第二章 デジタルの亡霊
土曜の夜、健太が帰ってきたのは二時を過ぎてからだった。
里美は寝室で、鍵が回る音で目を覚ました。枕元の時計の緑色の数字が、二時十二分を示していた。玄関で靴を脱ぐ音がして、廊下を歩く足音が寝室の前を通りすぎ、そのまま浴室の折れ戸が開く音がした。
シャワーの水音が壁越しに聞こえた。
こんな時間に、と思ったところまでは覚えている。水音が止まる前に、里美はまた眠っていた。
土曜の昼間、里美は一人だった。健太は九時前にスーツを着て出ていった。
里美は掃除機をかけ、冷蔵庫の野菜室を拭き、溜まっていたレシートを家計簿のアプリに打ちこんだ。三時ごろ、杏奈からメッセージが届いた。
『紫陽花、最高でした! 雨でしたけど!』
写真が三枚ついていた。一枚目は、石段の両脇を青い紫陽花が埋めつくしている写真で、手前に傘の縁が写りこんでいた。二枚目は、しらす丼。三枚目は、濡れた石畳の上に並んだ、からし色の長靴の爪先と、その隣の、泥のはねた男物の白いスニーカーだった。
里美は三枚目を指で広げた。長靴の爪先に、雨粒が一つ乗っていた。
『きれい。長靴、似合ってるね』
そう返すと、すぐに、両手を上げて喜んでいる猫のスタンプが返ってきた。
里美はスマホを置いて、窓の外を見た。向かいの家の塀の上で、濡れた紫陽花が三つ、重そうに首を垂れていた。毎年咲いているはずなのに、それが紫陽花だと気づいたのは、その日が初めてだった。
日曜の朝、健太は十一時四十分まで起きてこなかった。
里美は八時に起きて、洗濯機を回した。空の色は白く、雨は降ったり止んだりしていた。浴室乾燥のスイッチを入れて、物干し竿にハンガーを掛けていく。
健太が昨日着ていったワイシャツは、洗濯かごのいちばん上に丸めて放りこまれていた。襟の汚れを落とそうと広げたとき、甘い匂いがした。桃のような、熟れすぎた果物のような匂いだった。家の柔軟剤は無香料のものを使っている。
居酒屋のトイレの石けんか何かだろうと思った。そう思って、里美はワイシャツの襟に部分洗い用の洗剤を塗り、洗濯機に入れた。
昼に焼きそばを作った。健太は寝癖のついた頭で食卓に座り、「二日酔い」と言って、麦茶を二杯続けて飲んだ。
「飲み、どうだった?」
「普通。店長が歌ってた」
「カラオケも行ったの?」
「二次会でな。帰りたかったんだけど、抜けられなくて」
健太は焼きそばを箸で持ち上げて、ソースの色の濃さを確かめるように眺めてから口に入れた。
「うまい。紅しょうがある?」
「切れてる」
「そっか」
食べ終わると、健太はソファに横になった。里美はその足もとで、乾いた洗濯物を畳んだ。健太のボクサーパンツ、靴下、里美のブラウス。健太の足の裏が、ときどき里美の腰に当たった。
健太はスマホを顔の上に掲げて、親指を動かしていた。ときどき、喉の奥で短く笑った。
「何見てるの」
「動画。犬が階段下りれないやつ」
「へえ」
健太は画面を里美に向けなかった。里美もそれ以上聞かなかった。タオルを三つ折りにして、角を揃えて重ねた。
四時、里美はスーパーに出かけた。
「なんか要る?」
「アイス。あずきのやつ」
生成り色の長傘を差して、線路沿いの道を歩いた。雨は細かくて、傘を差すほどでもなかったけれど、閉じると髪がしっとりと重くなった。スーパーの入り口の傘袋を一枚引き抜き、傘を差しこんで、カゴを取った。
豚の肩ロースの薄切り、生姜、キャベツ、卵、牛乳。トイレットペーパーの十二ロール。レジ横の冷凍ケースから、あずきのアイスの六本入りを一箱取った。
帰り道、右手にトイレットペーパー、左手に買い物袋と傘を持つと、傘が斜めに傾いて、左の肩が濡れた。
夕食は生姜焼きにした。健太はテレビのバラエティ番組を見ながら、キャベツをほとんど残して、肉だけを先に食べた。
「明日から、また一週間か」
「うん」
「火曜に契約一件あんだよ。決まれば今月の数字いける」
「よかったね」
「まだ決まってないって」
健太は笑って、残ったキャベツを箸でまとめて口に押しこんだ。
里美が食器を洗っているあいだ、健太はソファでスマホを見ていた。里美がシンクを拭き終えて振り返ると、健太は画面から顔を上げずに言った。
「明日、弁当いらない。昼、外で客と食う」
「わかった」
「あと、ワイシャツ、アイロンかかってるのあと一枚しかないんだけど」
「今夜かけとく」
「頼むわ」
九時を過ぎて、健太が立ち上がり、伸びをした。
「風呂入ってくる」
左手首から腕時計を外して、ソファの前のローテーブルに置いた。二年前、健太の三十歳の誕生日に里美が贈った時計だった。銀色の細いベルトに、深い緑色の文字盤。デパートの売り場で三十分迷って選んだ。健太はそれから毎日つけていた。
時計の隣に、充電器につないだスマホが、画面を上にして置かれていた。
浴室の折れ戸が閉まる音がして、しばらくしてシャワーの音が始まった。
里美はソファに座り、テレビのリモコンを手に取った。バラエティ番組が終わって、ニュースが始まった。関東甲信の梅雨入りから三日目、週の半ばまで雨の日が続く見込みです、と気象予報士が言った。
ローテーブルの上で、スマホが震えた。
木のテーブルの天板に振動が伝わって、腕時計のベルトがかちゃりと鳴った。画面が明るくなった。
里美は、画面の上のほうに現れた白い帯を見た。見ようとして見たのではなかった。明るくなったものに、目が向いただけだった。
『ユイ(24)から新着メッセージがあります』
帯の左端に、橙色と桃色の混ざった、丸い小さなアイコンがあった。見たことのないアイコンだった。
画面が暗くなった。
里美はリモコンを持ったまま、しばらく動かなかった。
ユイ。二十四。会社の後輩か、取引先の人かもしれなかった。健太の勤める会社は若い人が多いと聞いていた。けれど、名前のあとに括弧で年齢が書かれる通知を、里美はこれまで見たことがなかった。
健太の電話帳の登録名には、そういう書き方はしない。「店長」「吉川」「母」「里美」。
金曜の夜、寝室の棚で伏せられたスマホの縁から漏れた光を、里美は思い出した。天井に一瞬だけ映った、薄い四角。
七年のあいだ、健太のスマホを見ようと思ったことは一度もなかった。見る必要がなかった。健太は隠しごとの下手な人だった。付き合いはじめたころ、里美の誕生日に用意していたネックレスの箱を、三日前に洗濯かごのなかで見つけてしまったことがある。健太はばつが悪そうに頭をかいて、「当日まで見なかったことにして」と言った。里美は当日、ちゃんと驚いたふりをした。
里美はリモコンをローテーブルの端に置いた。置いてから、それをまた手に取って、テレビの音量を二つ下げた。シャワーの音が、さっきより大きく聞こえた。
スマホがもう一度震えた。
『ユイ(24)から新着メッセージがあります』
里美は手を伸ばした。
充電器のケーブルが、スマホに引っぱられて、ローテーブルの縁でぴんと張った。画面を指で押し上げると、それだけで画面が開いた。
健太のスマホには、ロックがかかっていなかった。前からそうだった。「面倒だろ、いちいち」と健太は言っていた。里美はこれまで、それを見ようと思ったことがなかった。
開いた画面は、あの橙色のアイコンのアプリだった。最後に使っていた画面のままだった。
一覧の、いちばん上に「ユイ(24)」とあった。丸く切り抜かれた小さな写真のなかで、明るい茶色の髪の女の子が、片目をつむって舌を少し出していた。その下に「ミサキ(27)」「かな(25)」と並んでいて、どちらも最後のやり取りは三月の日付だった。
里美はいちばん上の名前に触れた。
画面が切り替わって、吹き出しが並んだ。右側に健太、左側にユイ。いちばん下の、いま届いたばかりの二つ。
『健ちゃん、いま何してる?』
『声聞きたいな〜』
健ちゃん。
健太をそう呼ぶ人を、里美は健太の母親しか知らなかった。
親指で、画面を上へなぞった。
『昨日はほんとにありがと!』のあとに、泣き笑いの顔の絵文字が三つ並んでいた。
『終電なくなったの、健ちゃんのせいだからね』
右側の吹き出し。
『ユイちゃんが帰りたくないって言ったんじゃん笑』
『次はちゃんと朝まで空けとくわ』
送信時刻は、今日の十四時八分と十四時九分だった。
十四時。里美は、ソファの足もとで洗濯物を畳んでいた。健太の足の裏が、ときどき腰に当たっていた。犬が階段を下りられない動画だと、健太は言った。
親指が勝手に動いて、画面をさらに上へ送った。
土曜の夜の吹き出しはなかった。代わりに、土曜の夕方に一枚の写真が送られていた。薄暗いカウンターの上に、細長いグラスが二つ並んでいる。片方には口紅の跡がついていた。グラスの向こうに、男の左手首が写りこんでいた。銀色の細いベルトと、深い緑色の文字盤。
里美は顔を上げて、ローテーブルの上の腕時計を見た。
腕時計は、さっき健太が置いたときのまま、ベルトの輪を上にして横たわっていた。秒針が文字盤の上を回っていた。
画面に目を戻した。
もっと上へ。五月。
『今度さ、中目黒の川沿いのビストロ行かない? 窓のとこにランプ並んでるとこ』
『ユイちゃん絶対好きだと思う』
『え、行きたい! 予約してくれるの?』
『もうした笑 二十一日の土曜。七時』
『健ちゃんすごい! かっこいい!』
『だろ?』
六月二十一日。再来週の土曜日だった。健太はその日も、きっと朝からスーツを着て出ていき、夕方に「会社の飲み」と送ってくるのだろうと思った。
二月の終わりに里美が送ったページと、同じ店だった。店の名前は書かれていなかった。書かれていなくても、窓際のランプで、わかった。
「今からじゃ無理だな」と言って、健太がスマホを閉じた三月の夜を、里美は思い出した。コンビニの蛍光灯の白さと、三角形の容器の角と、フィルムについたクリームをこそげるフォークの背。
吹き出しは、いくら上へ送っても尽きなかった。
いちばん上まで送ると、最初の吹き出しは、ユイのほうからだった。日付は三月十六日だった。里美の誕生日の、二日後だった。
『はじめまして! プロフィールの写真、高尾山ですか? 私も去年の秋に登りました〜』
『はじめまして。そうそう、高尾山。紅葉すごかったよ』
『いい写真ですね! 誰が撮ったんですか?』
『友達。男ばっかで行ったから笑』
里美はそこでいったん、画面から目を離した。
ユイの仕事の愚痴に、健太が長い返信をしていた。『ユイちゃんは悪くないって。その先輩がおかしい。俺だったら絶対そんな言い方しない』。三行、四行と続く吹き出しの最後に、ビックリマークが二つついていた。
ユイが夜中に『眠れない』と送ると、健太は三分後に『俺も』と返していた。その時刻、里美は健太の隣で眠っていたはずだった。
『健ちゃんって彼女いないの?』
『いないよ。いたらこんなことしてないって笑』
『えーほんとかなあ』
『ほんとほんと。ユイちゃんだけ』
里美は、そこで指を止めた。
指を止めたまま、画面の上に並んだ文字を、端から一つずつ読んだ。いたらこんなことしてないって。ユイちゃんだけ。
充電中のスマホの背が、手のひらに生温かかった。里美はそれを持ち直そうとして、指先が湿っていることに気づいた。パジャマのズボンの腿で指を拭い、もう一度持った。画面の上に、指の跡が薄く曇って残っていた。
浴室からは、シャワーの音が続いていた。健太はいつも、髪を洗ってから体を洗う。そのあと、湯船には浸からずに、もう一度頭からお湯をかぶる。十五分。長くて二十分。里美は壁の時計を見なかった。見なくても、まだ半分も過ぎていないことはわかっていた。
健太のスマホを持ったまま、里美は反対の手で自分のスマホを取った。健太とのやり取りを開いた。
『遅くなる』
『了解』
『牛乳ある?』
『ある』
『先寝てて』
『わかった』
健太からのいちばん新しいメッセージは、土曜の夜十時四分の『先寝てて』だった。その前は、水曜の『牛乳ある?』だった。絵文字は一つもなかった。
里美は自分の画面を、上へ送った。『了解』と『遅くなる』が、同じ間隔で並んで流れていった。四月、三月。三月十四日の夜の『ごめん 今駅』。
二月の終わりに、その吹き出しはあった。里美が送った、店のページの切り抜き。窓際に、小さなランプが並んでいる写真。
『ここ、行ってみたい』
『高そうだな』
『誕生日だし、だめ?』
『まあいいけど。予約しとく』
里美の吹き出しには、手を合わせている絵文字が一つついていた。健太の吹き出しには、何もついていなかった。
健太の画面に戻った。
一覧の上のほうに、健太自身のプロフィールを見る印があった。触れると、健太の写真が大きく出てきた。
山の頂上の、木の柵にもたれて笑っている健太だった。背景に、紅葉した尾根と、遠くかすんだ街が写っていた。
去年の十一月に、二人で高尾山に登ったときの写真だった。頂上の柵の前で、里美が自分のスマホで撮った。あのとき健太は「撮るならさっさと撮れよ」と言って、それでも最後にはちゃんと笑った。写真の右下の隅に、撮っている里美の影が、細く伸びて写っていたはずだった。その隅が、四角く切り落とされていた。
写真の下に、文字が並んでいた。
『けんた 三十歳 東京 不動産関係』
『休みの日は美味しいもの食べに行きたい派です。最近、一人で行けるお店開拓中。一緒に楽しめる人と出会えたらうれしい』
『独身』
三十歳。健太は、三十二だった。
里美は、自分がその文字を声に出して読んでいたことに、あとから気づいた。唇の形だけが、さんじゅっさい、と動いていた。
健太の年を二つ引いた数字は、里美の年と同じだった。
二十四。
ユイの丸い写真を、もう一度見た。明るい茶色の髪。片方だけつむった目の、まつ毛の長さ。
里美が二十四歳だったのは、この部屋に越してきた最初の年だった。会社の二年目で、商品ページの文章を一本書くのに一日かかっていた。冬になると、母に電話をかけながら筑前煮を作った。電話口で母が「れんこんは酢水にさらすの」と言い、健太が後ろから鍋を覗きこんで、「茶色いな」と言った。里美は菜箸で健太の手の甲をつついた。健太は笑って、つつかれた手で里美の肩を抱いた。
その年、健太は二十六だった。
里美は顔を上げた。
テレビの横の、カーテンを引き忘れた窓ガラスに、ソファに座る女が映っていた。首の後ろで、輪ゴムで髪を一つにまとめている。着ているのは、襟ぐりの伸びた、三年前に通販で買った灰色のTシャツだった。
三十歳だった。
画面の上に、また白い帯が降りてきた。
『健ちゃん? 寝ちゃった?』
帯は数秒で引っこんで、吹き出しの列のいちばん下に、同じ言葉が加わった。その横に、小さく「既読」の文字がついた。
里美は、その二文字を見た。
健太ではない誰かが、いまここで読んだという印が、ユイの画面にも届いているはずだった。ユイはいま、どこかの部屋で、自分のスマホを持って、その二文字を見ているのかもしれなかった。
里美は画面を閉じなかった。閉じても、もう遅かった。
ローテーブルの上で、腕時計の秒針が回っていた。テレビでは気象予報士が、明日の傘の予報を読み上げていた。関東南部、一日を通して雨、降水確率九十パーセント。
浴室で、シャワーの音が止まった。
水の音が途切れたあとに、蛇口からしたたる雫の音が、三つ、四つと続いた。換気扇が回る音がした。
里美は健太のスマホを両手で持っていた。充電器のケーブルが、ローテーブルの縁から、里美の膝まで張りつめていた。
浴室の折れ戸が、がたんと鳴った。




