綻び
特設ステージの上に一枚の緑色のフェルトマットと、一基の折りたたみテーブルが設置された。
客席を埋め尽くした観客が、固唾を飲んでステージ上の二人を見つめている。
野外ならではの賑やかなざわめきが急速に引き、秋の冷たい風だけがステージの床を吹き抜けていく。
「ルールはシンプルだ。ファイブカード・ドローのポーカー。チップの代わりに、持ち手札の枚数を賭ける」
俺はデックをテーブルの中央に置き、両手を大きく広げて見せた。
「ディーラーはサークルの吉野君。お互いにカードを五枚ずつ配り、一度だけチェンジの機会を得る。……不服はあるか、河野代表?」
「フッ、構いませんよ」
対面に座った河野は、スラックスのポケットに両手を突っ込んだまま、薄く笑った。
先ほどまでの感情的な怒りはきれいに拭い去られ、その瞳には冷静で冷酷な光が戻っていた。
「ただし七瀬さん。負けた方は、自分の発言がすべて出鱈目であったと観客の前で頭を下げ、この場から即座に立ち去る。……これでいいですね?」
「望むところだ」
吉野が緊張で硬直した手つきでデックを取り上げ、慎重にカードをシャッフルし始めた。
パサ、パサ、と拙いリフルシャッフルの音が響く。イカサマの介在しない、純粋な第三者によるディールだ。
「……配ります」
吉野の手から、五枚ずつのカードが俺と河野の前へ滑り込んでくる。
(ユウ、位置につけ)
俺はカードを伏せたまま、心の中で呟いた。
『了解……! あいつの背後に回るね』
観客の誰も気づかない。
河野自身も、自分の肩のすぐ後ろから視線が注がれていることなど夢にも思っていない。
河野が手札を顔の前に引き寄せ、扇形に広げて確認した。
その瞬間、俺の右耳のすぐ脇で、ユウの囁き声が響いた。
『ダイヤの3、スペードの8、ハートのJ、クラブのK、ハートの2。バラバラだよ、ノーペア』
(よし)
俺は自分の手札を一度も見ることなく、テーブルの上に伏せたままで言った。
「河野代表。貴方の手札は、ペアすら出来上がっていない……。役になりそうなのは、高配当のJとKくらいだ」
「……っ」
河野の眉が、ピクリと跳ねた。
彼は手札を伏せ、怪しむような鋭い視線を俺に向けてくる。
「何を聞きかじったか知りませんが、ブラフのつもりですか?」
「ハッタリかどうか、カードを変えれば分かりますよ。どうぞ、交換を」
河野は忌々しそうに歯を噛み締めると、三枚のカードを伏せて吉野に差し出した。
「……三枚、チェンジだ」
吉野が山札から新たに三枚を河野へ配る。
『チェンジ後は、Jのワンペア。残りはダイヤの2、スペードのQ、クラブのK!』
ユウの正確な伝達が飛ぶ。
俺は自分の手札をめくり、二枚を捨ててカードを引き直した。俺の手札はスリーカード。
「ショーダウンだ」
同時に手札を開く。
俺のスリーカードに対し、河野はただのJのワンペア。
「……くっ」
観客席から「おおっ!」と歓声が上がる。
「初戦は私の勝ちですね」
「……フン、ただの偶然だ」
河野は平静を装いながら、次のディールへと促した。
二戦目。
吉野がカードを配る。
『相手の手札、スペードの10、J、Q、K、ハートの5』
「チェンジなしで勝負」と俺が言えば、河野は慌てて一枚をチェンジした。だが届かず。俺は確実なツーペアで二連勝。
三戦目。
『相手は最初からクラブのフラッシュ出来上がり』
「フォールド」
俺が速やかに手札を捨てると、河野は、
「な……!?」
と声を漏らした。相手の強い役を事前に察知し、無駄な失点を避ける。
四戦、五戦と的確に勝利を積み重ねていった。
観客席がざわめき立つ。
対面に座る河野の額に、じっとりと嫌な汗が浮かび始めていた。
彼の佇まいが崩れ、呼吸が荒くなっていく。
(……効いてるぞ、ユウ)
『うん……! でも弦、あいつの目つき、すごく嫌な感じになってきたよ』
ユウの言う通りだった。
河野の瞳から人間らしい感情が消え、代わりに底知れない陰湿な殺気が宿り始めていた。
(来るぞ……本命が)
追い詰められたイカサマ師が最後に頼るもの。それは心理戦でもハッタリでもない。技術だ。
六戦目。
吉野が震える手でカードを配り終える。
河野が手札を拾い上げる。その瞬間だった。
彼の右腕の動き――ジャケットの袖口の微かな揺らぎを、逃さず捉えた。
手札を顔の前に持っていくごく自然な動作。だが、彼の右肘がわずかに内側へ絞られ、手首の角度が下を向いた。
彼の右手の中指と薬指が、手札の一番後ろにあったカードを滑らせ、上着の袖口の中に仕込まれたホルスターへと吸い込ませる。同時に、あらかじめ袖の中に潜ませていた別のカードが、重力と弾力を利用して手元へと滑り出してきた。
スリービングだ。
賭博においては最もシンプルかつ悪質なイカサマの技。
『……えっ!?』
耳元で、ユウの悲鳴のような声が響いた。
『弦! 大変! あいつの手札……急に変わった! ロイヤル・ストレート・フラッシュだよ!? 10、J、Q、K、A』
ユウの混乱した声が届く。
『なんで!? 配られた時はただのバラバラだったのに、一瞬で最強の役になってる! 手札が分かっても、これじゃ絶対に勝てないよ!』
「チェンジなしだ」
河野が、低く濁った声で言い放った。
彼の顔には先ほどまでの焦りは消え去り、邪悪な確信が張り付いていた。
「どうしました、七瀬さん? さっきみたいに私の手札を当ててみてくださいよ。……勝負しますか?」
河野はテーブルの中央に、自分の手札を伏せて置いた。
勝てるわけがない。
手札を読み切るという俺の演出は、最強役の前には無力化される。
客席の観客たちが、息を詰めて俺の選択を待っている。
「……なるほど」
俺はゆっくりと背もたれに身体を預け、手元でデックを静かに整えた。
「見事なスリービングだ」
河野の身体が、一瞬だけ硬直した。
「……何を言っている?」
「右肘の固定、手首の角度、そして衣服の摩擦音。……プロの技術としては七十点というところだな。腕の筋肉の引きつりを隠しきれていない」
「愚かな言いがかりを! 負けそうになったからといって、イカサマ扱いか!?」
河野がテーブルを叩いて立ち上がった。観客席がざわつく。
「貴方はプロ並の技術を誇っているようだが……気づいてはいませんか? このステージには、貴方の目に見えない観客がもう一人いるということを」
「は……? 目に見えない観客……?」
「一年前、貴方たちが夜の部室で何をしていたか。誰を追い詰め、何を奪おうとしたのか。……その存在が、今もこのステージの上で見つめているとしたら?」
「ふ、ふざけるな! またハッタリで誤魔化す気か!」
河野が怒号を上げる。俺は彼に視線を固定したまま、静かに右手の指先を掲げた。
(ユウ、あいつの右腕に全ぶっぱしろ)
『了解!!』
「それでは、種明かしです」
パチンッ!
俺が指を鳴らした、その瞬間だった。
ビシィィンッ!!
ステージの上に、凄まじい一陣の突風が吹き抜けた。
「うわっ!?」
観客たちの悲鳴。
ステージ横の機材がガタガタと激しく揺れ、マイクから「ゴォォォ」という重低音のノイズが響き渡る。
そして、その爆風の中心で、河野の右腕がまるで不可視の何者かに強烈に掴まれたかのように、跳ね上がった。
「な、なんだ!? 腕が……勝手に……!? 離せ!」
河野が左手で右腕を抑え込もうとするが、ユウの念動力は容赦なく彼の右肘を激しくシェイクする。
ガタガタッ!
次の瞬間。
激しく揺さぶられた河野の右袖から、バババッ! と音を立てて、大量のトランプが溢れ出した。
枚数にして数十枚。
重複した絵柄のカードが雨のように、ステージの床へバサバサと豪快に叩きつけられていく。
「あ……」
静寂。
緑のマットと木目調の床を埋め尽くした無数のカードに、観客の視線が一斉に集中した。
だが、河野は蒼白な顔のまま、すぐさま喉を鳴らして叫んだ。
「え、演出です! これは演出ですよ! 袖に予備のカードを仕込んでおいて、派手に散らす……そういう仕掛けのマジックです! 驚かせてすみません!」
必死に引きつった笑みを浮かべ、客席に向かって両手を広げる河野。
プライドと保身が、彼に土壇場の弁明を吐き出させていた。観客たちは、演出か……? と首をかしげかける。
俺は床に屈み、散らばったカードの中から三枚を拾い上げて掲げた。
「どうして同じスペードのAが、三枚も四枚も出てくるんです?」
観客の目が、俺の手元に釘付けになる。
「ポーカーのデックに、同じカードが複数存在する理由は一つしかない。手品ではなく……ただの悪質なイカサマだ」
「な……っ!?」
客席から、
「え?」
「同じカード?」
「マジでイカサマかよ!?」
と波のような非難のどよめきが上がり始めた。
逃げ道を完全に塞がれた河野の額から、滝のような汗が吹き出す。
その時。
河野の足元で、散らばったカードが一斉にサワサワと不気味な音を立てて蠢き始めた。目に見えない冷気がステージ上を渦巻き、彼の足首にまとわりつく。
「ひっ……!?」
河野の視線が、誰もいない目の前の空間へ打ち付けられた。
イカサマを暴かれ、逃げ場を失った恐怖と、目に見えない不気味な圧力が、彼の精神の最後の一糸を無惨にぶち切った。
「し……白石……!?」
河野の喉から、ヒューヒューと掠れた空気が漏れる。
「白石……お前……そこにいるのか……!?」
ガタガタと膝を震わせ、後ずさる河野。
「返せって言っただけなんだよ……!」
床に手をつき、錯乱したように首を激しく振る河野。
「俺は押してないぞ! 勝手に落ちたんだ! 俺のせいじゃないんだぁぁっ!」
惨めな叫びが、倒れたマイクに拾われ、大学全体へ響き渡った。
静まり返る観客席。
事故として片付けられていた一年前の事件の「裏側」が、当事者の口からこぼれ落ちた瞬間だった。
事態の異常さを察した警備員たちが、青ざめた顔でステージ下から一斉に駆け上がってくる。
「もう終わりだ」
マジックを汚し、一人の少女の命と誇りを奪った男の、惨めで無様な種明かしだった。




