第一章 心地よい沈黙
午後五時を過ぎたころから、九階の窓に細い雨の線が斜めに走りはじめた。
田中里美は画面の数字から目を上げて、ブラインドの隙間から外を見た。向かいのビルの屋上で、給水塔の脇に置かれた赤いコーンが一つ倒れている。昼休みに西村杏奈がスマホの画面をこちらに向けて、「関東、梅雨入りですって」と言っていた。今朝の天気予報では、夜まではもつと言っていたはずだった。
画面に目を戻す。梅雨特集「雨の日を、機嫌よく」の先週一週間の数字が、表のなかに並んでいた。特集ページへの流入は去年より多い。けれど、そこから商品ページへ進む人の割合が、去年の七割ほどしかなかった。
折りたたみ傘の二色展開、撥水加工の買い物袋、除湿剤を詰める麻の小袋。どれも写真はきれいに撮れている。白い背景に正面と斜め、それから使用イメージが一枚ずつ。
使用イメージを拡大した。モデルの女性が、雨粒一つついていない窓辺で、閉じた傘を胸の前に抱えて笑っている。窓の外は晴れていた。
里美は手元のノートを引き寄せ、ボールペンで余白に書いた。
――お客さんの、雨の日の写真?
書いてから、その横に疑問符をもう一つ足し、それから二つとも線で消した。
「田中さん、五時半から課長が十分だけって。例の梅雨のやつです」
仕切りの上から杏奈の顔がのぞいた。前髪を留めている黄色いピンが、蛍光灯の光を跳ね返した。
「うん、いま数字見てた」
「やっぱり落ちてます?」
「落ちてる。入ってはきてるんだけどね」
杏奈は眉を下げて、「写真かわいいのになあ」と言いながら自分の席に戻っていった。
五時半、ホワイトボードの前の丸テーブルに、EC事業部の五人が集まった。飯島課長は老眼鏡を額に押し上げ、印刷した表を指の腹で叩いた。
「遷移率、去年の七割。原因の見当がついてる人」
誰もすぐには答えなかった。窓を打つ雨の音が、空調の音に混ざって聞こえた。
里美はノートを膝の上で開いていた。線で消した一行が、線の下からまだ読めた。
お客さんが自分の部屋や玄関先で撮った、雨の日の傘や長靴の写真。白い背景ではなく、濡れた玄関のたたきや、曇った窓ガラスの前に置かれた小物。投稿してもらって、特集ページの上のほうに並べる。モデルが晴れた窓辺で笑っている写真より、そちらのほうが、雨の日に画面をめくる人の指を止めるのではないか。
頭のなかでは、もう募集文の一行目まで浮かんでいた。けれど、投稿の権利関係をどうするのか、集まらなかったらどうするのか、と聞かれたときの答えは、まだ用意できていなかった。
「バナーの位置、上げてみたらどうですかね」
口を開いたのは石原だった。里美より五つ上で、去年の梅雨特集を担当した人だった。
「トップの三段目だと、スマホだとスクロールしないと見えないんで。二段目に上げて、画像を差し替える」
「無難だな」
飯島課長は老眼鏡を鼻の上に下ろし、表に赤ペンで丸をつけた。
「ほかには」
課長の目が、テーブルの上を一巡した。里美のところで、ほんの一拍止まった気がした。
「田中さん、何かある?」
里美はノートの端を親指で押さえた。
「いえ。バナーの差し替え、月曜中に対応します」
「じゃあそれで。石原くん、画像の指示だけ出しといて」
椅子を引く音が重なった。里美はノートを閉じた。隣で杏奈が一瞬こちらを見たが、何も言わずにペンをしまった。
六時を過ぎて、更衣室の前の廊下で杏奈に追いつかれた。杏奈はもう通勤用の白いスニーカーに履き替えていて、手には新品らしい長靴の箱の入った紙袋を提げていた。
「見てください、これ。買っちゃいました」
箱のふたを持ち上げると、からし色のゴム長靴が並んで入っていた。
「明日、こうちゃんと鎌倉行くんです。明月院の紫陽花。雨でも行くって決めてて。雨のほうが紫陽花きれいだって、こうちゃんが」
「いいね。晴れても雨でも」
「でしょう。帰りにしらす丼食べて、小町通りで豆菓子買って、それで終わりの予定です」
杏奈は紙袋を胸に抱えて、それから思い出したように顔を上げた。
「田中さんは? 週末」
「特にないかな」
「えー。岡本さんとどっか行かないんですか」
「向こう、土日は仕事のことが多いから」
「あ、そっか。不動産屋さんでしたっけ。土日が本番なんですよね」
「そう。休みは水曜と、隔週の日曜」
「じゃあ日曜は?」
「どうだろう。寝てたいって言うと思う」
杏奈は「もったいない」と言いかけて、途中で口を閉じ、代わりに笑った。
「月曜、紫陽花の写真見せますね」
「うん。見せて」
エレベーターの扉が閉まるまで、杏奈は紙袋を持っていないほうの手を振っていた。
雨は、駅に着くころには本降りになっていた。
私鉄の各駅停車は混んでいた。濡れた傘の先が何本も床に向けられ、座席の前の床に細い水の筋ができていた。里美はドアの脇に立ち、窓ガラスに映る自分の顔の向こうを、雨ににじんだ住宅の明かりが流れていくのを見ていた。
隣の女子高生が二人、片方のスマホを覗きこんで笑っていた。画面には、水たまりに映った信号機の写真があった。赤い光が、水面で細かく揺れて割れている。
「これ撮ったの、うちの弟。小四」
「え、うま。なんか雑誌みたい」
里美は窓のほうへ顔を戻した。胸の前に抱えた鞄のなかで、ノートの角が肘に当たっていた。
二十分揺られて、駅を出る。改札の前で、傘を持たずに出てきた人たちが、軒下に並んで空を見上げていた。里美は鞄の底から若草色の折りたたみ傘を出した。去年ハルノテで出した商品の見本で、骨の一本がほんの少し曲がっている。
商店街を抜け、線路沿いの道を歩く。パン屋はもうシャッターを下ろしていた。クリーニング店の前を過ぎ、角の自動販売機を右に曲がると、二階建てのアパートが見えてくる。外壁の薄い灰色が雨を吸って濃くなっていた。
階段を上がって、二階のいちばん奥のドアを開ける。
玄関のたたきに、健太の革靴が片方横倒しになって脱ぎ捨ててあった。先に帰っているらしい。
傘立てには、長い傘が二本差してあった。里美の生成り色の傘と、健太の紺の傘。生成り色のほうは乾いていて、紺のほうは布地の先から雨水が垂れ、傘立ての底に小さな水たまりを作っていた。
里美は折りたたみ傘を広げたまま玄関の隅に置き、健太の靴を揃えた。
この部屋に越してきた日も、雨だった。
七年前の六月の、たしか土曜日だった。健太が大学の友人の吉川から軽トラックを借りてきて、吉川本人も手伝いに来てくれた。午前中は曇っていたのに、荷台の段ボールを半分ほど下ろしたところで降りだした。傘はどれも、荷台のいちばん奥の箱に詰めてしまっていた。
健太が走って角のコンビニまで行き、ビニール傘を一本だけ買って戻ってきた。
「一本しかなかった。最後の一本」
そう言って、濡れた髪をかき上げながら笑った。
里美が「食器 われもの」と油性ペンで書いた箱を抱えて、健太がその上に傘を差しかけた。二人でトラックとアパートの階段を往復した。傘は箱の真上にあって、健太の左肩は、二往復目にはもう色が変わっていた。
「健太、濡れてるよ」
「俺はいいの。皿が割れたら困るだろ」
ビニールの縁から垂れた水が、里美の首筋に一滴入った。冷たくて声を上げると、健太はまた笑った。
最後の箱を運び終えて、二人でこの階段の上の軒下に立った。吉川はトラックの運転席で煙草を吸っていた。健太はビニール傘を閉じて、手すりに立てかけた。
「いい部屋だな、ここ。里美、見つけるのうまいよな」
部屋は里美が不動産屋を三軒回って見つけた。契約書の名前も里美だった。健太は自分の勤め先の物件を勧めたがったけれど、里美はこの部屋の、南向きの窓と、台所の小さな出窓が気に入っていた。
あのビニール傘は二年ほど傘立てにあって、ある年の台風の日に、駅からの帰りに骨が三本折れた。
「おかえり」
居間のほうから、健太の声がした。
「ただいま。雨、すごかったね」
「ああ。駅から走った」
健太はグレーのソファに寝そべって、スマホを顔の上に掲げていた。ワイシャツの袖をまくったまま、靴下も履いたままだった。
五年前にソファを買い替えたとき、里美はからし色のほうがいいと言った。健太は「汚れが目立つだろ」と言って、グレーのほうを店員に指さした。里美はそれ以上言わなかった。からし色のソファがこの部屋にあったらどうだったか、いまでもたまに考える。
里美は台所に立ち、鍋に水を張った。冷蔵庫には茄子が二本とベーコンの残りがあった。茄子を半月に切って塩を振り、フライパンにオリーブオイルを引く。ベーコンの脂が溶けだす音がして、換気扇がそれを吸いこんだ。
ソファのほうから、動画の笑い声がかすかに聞こえた。
七時半、テーブルに皿を二つ並べた。健太はスマホを持ったまま椅子に座り、フォークを取った。
里美も自分のスマホを皿の横に置いた。会社の連絡用のチャットに、石原からバナー画像の指示書が届いていた。親指で開いて、スクロールする。
向かいで健太の親指も、画面の上を滑っていた。
フォークが皿に当たる音と、二人の親指が画面をこする音がした。窓の外では、雨どいから溢れた水が、一階の庇を叩きつづけていた。
「来月の家賃、振り込んでおいたよ」
健太が画面から目を離さずに言った。家賃は里美の口座から引き落とされていて、健太は毎月、自分の半分をそこへ振り込む。
「うん、ありがとう。光熱費は私の方で」
里美も顔を上げずに答えた。
「電気、先月より上がってた。まだエアコン使ってないのに」
「ふーん。冷蔵庫じゃね? 古いし」
「そうかも」
「あ、あと、トイレットペーパー切れそう」
「明日買ってくる」
「助かる」
健太はそこで笑った。里美に向けた笑いではなかった。画面のなかの何かに向けて、鼻から短く息を漏らしただけだった。
里美は茄子を一切れ口に運んだ。塩が足りなかった。
「そうだ、明日、仕事のあと会社の飲みあるから。遅くなる」
「何時ごろ?」
「わかんない。終電かな。先に寝てていいよ」
「日曜は休み?」
「休み。隔週のほう」
里美はフォークを置いた。
「日曜さ、どっか行かない? 杏奈ちゃん、明日鎌倉に紫陽花見に行くんだって。明月院の」
「鎌倉?」
健太はようやく顔を上げた。
「この時期の鎌倉なんか、人しかいないだろ。駅から寺まで行列だぞ」
「……そうだね」
「日曜は寝かせて。今週ずっと内見続きでさ。昨日なんか一日に六件だぞ」
「うん」
健太はまた画面に目を落とした。
里美は皿の上のベーコンの端をフォークの先で寄せた。
言いたいことは、紫陽花のことではなかった。紫陽花でなくてもよかった。日曜に二人でどこかへ出かけることでも、出かけないことでもなかった。
冷蔵庫の扉に、マグネットで一枚の葉書が留めてある。九月に式を挙げる従妹からの招待状の返信用で、「ご出席」に丸をつけ、「ご」の字に二重線を引いたまま、まだポストに入れていなかった。従妹は里美より四つ下だった。
「健太、あのさ」
「ん」
「来年の六月、またここの更新でしょ」
「そうだっけ」
「八年目。二年ごとだから」
「ああ。もうそんなか」
「このままでいいのかなって」
健太は画面をスクロールしながら、「いいんじゃね?」と言った。
「駅から近いし、家賃も上がってないし。引っ越すの面倒だろ」
「……うん。そうだね」
里美が言いたかったのは、部屋のことでもなかった。この先、この部屋で二人がどうなるのか。更新の書類に、いつまで里美の名前だけが書かれるのか。三十になった春から、何度も口の手前まで来ては、そこで止まっていた言葉だった。
健太はスマホを持ったまま、残りのパスタを三口で片づけた。
「ごちそうさま。うまかった」
皿をシンクに置く音がした。水は流さなかった。
「あ、そうだ。お盆、うちの実家な。母さんが十三日から来いって」
健太はシンクの前に立ったまま、冷蔵庫から麦茶のポットを出して、口をつけずにグラスに注いだ。
「十三日から?」
「三泊くらい。親戚も来るっていうから」
「私、有休の申請、まだ出してない」
「じゃあ出しとけよ。早いほうがいいだろ」
里美は空になった自分の皿を見た。
「うちの実家、去年のお盆も行ってないんだけど」
「お前んちは正月でいいじゃん。近いんだし」
里美の実家は、高崎の駅からバスで二十分のところにある。近いといえば近かった。去年の正月は、健太が風邪をひいたので行かなかった。
「……そうだね。申請出しとく」
「頼むわ」
健太は麦茶を飲み干し、グラスを皿の隣に置いて、ソファに戻っていった。テレビがついて、野球中継の歓声が部屋に流れこんだ。
里美は立ち上がり、二人分の皿とグラスを洗った。健太のフォークの先に、茄子の皮が一枚貼りついていた。スポンジでこすっても取れなくて、爪の先ではがした。
洗った皿を水切りかごに立てかけながら、里美は窓の外を見た。台所の出窓の磨りガラスに、雨粒がいくつも張りついて、外の街灯の光をにじませていた。越してきた最初の夏、この出窓にバジルの鉢を置いていた。健太が水をやりすぎて、八月の終わりに根が腐った。それから出窓には、洗剤の詰め替え用の袋が立てかけてある。
三月十四日の、三十歳の誕生日のことを、里美は思い出していた。
二月の終わりに、中目黒の川沿いにあるビストロのページを健太に送った。窓際に小さなランプが並んでいる店で、会社の同期が恋人と行った話を聞いてから、一度行ってみたかった。
『高そうだな』と健太から返ってきて、『誕生日だし、だめ?』と送ると、『まあいいけど。予約しとく』と返ってきた。
当日、健太は八時過ぎに帰ってきた。玄関で靴を脱ぎながら里美の顔を見て、そこで思い出したようだった。
「あ。ごめん、忘れてた」
それからスマホで店の空きを調べて、「今からじゃ無理だな」と言い、二人で角のコンビニまで歩いた。三月の夜の、冷たい霧雨が降っていた。
健太は冷蔵ケースの前で、三角形のプラスチックの容器に入った苺のショートケーキを二つ取った。
「ホワイトデーのお返しも兼ねてってことで。な?」
里美は笑った。自分が笑ったことを、よく覚えている。
部屋に戻って、容器のふたを開けた。健太はケーキの側面に巻かれた透明なフィルムをはがし、そこについたクリームをフォークの背でこそげて舐めた。それから、スマホで里美とケーキの写真を一枚撮った。その写真がどこへ行ったのか、里美は知らない。
苺は酸っぱかった。
食器を洗い終えて、里美がシャワーから出ると、健太はもう寝室の明かりを消していた。
ダブルベッドの窓側が健太で、ドア側が里美だった。越してきた最初の年に、なんとなくそう決まった。
里美はタオルで髪の水気を取りながら、暗がりのなかで布団に入った。健太は壁のほうを向いて横になっていた。枕元の棚に置かれたスマホは、画面を下にして充電器につながれていた。
背中と背中のあいだに、指二本ぶんくらいの隙間があった。健太のTシャツ越しの体温が、その隙間を渡ってほんのりと届いた。
「おやすみ」
「……ん」
しばらくして、健太の呼吸が長く、深くなった。
里美は目を開けたまま、ドアのほうを向いていた。雨の音はさっきより細くなっていた。雨どいの継ぎ目から水の落ちる音が、一定の間隔で続いていた。
そのとき、背後の棚で短い振動の音がした。
里美は首だけ動かして振り返った。伏せられたスマホの縁から、白い光が細く漏れて、天井に薄い四角を一瞬だけ映した。すぐに消えた。
健太は寝息を乱さなかった。
里美はもう一度ドアのほうを向いて、布団を肩まで引き上げた。天井にはもう何も映っていなかった。雨どいの水の音だけが、同じ間隔で落ちつづけていた。




