夜の部室
陽が沈み、キャンパスを包む光が橙色から深い濃紺へと溶けていく。
課外活動の時間を過ぎ、学生たちの姿が少なくなった構内は、昼間の賑やかさが嘘のように冷ややかな静寂に支配され始めていた。
俺とユウは、旧サークル棟の裏手、古い倉庫と生け垣に囲まれた暗がりに足を運んでいた。
二階の角に見えるのが、昼間に吉野と話した奇術部の部室の窓だ。その脇からは、錆びついた鉄製の非常階段が、湿ったコンクリートの地面に向かって一直線に伸びている。
「吉野は『部室から飛び出していった』と言っていたが、仮に誰かに追われて焦っていたんだとすれば、逃げ道は自ずと限られるな」
俺は暗がりの中で非常階段を見上げ、顎をしゃくった。
「あそこから裏へ降りて、この生け垣の脇を抜けて夜道へ走った……と考えるのが自然か」
『……』
隣からの返事がない。
ふと横に目を遣ると、ユウの姿がおかしかった。
彼女の半透明な身体が、ずれたテレビ画面のように、パチパチと不規則に歪んでいた。
「ユウ?」
『……あ……っ』
ユウが小さく喘ぎ、両手で頭を抱え込んだ。
『頭が……痛い……。すごく、冷たい……雨の音がする……』
「なにがあった?」
『止まらないの……! 入ってくる……!』
ユウが悲鳴に近い声を上げた瞬間、彼女の身体から一陣の冷気のような波動が弾けた。
周囲の生け垣の葉がサワサワと不自然に揺れ、地面の枯れ葉が舞い上がる。
同時に俺の脳裏にも、伝波するように情景が流れ込んできた。
視界が、不鮮明な雨の景色へと切り替わる。
冷たい雨が叩きつける、一年前の夜。
濡れたアスファルトが街灯の光を反射して怪しく光っている。
放課後、買い出しの途中で忘れ物に気づき、夜の旧サークル棟へ戻ってきた白石優。
暗い廊下を歩く足音。誰もいないはずの部室のドアの下から、わずかな明かりが漏れていた。
『――おい、次の札を配れ』
『焦るなよ。あいつはもう完全に引っかかってる』
ドアの隙間から聞こえてきたのは、低い笑い声と、ジャラリとした金属の重みのある音だった。
隙間から覗き込んだ部屋の中。
そこにあったのは、放課後の和やかな部活動の風景などではなかった。
長机の周りに集まっていたのは、現代表の河野と、サークルの幹部たち。
中央には、青ざめた顔で額から汗を流す、見覚えのない学生が一人、へたり込むように座っている。
卓上にうずたかく積まれていたのは、生々しい札束の山だった。
息を詰めて見つめていた優の指先が、恐怖と激怒で震える。
彼女はポケットからスマートフォンを取り出し、レンズをドアの隙間へと向けた。
カシャ。
静かな廊下に、あまりにも残酷な操作音が響き渡る。
『――誰だ!?』
室内の空気が凍りついた。
河野の鋭い視線がドアに向かい、一瞬で椅子が倒れる激しい音が鳴り響く。
『やばい、見られた!』
『追え! スマホを奪え!』
優は脱兎のごとく踵を返し、暗い廊下を駆け出した。
背後から追ってくる複数の激しい靴音。荒い息遣い。
表の玄関ではなく、非常口の重いドアを体当たり同然で押し開ける。
土降りの雨が打ち付ける、錆びついた鉄の非常階段。
滑る足元を必死にこらえながら階段を駆け下りようとした、その時――。
背後から伸びてきた力強い手が、優の腕を強烈な力で掴み上げた。
『ぐっ……!』
『返せ!!』
腕を強く引っ張られ、身体が大きく体勢を崩す。雨で濡れた鉄の手すりが視界で斜めに傾いた。
もみ合う衝撃の中で、必死に握りしめていたスマートフォンが手から離れ、暗闇のどこかへ弾け飛んでいく。
ガアンッ!
激しい鈍音と衝撃。
直後、視界が一瞬で真っ白な光に染まり、思考も、音も、すべての感覚がプツリと断ち切られた。
「ユウ!!」
俺の叫び声で、フラッシュバックが途切れた。
気がつくと、俺は膝を突き、荒い息を吐いていた。
隣では、ユウが畳みかけるような衝撃に耐えかねたように、空中でうずくまっていた。
彼女の半透明な身体は、ほとんど透けて消えかかりそうなほど薄くなっている。
『……思い出……した……』
ユウの声は、かすれた吐息のようだった。
『私……あの日……あの人たちが、友達からお金を騙し取ってるのを見ちゃって……。証拠を撮って、逃げようとして……』
「……その後、なにかがあったんだな」
俺の言葉に、ユウは力なく頷いた。
『うん……。雨で、暗くて』
彼女の瞳から、透明な粒がこぼれ落ちる。それは地面に届く前に空気中に溶けて消えた。
『私……あの人たちに追われて、道路に飛び出して……』
静寂が、夜の木陰を支配した。
マジックという、観客に夢と驚きを与えるための技術。
それを悪用して大金を貪り、それを告発しようとした少女を夜の暗闇へと追い詰めて死に至らしめた。
胸の奥から、煮えたぎるようなドロリとした熱感情が湧き上がってくる。
マジシャンとしてのプライドが、そして、目の前で涙を流す相棒の存在が、俺の理性を激しく揺さぶっていた。
「……河野」
俺は自分の掌を固く握りしめた。爪が皮膚に食い込み、鈍い痛みが走る。
「あいつらは、マジックを汚した。……それも、最悪の形でだ」
『弦……』
「人を騙して金を奪い、それを暴こうとしたお前の命まで奪っておきながら……あいつは今日、あの部室で『無念だ』なんて面をして笑っていたんだ」
『弦……どうするの……? 警察に言っても、もう一年も前のことだし……スマホだってなさそうだし、証拠なんて……』
「警察に言っても無駄だな。証拠もないし、奴らは『知らなかった、勝手に逃げ出したんだ』と言い逃れするだけだ」
俺はニヤリと口元を歪めた。
街灯の明かりが、俺の顔半分を暗い影で覆う。
「だから、マジシャンのやり方で決着をつける」
『え……?』
「あいつらが最も自信を持っている場所……大勢の観客の前、逃げ場のないステージの上で、奴らのイカサマと犯罪の『タネ』を、完全に暴いてやる」
俺は懐から、トランプを取り出した。
「学園祭のステージだ。河野は言っていたな、『ぜひお越しください』と」
『学園祭……? 何するの?』
俺は、消え入りそうな彼女の真っ直ぐな瞳を見つめ返した。
「あいつらが使っているのは、所詮、人をハメるための小細工だ。……俺たちが持っているのは、本物の奇跡だろ?」
ユウが息を呑んだ。
『……弦……』
「お前の奪われた命と、誇りを取り戻す」
俺がそう言い切ると、ユウの表情から怯えが消えていった。
彼女の身体を覆っていた青いノイズが静まり、ふわりと温かい光を帯びて元通りの輪郭を取り戻す。
彼女は小さく鼻を鳴らし、涙を拭う仕草をした。
『……ふん。相変わらず、言うことだけは一丁前なんだから』
「ハッタリじゃないと言っただろ。……行くぞ、相棒。最高のセットアップを始めるぞ」
夜のキャンパスを後にする二人の背中に、冷たい夜風が吹き抜けていく。




