美は、健太のキーホルダーを見た。銀色の鍵が二本と、健太の実家の鍵と、七年前に伊豆で買った、木彫りの小さな魚。
「荷物、全部運び終わったら、返して」
健太は何か言いかけて、黙ってうなずいた。
健太は玄関で靴を履いた。ボストンバッグを右肩に掛け、スーツを二着、左の腕に抱えた。
傘立ての前で、健太は立ち止まった。
紺の傘の、曲がった持ち手を見下ろした。右手を伸ばしかけたが、右手にはスマホと、ボストンバッグの持ち手があった。左腕には、ハンガーに掛かったスーツが、ビニールのカバーもなく垂れていた。
「……タクシー呼んだから」
誰に言うともなくそう言って、健太は傘を取らなかった。
「里美」
健太が振り返った。
「俺、ほんとに、お前のこと」
「行って」
健太は口を閉じた。
ドアが開いた。外の雨の音が、急に大きくなって、湿った空気が玄関に流れこんだ。共用廊下の蛍光灯の下で、健太の背中が一度だけ、ボストンバッグの重さによろけた。
ドアが閉まった。
里美は、閉まったドアを見ていた。鍵は、かけなかった。かけ方を忘れたように、手が動かなかった。
階段を下りていく足音が、途中から雨の音に溶けた。
里美は居間に戻り、窓のカーテンを指で少しだけ開けた。
アパートの前の道に、タクシーが一台停まっていた。ハザードランプが、橙色に点滅して、濡れたアスファルトにその色を映していた。
健太が階段の下から走り出てきた。スーツを二着、頭の上に掲げていた。ハンガーの先が雨を受けて、布地の肩が見るまに黒く濡れていった。ボストンバッグが、走るたびに健太の腰にぶつかった。
後部座席のドアが開いて、健太の背中が吸いこまれた。ドアが閉まった。ハザードランプが消えて、ウインカーが右に点滅し、タクシーは線路沿いの道を駅のほうへ曲がっていった。
赤いテールランプが見えなくなるまで、里美はカーテンの隙間に立っていた。
それから、玄関に戻った。
傘立てに、傘が二本差してあった。里美の生成り色の傘と、健太の紺の傘。紺の傘は金曜の雨をもう吸いきって乾いていて、たたまれた布地のひだの一本一本が、きちんと揃っていた。
里美は、傘の持ち手に触れなかった。
玄関の明かりの下で、紺の傘は、生成り色の傘にもたれかかるように、ほんの少しだけ傾いていた。




