聖鳳大学・奇術部
黒荘から電車と徒歩を合わせて二十分ほどの場所にあるのが、私立聖鳳大学だった。
昼下がりのキャンパスは多くの学生たちが行き交い、賑やかさに包まれていた。
サークル勧誘のビラが掲示板に乱雑に重ねて貼られ、広場のベンチではギターを抱えた学生がコードを弾いている。
「いいか、ユウ。俺たちの作戦は自然体だ。怪しまれたら終わりだぞ」
俺はジャケットの襟を軽く整えた。
使い古した革のトランクを片手に抱え、いかにも「業界の現場から立ち寄りました」という風情を漂わせながら、通路を歩く。
『ねえ弦。さっきから思ってたんだけど、その歩き方、なんか無駄に胸張ってて胡散臭いんだけど』
右肩のすぐ脇から、呆れたような声が届く。
「胡散臭いんじゃない。ハッタリだ。マジシャンにとって衣装と同じくらい重要なアイテムなんだよ」
『へいへい。まあ、門番の人に止められずに構内に入れたのは大したもんだけどさ』
大学の正門を抜ける際、俺は警備員に対して、さも当然といった顔で「卒業生です、サークルの顔出しに」と会釈一つで通過した。こういうものは、堂々としていれば誰も疑わない。
目指すは、キャンパスの奥に建つ古びた三層建てのサークル棟だった。
薄暗い階段を上がり、二階の廊下を進む。壁には演劇部や吹奏楽部の色褪せたポスターがひしめき、奥からは管楽器の音や不揃いな発声練習の声が漏れていた。
廊下の突き当たり。木製のドアに、手書きで『奇術部』と書かれたアクリルプレートが掲げられていた。
「よし、ここだな」
『……なんか、ちょっと緊張してきた』
ユウの声から、冗談めかしたトーンが消えた。
俺はドアを二度、軽やかにノック。
「はーい、どうぞー」
中から若い男の声が返ってきた。
俺は躊躇なくドアノブを回し、中へと一歩踏み込んだ。
部室の中は、十畳ほどの狭い空間だった。
壁際には使い込まれた木製の棚が並び、色褪せたベルベットの布、金属製のリング、プラスチック製のダイスなどが乱雑に詰め込まれている。部屋の中央にある大きな長机の上には、トランプのパウダーが白く散っていた。
机に向かって座っていたのは、メガネをかけた素朴な印象の男子学生だった。手元でトランプをぎこちなくシャッフルしていた彼は、見慣れないスーツ姿の俺を見ると、目を丸くして立ち上がった。
「あ、えっと……どちら様ですか? 見学ですか?」
「やあ、邪魔するよ。……懐かしいな、ここは相変わらずだね」
俺はトランクを片手で軽々と持ち上げ、空いている椅子の上に置いた。そして、胸ポケットから手帳を取り出す振りをする。
何もない手のひらの中から青いデック出し、指先の上で綺麗なファンを描いて広がる。
「……マジシャンの方ですか?」
男子学生の目が一瞬で輝いた。手品をやっている人間なら、その所作だけで相手のレベルがわかる。
「卒業生……OBの七瀬だ。仕事の合間に近くを通ったから、後輩たちの顔を拝みに来た」
「お、OBの方ですか! すみません、僕、二年の吉野と言います! 今、一人で自主練してて」
吉野と名乗った学生は、完全に警戒を解き、恭しく頭を下げた。
『……弦、あんた嘘つく時の顔、怖いくらい堂々としてるわね』
耳元で呆れ声が聞こえたが、無視する。
「いい練習環境だな。……最近の部の調子はどうだ? 新入部員は入っているか?」
「あ、はい! 今期は三人ほど入ってくれて。でも、道具の予算が厳しくて、この間の学園祭も昔の道具を引っ張り出して凌いだんです」
「学園祭か。昔からこの時期はバタバタするものだな」
俺は世間話を装いながら、部室の壁へと視線を滑らせた。
棚の横、コルクボードの端にピンで留められた一枚のポスターがあった。
『聖鳳大学 奇術部 定期発表会&学園祭ステージ』
一年前の日付が印刷された、少し黄ばんだポスターだ。
中央には、複数の部員たちが衣装を着て並んでいる集合写真が掲載されていた。
「……あ」
隣で、小さな息を呑む音がした。
空気の揺らぎが、ポスターの前へと移動していく。
俺もまた、その写真の右端に写っている人物に目を留めた。
黒髪のショートカット。手元でトランプを弾かせながら、屈託のない満面の笑みをカメラに向けている少女。
写真の下にあるクレジット。
『企画・演目担当:白石 優(二)』
「……私だ」
ユウの声が、かすかに震えていた。
『これ……私……。白石優……それが、私の名前……?』
彼女の手が、ポスターの表面をなぞるようにゆっくりと動いた。指先が写真をかすめるが、紙は微動だにしない。
俺は吉野に悟られないよう、自然な動作でポスターへと歩み寄った。
「……ふむ。一年前のポスターか。いい笑顔で写っている子がいるな。この『白石』さんというのは、今何年だ? 三年か?」
俺が指差すと、吉野の表情がふっと陰った。
「あ……優先輩ですか」
「どうした? 何かあったのか?」
吉野は部室のドアの方をチラリと気にするように視線を走らせてから、声を落として言った。とだ
「……優先輩は、一年前の学園祭の直前から、大学には来ていなくて」
「どういうこと?」
「夜、すごく焦った様子で部室から飛び出していったのを最後にして、そのまま連絡が取れなくなって……。後日、街の外れの川沿いで、先輩のカバンと靴だけが見つかったんです」
『え……私……?』
ユウの息を飲む気配が、俺のすぐ隣で硬直した。
「警察も調べたんですが、何もわからなくて。でも、当時の状況からして……川に落ちて、そのまま流されてしまったんじゃないかって。サークル内では、もう亡くなったものとして扱われています」
吉野は痛ましそうに目を伏せた。
「夜中にそんな場所で何があったんだ?」
「分からないんです。ただ……幹部の人たちは『男関係で夜の部室に忍び込んでいたんじゃないか』とか、『不純な動機で高価な道具を持ち出そうとして焦って逃げたんだ』なんて嫌な噂を流していて……。でも、僕たち後輩はそんなの絶対信じてません。優先輩は誰よりマジックが好きでしたから」
『……』
俺の隣で、ユウが悔しそうに息を詰める気配がした。
「……なるほどな」
「それに、事故があった日の夜、優先輩が誰かに追われるみたいに、何かから逃げるように走っていたのを見た部員もいるんです……」
吉野がそこまで話した、その時だった。
「誰か来ているのか?」
廊下から軽やかな足音が近づき、部室のドアがすっと開いた。
入ってきたのは、仕立ての良いシャツにスラックスを合わせた、背の高い男だった。
整った顔立ちに、柔らかく爽やかな笑みを浮かべている。髪型も整えられており、一見して育ちの良い好青年という印象を与える風貌だった。
「あ、河野先輩! こちら、OBの七瀬さんです」
吉野が慌てて姿勢を正した。
「OBの方ですか? 初めまして、代表の河野です」
河野と名乗った男は、爽やかな笑みを崩さないまま、俺に向かって会釈をした。
「卒業生の七瀬だ。近くに来たから、少し立ち寄らせてもらった」
「そうでしたか。遠いところをありがとうございます。吉野、ちゃんとお茶はお出ししたか?」
「あ、すみません! まだ……」
「七瀬さん、何ももてなせなくてすみませんね」
河野は親しげに笑いながら長机に近づき、そこに散らばっていたトランプのデックを手に取った。
そして、何気ない動作で、デックを片手だけでサラリとカットしてみせた。
――ワンハンド・カット。
その指の動きには、一切の無駄がなかった。手癖なのだろう。カードが擦れ合う音すら最小限に抑えられ、指の関節が吸い付くようにカードの束を割って戻す。
「吉野から聞きましたか? うちの部は今、道具のやりくりが大変でして。でも、みんなで協力してなんとか繋いでいるんです」
河野は穏やかなトーンで語りかける。
その瞳は澄んでおり、部を引っ張る頼もしいリーダーそのものだった。
「さっき、白石さんの話を聞いていたんだが……大変だったな」
俺にあえてその名を口にされると、河野の指先が、ほんの一瞬だけ、カードの側面の上で止まった。
「……ええ。白石さんのことは、今でも本当に心が痛みます」
河野は悲しげに眉を下げ、ゆっくりと首を横に振った。
「彼女は部の中心メンバーでしたから。あんな事故……あるいは事件に巻き込まれてしまうなんて。またみんなで、笑顔でマジックができればいいのですが」
彼の声は滑らかで、あまりにも乾いていた。
「そうか。……無事に見つかることを祈っているよ」
「ありがとうございます。七瀬さん、もしよろしければ、今度の学園祭ステージにもお越しください。後輩たちの励みになりますから」
河野は爽やかに微笑み、丁寧な動作で俺に礼をした。
「ああ、考えさせてくれ。……吉野君も、練習頑張れよ」
「はい! ありがとうございました!」
俺はトランクを手に取り、部室を後にした。
廊下に出て、階段を下り、サークル棟の建物を抜けるまで、俺は一言も発しなかった。
キャンパスの端にある、大きな楠の木陰。木漏れ日が揺れるベンチに腰を下ろすと、俺は深く息を吐き出した。
『……弦』
隣の空間から、小さく途切れがちな声が聞こえた。
『私……やっぱり、死んじゃってたんだね』
声が震えていた。
自分の存在が、世を去った幽霊であるという事実を改めて突きつけられ、彼女の周囲の空気が頼りなく歪んでいる。
『私、川に落ちて……誰にも気づかれないまま死んじゃったのかな……』
消え入るような声だった。
「お前がなぜ死んで、幽霊になってあの黒荘に辿り着いたのか……その理由は、ほぼ見えてきた」
俺は空を見上げ、ポケットの中で自分の指先を静かに擦り合わせた。
「吉野の話を聞いただろ。あの日、お前は夜の部室から、誰かに追われるように必死で逃げ出した。お前はあの部屋で、見ちゃいけないものを見たんだ」
『見ちゃいけないもの……?』
「そうだ。そして、お前を夜の暗闇へ追い詰め、命を奪った元凶は……おそらくあの男だ」
『……河野さん……?』
ユウが息を呑む気配がした。
「あいつの手つきを見たか? カードのカットの仕方だ。普通のマジシャンは、あんな指の腹の摩擦を使わない配り方はしない。……あれは、相手にカードの絵柄を見せずに、好きな位置から引き抜く人間の手つきだ」
手品師というよりイカサマ師の手つきだった。
サークルの爽やかな代表の顔の裏に、あの男は何を隠しているのか。
そして、白石優は、あの日あの部室で一体何を目撃し、消されたのか。
俺は立ち上がり、ジャケットの埃を払った。
『弦……私、なんだか急に怖くなってきた』
ユウの声が恐怖に揺れていた。
「怖いか?」
『……うん。すごく……』
「安心しろ」
俺は自分の胸を軽く叩いてみせた。
「死は覆せないが、タネはしっかり暴いてやる。その後は安心して俺のアシスタントに専念しろ」
ユウは少しだけ目を丸くし、それから、不安に揺れていた気配を和らげ、フッと小さく笑った。
『……本当、相変わらずハッタリだけは一人前なんだから』
「これはハッタリじゃない。……行くぞ、次はあの代表の周りと、サークルの裏の動きの調査だ」




