フロテ
黒荘の四畳半には、わずかながらも生活の匂いが戻りつつあった。
畳のへこみや壁のシミは相変わらずだったが、シンクの横には新しく買った小ぶりの電気ケトル、ケージの中の銀次には、以前より一袋数百円ほど高いフルーツ混じりの飼料が与えられている。
畳の真ん中に置いたフェルトマットの脇には、コンビニの袋が一つ。
取り出したのは、今や我が家の燃料とも言える一品――少し固めのプレミアムカスタードプリンだ。
「はい、今日の分」
フィルムを剥がし、畳の隅にそっと置く。
すると、天井付近でプカプカと漂っていたユウが、吸い寄せられるようにすーっと降りてきた。容器の真上に顔を近づけ、胸を大きく膨らませるように深呼吸をする。
「んんっ……! これこれ、このカラメルの苦みと、たまごの濃いやつ! 居酒屋の塩まみれを乗り越えた甲斐があったわ……」
目をつむり、うっとりと頬を緩ませるユウ。
実体のプリンは一切減っていないが、彼女の表情はデザートを口にした直後のそれだった。
「満足したなら、そろそろ始めるぞ。今日はちょっと大掛かりなやつだ」
俺は部屋の隅に積み上げていた、古びた木箱を引き寄せた。
かつてカイトとコンビを組んでいた頃、地方のイベントや商業施設のステージで使っていた、大型道具、イリュージョンのパーツだ。アパートの押し入れの奥に眠っていたものを、先日、元相方の残した物置から着払いで送らせたのだ。
「えー、また特訓? 今日はもうプリン食べたし、休みでいいんじゃない?」
「居酒屋のテーブルホッピングだけじゃ、稼げる額に限界がある。衣装の新調と道具のメンテ代もいるしな。カード手品以上の見せ球が必要だ」
「相変わらずお金にがめついわねえ……。で、何をするの? 人間斬り? それとも箱からハトが百羽くらい出てくるやつ?」
「百羽も用意したらこの部屋がフンまみれになるだろ。銀次一羽で手いっぱいだ」
俺は木箱の留め具を外し、重い蓋を持ち上げた。
中には、黒いベルベットの布で覆われた木製の天板と、細い折りたたみ式の脚部、そしていくつかの金属パーツが詰まっている。長年使っていなかったせいで、古い塗料と錆びた匂いが鼻を突いた。
「よし、まずはパーツの点検からだ。ユウ、そこにあるフロテ取ってくれ」
俺は箱の中の金属ジョイントを指で確認しながら、何気なく言った。
「はいはーい。これね」
返事と同時に、背後でふわりと空気が揺れる気配がした。
ユウが力を使い、木箱の底に収まっていた黒いベルベット張りのテーブル――木製の天板と脚部がセットになった大型の小道具を、空中に浮かせたまま俺の膝元へと運んできたのだ。
「え?」
俺は膝の上に滑り込んできた木製の天板を受け止めようとして、そのまま指先を静止させた。
「……おい」
「ん? なに? もっと近くに置いた方がよかった?」
ユウは空中で姿勢を崩さず、小首を傾げて俺を見おろしている。その瞳には、一切の悪びれた様子も、いつものドヤ顔もない。
ただ、言われた通りのものを運んできたという、ごく普通の表情があるだけだった。
俺は膝の上のテーブルに視線を落とし、それからゆっくりと顔を上げた。
「……お前、今、何を持ってきた?」
「え? なにって、それだけど……。あんたが取れって言ったんじゃない」
「俺は何と言った?」
「『そこにあるフロテ取って』でしょ?」
ユウは当たり前のように言い返した。
その口調の滑らかさに、俺の背筋を冷たいものが走り抜けた。
「……ユウ。これは何だ?」
「だから、それ……」
ユウは俺が膝の上に抱えている木製の小道具を指差し、そこでふと、言葉を詰まらせた。
大きな瞳が、少しだけ泳ぎ始める。
「……え? これ……なんて名前だっけ?」
「一般的には『浮くテーブル』だ。あるいは、手品に詳しくない人間なら『布のついた台』と呼ぶだろうな。……正式名称は『フローティング・テーブル』だ」
俺は指先で生地の端をゆっくりとなぞった。
「マジシャンやマニアの間では、これを略して『フロテ』と呼ぶ。……だが、それはあくまで業界内の隠語だ。手品をやらない人間が『フロテ』と聞いて、このテーブルを持ってくることは絶対にない。雑多な小道具の中から、迷わずこれを選んで運んでくるなんてことはあり得ないんだよ」
「あ……」
元々色白のユウの顔から、さらに色が引いていった。
彼女自身、自分が今しがた行った行動の意味に、初めて気づいたようだった。
「私……なんで、これだって分かったんだろ……? 『フロテ』って聞こえた瞬間、体に馴染んだ言葉みたいに、当たり前に手が動いて……」
ユウが自分の半透明な両手を交互に見つめる。その指先が、微かにパチパチと青白いノイズのように乱れていた。
俺は膝の上のテーブルを床に静かに置き、腕を組んだ。
(出会った初日……あの時もそうだった)
黒荘の部屋で初めて遭遇した夜、彼女は畳の上に散らばったカードを集め、特に意識することもなく、綺麗に弄んでいた。
あの時は「霊的な力で整えただけか」と深く追及しなかった。だが、今日の『フロテ』は違う。知っていなければ選べない。
「ユウ。お前には、マジックの知識がある」
「え、でも私、やり方とか全然知らないよ? トランプの切り方だって、あんたがやってるのを見て『上手だなあ』って思ってただけで……」
「頭ではなく、身体や記憶の底に染み付いた概念として残っているんだろう。毎日のように触っていた人間だ。専門用語を行き交わせる環境にいたはず」
俺は立ち上がり、狭い室内をゆっくりと往復し始めた。
足元の畳がミシッと音を立てる。答えはもう目の前まで来ている気がした。
「年齢は、見た目からして二十歳前後。社会人になりたて、あるいは大学生」
「大……学生……?」
「プロのステージマジシャンなら、俺が顔を知らないとは思えない。同業者のネットワークは狭いからな。メディアに出ている有名人でもないし、若手のホープとして噂になっている若手でもない。女性マジシャンは少ないしな……だとしたら、どこだ?」
俺は窓の外、生温かい風が吹き抜ける住宅街の空を見上げた。
「この黒荘から通える範囲。電車で数駅、あるいは徒歩圏内に、いくつかの大学がある。……そして、大学には、たいてい一つか二つ、存在するはずだ」
「何が……?」
「マジックサークル。あるいは、奇術部だ」
言葉にした瞬間、ユウの身体がビクッと跳ねた。
彼女の周りに漂っていた浮力が一瞬だけ破綻し、彼女の足元が畳の数センチ上まで落下する。
「う……っ」
ユウが両手で頭を抱え込んだ。透き通るような額に、皺が寄る。
「ユウ!? どうした?」
「なんか……頭の奥が、チクッとした……。暗い部屋……木造の……もっと広い部屋……。たくさんのトランプと……赤い布……。誰かが……笑ってる……?」
彼女の声は途切れ途切れで、苦しげに喉を鳴らしていた。
「無理に思い出そうとするな。……だが、方向性は間違っていないようだな」
俺は彼女の肩のあたりに手を伸ばしたが、やはり指先は空を切るだけだった。
俺は手に持っていたフェルトマットを小さく折りたたみ、トランクの横へと置いた。
ただの事故物件に憑いていた、記憶喪失の可哀想な幽霊。だけではなかった。
彼女は、かつて俺と同じようにマジックに関わり、道具に触れていたのだ。そして、何らかの理由でその命と記憶をすべて奪われ、このカビ臭い四畳半に魂だけを取り残された。
「……糸口だ」
「え……? あんた、人が頭痛で苦しんでいるのに、なんでそんな楽しそうなのよ……」
ユウが涙目になりながら、天井近くから恨めしそうに見下ろしてくる。
「楽しそう? 当たり前だろ。偶然にせよ、ようやく最初の手がかりが引っ掛かった。マジシャンとして、これを解き明かさずにいられるか」
俺はジャケットをハンガーから外し、袖に腕を通した。
「おい、ユウ。明日の予定変更だ。居酒屋での営業は夜からだからな。昼間の時間を使って、近隣の大学のサークル名簿をしらみ潰しに調べる」
「しらみ潰しって……そんなの、見せてくれるわけないじゃない。部外者でしょ?」
「ハッタリと嘘は俺の本業だ。卒業したOBにでも、業界のスカウトマンにでも、なんとでも騙りようはある」
鏡の前で姿を確認しながら、設定を考え始めた。
「お前の日常を取り戻す。……それが、俺とお前の契約だろ」
ユウは一瞬、ポカンと口を開けて俺を見つめていた。
やがて、彼女の胸元に溜まっていたパチパチとした青いノイズが静まり、いつもの少し生意気で、どこか安心したような微笑みがその唇に生み出された。
「……ふん。相変わらず上から目線なんだから。……でも、失敗したらプリンバケツ一杯だからね、絶対」
「善処する。……よし、まずは一番近い聖鳳大学からだ。あそこにも確か、奇術部があったはずだからな」




