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本物の奇跡

「押してない……! 俺は押してないぞ!」


河野は半狂乱になって泡を吹き、惨めに脚をばたつかせていた。


歪んだ顔から汗と涙を滴らせ、引きずられていく去り際、見苦しく叫び散らした。


「勝手に手を滑らせて落ちたんだ! 責任は感じているさ……だから俺がどれだけの思いで毎週お見舞いに通っていたか、お前らに何がわかるんだぁっ!」


『え……?』


小さな声が、俺の右耳のすぐ脇で響いた。


『私……死んで……ないの……?』


ユウの声が、激しく震えている。


「……死んで、ない……?」


俺の声も震えている。


一年前の雨の夜。追いつめられた恐怖、もみ合いの中での転落、そして深い闇。


俺たちは二人とも、ユウが命を落とし、幽霊となってボロアパートに漂着したのだと思い込んでいた。


「お前は幽霊なんかじゃない」


俺は固く握りしめた指先を見つめた。


「死んだと思い込むほどの恐怖と強い未練で、魂が肉体から弾き飛ばされていただけだ。お前は……生きてるんだよ、ユウ!」


『私……生き……てる……!』


その瞬間、ユウの姿が激しく明滅した。


「河野、病院はどこだ?」


「……大学附属病院だ」


「行くぞ! 病院だ!」


人々のどよめきを背に受けながら、俺はキャンパスの石畳を夢中で駆け抜けた。


『弦……! 体が……すごく引っ張られる……!』


拾ったタクシーの後部座席。


「持ちこたえろ! ここまで来て土壇場で消えられたら、今までが全部水の泡だぞ!」


『言い方……! でも、すごく遠くから……私を呼ぶ音が聞こえるの……』


「お前自身の声だろ! 絶対に手放すなよ!」


独り言がうるさかったせいだろう。俺は怯える運転手にお札を押し付け、ドアが開くと同時に病院へ飛び込んだ。


ナースセンターで事情をごまかしながら伝え、部屋を聞き出す。


目的の病室のドアを押し開けると、規則的な電子音が一定のリズムで部屋を満たしていた。


薄暗い部屋の中央。


幾本ものチューブと心電図のコードに繋がれ、酸素マスクをつけられた一人の少女が横たわっていた。


伸びた黒髪。白磁のように蒼白な肌。

毎日隣に浮いている、そしてポスターで見た彼女は静かに息をしていた。


『あ……』


俺の脇をすり抜けるようにして、温かい風がベッドの脇へと移動した。


ユウが、ベッドの上に横たわる「自分」を見おろしている。


彼女の手が、恐る恐る少女の頬へと伸ばされた。透き通る指先が肌に触れた瞬間、パチッと小さな火花のような光が弾けた。


『私……ずっと、ここで眠ってたんだ……』


ユウの瞳から、透明な粒がこぼれ落ちる。


『ありがとう、弦。私を見つけてくれて……名前を、思い出させてくれて』


彼女がゆっくりと振り返り、俺に向かって微笑んだ。


「礼なら、目覚めてから受け取る。……さっさと戻れ」


『うん』


ユウは小さく頷くと、ゆっくりと両腕を広げ、ベッドの上の自分の肉体へと重なるように倒れ込んだ。


溢れ出した青白い粒子が部屋全体を優しく包み込み、彼女の透き通る姿が、肉体の胸の中へと吸い込まれるように溶けていく。

直後。


ピピピピピ……!


心電図のモニターが激しいアラーム音を奏で始めた。

緑色の折れ線が大きく上下に跳ね上がり、酸素マスクの奥で、少女の胸が深く上下する。


「……っ!」


彼女の指先が、シーツを掴むように強く固まった。

長いまつ毛がかすかに震え、一度、二度と瞬きを繰り返す。


濁っていた瞳に命の光が宿り、焦点がゆっくりと合わさっていく。


「う……ん……」


酸素マスクの隙間から、かすれた吐息が漏れた。


俺はベッドの脇に寄り、彼女の顔を覗き込んだ。


巡らされた彼女の視線が、俺の姿を捉える。

数秒の静寂。彼女の瞳の奥で、散らばっていた記憶が急速に形を成していくのが分かった。


やがて、彼女の顔が、耳まで真っ赤に染まっていく。


彼女は酸素マスクを自分の手でわずかにずらすと、震える右手の指先で俺を指差し、ガラガラに掠れた声で言い放った。


「……あんた……っ。大勢の前で……人の下着の柄を……パネルにして公開したこと……一生……呪ってやるからね……!」


俺は思わず、口元を緩めた。


「一年の昏睡状態から奇跡的に目を覚ました人間の第一声がそれか?」


「うるさい……! 恥ずかしすぎて成仏……じゃなくて、正気に戻ったわよ!」


ベッドの上の白石優は、赤くなった顔でシーツを頭から被ろうと暴れ始めた。


その瞬間、ドアが激しく開き、アラーム音を聞きつけた医師と看護師たちが部屋へとなだれ込んできた。


大騒ぎになる室内。俺は静かに人混みを抜け、病室のドアへと後退した。


シーツの隙間から、優がこちらを睨みつけているのが見えた。


俺はポケットから、買い置いてあったカスタードプリンを取り出し、サイドテーブルの上にそっと置いた。そして、シルクハットの庇を軽く叩いて見せる。


彼女の唇が、動きだけで『バカ』と形作られた。

一ヶ月後。


『黒荘』の二〇一号室。

薄い壁の向こう――隣の二〇二号室から聞こえる目覚まし時計の音で目が覚めるのは、ここ最近の日常になっていた。


すっかり体力を取り戻し、退院して聖鳳大学へと復学した白石優は、もともと自分の借りていた部屋であった二〇一の隣、二〇二号室での生活を再開させていた。


学園祭の騒動以降、営業の依頼が増えていき、そのおかげで通帳の残高からは悲壮感が消えていた。それでも俺は、住み慣れたこのボロアパートを出る気にはなれなかった。


「ちょっと弦! このカード全然滑らないんだけど!」


俺の部屋の畳の上に敷いたフェルトマットの前で、優が不満そうに声を張り上げていた。


大学のノートと教科書が入ったリュックを部屋の隅に放り出し、ジャケットの袖を捲り上げている。


「パウダーは昨日塗った。お前の指先が汗ばんでるだけだ」


俺は座椅子に腰掛け、お茶を啜りながら言った。


「失礼ね! 乙女の指先に向かって変なこと言わないでよ!」


優は頬を膨らませ、手元のトランプを広げた。


当然ながら、今の彼女には何の能力もない。


トランプを空中になびかせることもできなければ、グラスを旋回させることもできない。

良くも悪くもただの人間だ。


だが、彼女の指先は、毎日練習を重ねたおかげで、かつての感覚を取り戻しつつあった。


俺から見ても十分に筋が良い。


「……ねえ、弦」


優がふと手を止め、畳の上のカードを見つめた。


「何だ?」


「私……本当に、もう浮かせられないんだよね」


「当たり前だろ。お前はもう幽霊じゃないんだからな」


「……だよね。たまにね、あんたの周りをトランプでグルグル回してた時のこと、思い出すの。……あの頃の方が、私、すごい助手だったんじゃないかなって」


優は少し寂しそうに笑い、自分の手を握りしめた。


タネも仕掛けもない、物理法則を超えたあの現象。

あれがあれば、どんなステージだって一瞬で支配できたはずだ。


だが。


「くだらない」


俺は湯呑みを畳に置き、立ち上がった。


「あの頃のお前は、ただの便利な仕掛けだ。俺が指を鳴らし、お前が裏で糸を引く。それは手品としては成立していても、二人でやるショーじゃなかった」


俺は彼女の前に歩み寄り、畳の上のカードを取り上げた。

手元で静かにカードを繰り寄せる。


「今のほうが、ずっといい」


「……え?」


優が目を丸くして俺を見上げた。


「お前が隣に立って、俺の視線誘導に合わせて動く。……人間の手で、人間の目を誤魔化すからこそ、マジックは面白いんだよ」


俺はデックを彼女の目の前に差し出した。


「それに……匂いだけ吸ってた頃より、隣で文句を言いながら直接食ってる今の方が、俺も買い甲斐がある」


優は一瞬、口を開けて俺の顔を見つめていた。

やがて、彼女の頬がわずかに赤らみ、いつもの強がりな笑みがその唇に浮かんだ。


「……ふん。相変わらず、素直じゃないんだから」


「事実を言っただけだ」


「はいはい、そういうことにしておいてあげるわよ!」


優は立ち上がり、畳の埃をパッとはたいた。


「さあ、行きましょ! 今日の講義が終わったら、午後はデパートの屋上イベントでしょ? 子供たちを驚かせて、美味しいプリン代、稼ぐわよ!」


「言われなくても」


ギシギシと鳴る木造アパートを出ると、昼下がりの陽射しが二人を迎えた。


売れないマジシャンと、新米アシスタント。


今日もまた、誰かを驚かせるためのステージへ向かう。

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