居酒屋の奇跡
夜の駅前商店街は、酒と煙の入り混じった熱気に満ちていた。
提灯の赤い光が湿ったアスファルトに反射し、サラリーマンや学生の喧騒がどこからともなく湧き出しては消えていく。
その一角に構える大衆居酒屋『ひょっとこ』。
店内は満席近く、ジョッキを叩きつける音や威勢のいい怒号が充満している。
「いいか、ユウ。酒の入った客はマジシャンにとって最高の観客であり、同時に最悪の敵だ。予測不能な動きをするし、急に手を伸ばして仕掛けを暴こうとする。お前の仕事は、その隙を潰すことだ」
俺は客の喧騒に紛れさせるように、小さな声で隣の空間に呟いた。
『わかってるってば! 私は空気! 私は無! 私は高級プリンのために働く不可視の精鋭アシスタントよ!』
俺の右肩のすぐ脇から、鼻息荒い声が耳元に届く。
テーブルホッピング。
客席を一つずつ回り、注文の合間に短時間で強烈なインパクトを与えるドサ回りだ。
ターゲットは奥の小上がりに座る三人組のサラリーマン。ネクタイを緩め、疲れ切った顔でジョッキを傾けている。
「こんばんは、お疲れ様です。少々お時間をいただけますか?」
俺はビジネススマイルを貼り付け、彼らのテーブルの前に滑り込んだ。
「あ? なんだ兄ちゃん」
「いえ、今夜の皆様のテーブルに、ほんの少しの『あり得ない時間』をお届けしに来ました。マジシャンの七瀬弦です」
そう言いながら、俺は手の中で何もなかった空間からトランプ出現させた。
酒の入った頭にはそれだけで十分。
「おう! 手品か」
「面白ければ是非お気持ちを。では、お客様。カードを一枚、お好きなものを引いてください」
真ん中の男が気怠げに指を伸ばし、クラブの7を引いた。確認させ、デックの中ほどに戻させる。
指先の感覚だけで、クラブの7をデックの上面にコントロールした。
「ここからが本番です。皆様、指一本触れずに、このカードがお客様の選んだものを主張し始めます」
俺はデックを客の手のひらの上に載せ、ゆっくりと手を離す。完全にノーハンド。糸も仕掛けもない状態だ。
(ユウ、予定通りカウント三で跳ね上げろ)
『一、二の……三!』
パチン、と指を弾く。
山札の中ほどから、一枚のカードが重力を完全に無視して、垂直に跳ね上がった。まるで目に見えないバネが仕込まれているかのように、一メートルほど空中で旋回し、くるりと回って俺の左手に吸い込まれる。
クラブの7。
「……うおっ!?」
さっきまで死んだ魚の目をしていたサラリーマンが、ジョッキを握ったまま目を見開いた。
「おいおい、今、手離してたぞ!? 糸か!?」
「いいえ、それにこれだけではありません」
俺はテーブルの端にある、半分ほど氷の溶けた水割りグラスに視線を遣った。
(次はあのグラスだ。滑らかに浮かせろ)
『任せなさーい!』
俺が右手をグラスに向かってゆっくりとかざすと、ふわりと持ち上がった。
観客の鼻先数センチのところを、まるで深海を漂うクラゲのように滑らかに旋回する。氷と水が揺れる音が、静まり返ったテーブルに小さく響く。
「ま、マジかよ……! なんだこれ、超能力か!?」
「すごい……! 兄ちゃん、仕掛けが全然わからないよ!」
疲れ切っていた男たちの顔から泥のような徒労感が消え、子供のような興奮が爆発していた。
千円札が二枚、三枚と、俺が置いたフェルトマットの上に次々と叩きつけられる。
「ありがとうございました。また機会がありましたら是非。忘年会などもお呼びください」
スマートに一礼し、札を回収して次のテーブルへ移動する。
(今の動き完璧だったぞ。テンポも角度も文句なしだ)
『ふふーん! 見た!? あのグラスの揺らし方! 私のコントロールも冴え渡ってるでしょ! プリンのランク、一升瓶サイズにしてくれてもいいのよ!』
(そんなサイズのプリンがこの世にあるか。だが、よし。次はあっちのカップルだ)
俺の技術で客の注意を極限まで引きつけ、そのユウが物理を完全に無視した力を叩き込む。
ただの手品なら「どこかに仕掛けがあるはずだ」と疑う客も、目の前で起きるタネのない奇跡の連続には、ただ口を開けて圧倒されるしかなかった。
マットの上に積み上がっていく千円札、さらには五千円札の山。
通帳の数字が脳裏をかすめ、俺の胸の奥で熱いものが込み上げる。食える。これで明日も、来週も。
『弦! すごいよ、私、なんか本当にすごいアシスタントになった気分!』
(気分じゃない、お前は最高の助手だ。次だ)
肩のあたりで弾むユウの気配が、はっきりと伝わってくる。
だが、店中の視線が俺たちに集まっていた、その時だった。
「――待ちねぇ!!」
居酒屋の喧騒を一瞬で突くような、ダミ声が店内を切り裂いた。
声の主は、入口近くのカウンター端に座っていた人物だった。
首から無数の数珠をジャラジャラと下げ、頭には紫色の派手なバンダナ。派手な柄の着物に、右手には卓上の塩瓶を固く握りしめている。
一目で胡散臭さが服を着て歩いているとわかる老婆だった。
『……ひぇっ!?』
俺の右肩の脇で、ユウが短い悲鳴を上げた。
老婆の目が、濁った視線をまっすぐに俺の背後――ユウが存在する、本来は何もない空間へと注ぎ込んでいた。
「動くでない、若造! お主の背後に、世にも恐ろしい女の情念がへばりついておるぞ!」
「……はあ。あいにく今は次のテーブルが」
「黙れぃ! その悪霊め、ワシの目を誤魔化せると思うな! ――ハッ!!」
老婆がいきなり食塩瓶の蓋を外すと、俺に向かって豪快に中身をぶち撒けてきた。
「清め塩ッ!!」
「ぶふぉっ!?」
容赦ない粗塩の嵐が、俺の顔面を直撃した。目に入った激痛に、思わず視界が真っ白になる。
『ぎゃあああああああ! 痛い! 目が痛いぃぃぃ!』
耳元で、これまで聴いたこともないユウの悲鳴が炸裂した。
「おい、ユウ! 大丈夫か!?」
『ダメ! あのおばあちゃんガチだよ! 霊能者かなんか。体が薄くなってる! 消えちゃう!』
塩の粒子が彼女に触れたのか、ワンピースの裾がパチパチと薄い青光を放ちながら揺れていた。
「おのれ悪霊、往生際が悪いぞ! 九字護身法――臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前っ!」
老婆が数珠をジャラジャラと打ち鳴らし、謎の呪文を唱えながらじりじりと距離を詰めてくる。客席から、
「なんだなんだ?」
「事件か?」
とざわめきが上がり始めた。
(クソ……! このままじゃ場が白ける。おまけにユウがやられる!)
塩で痛む目を必死に開け、俺は即座に脳内のギアを切り替えた。
マジシャンがステージで最もやってはならないのは、想定外のトラブルで素に戻ることだ。
事故も、ハプニングも、すべては「最初から計画されていた演出」に見せかけなければならない。
俺は裏ポケットに忍ばせていた、特注のスモークボールを二個、床に向かって勢いよく叩きつけた。
シュゴォォォォッ!!
「うわっ!?」
「煙だ!?」
一瞬で店内に充満する白い煙。客たちの悲鳴が上がる中、俺は通る声で高らかに叫んだ。
「――皆様、これよりお見せしますのは、今夜限定の特別演目! 『マジシャン対霊能力者』の超常決戦イリュージョンでございます!」
「な、なにぃ!?」
煙の中で老婆が毒気抜かれた声を上げる。俺は老婆の視界を遮るように立ち塞がり、背後のユウに低く鋭く命じた。
(ユウ! 死ぬ気で動け! あのおばさんの数珠と食塩瓶を浮かせろ! ド派手に暴れさせろ!)
『ひ、ひえぇぇ……やるしかないのね!? 呪ってやる……いや、浮かせてやるぅぅ!』
次の瞬間、老婆の首にかかっていた無数の数珠が、まるで生き物のように跳ね、空中で怪しく回転し始めた。
さらに、テーブルの上の醤油差しや塩瓶が次々と浮遊し、スモークの中で幻想的な円を描く。
「ぐ、ぬぬぬっ!? なんという強力な念動力……! これほどの怨念、お主、生前に相当な未練を残して死んだな!?」
『未練はあるわよ! プリンを一度にバケツ一杯食べるっていう未練がねぇぇ!』
「お前、それが未練なのかよ」
俺は煙の中から赤と青のシルクを交互に出現させながら、さも老婆の霊術と戦っているかのように華麗な身振りでステージを支配した。
「ご覧ください! 霊能力者様の放つ霊力が、私の力と激突しております! 押されているのはどちらか!?」
「お、おのれぇぇ! ハァッ! 悪霊退散っ!」
老婆は浮遊する数珠と格闘し、俺は横で必死にトランプを宙に散らして「魔法の攻防」を演出する。
店内はパニックではなく、嵐のような大歓声に包まれていた。
客たちは酒の入った頭で、
「すげえ!」
「最近の技術はここまで進んでるのか!」
「ばあさんも役者だな!」
とテーブルを叩いて喜んでいる。
「……ハァ、ハァ……。お、おのれ……今日のところはこれくらいにしておいてやるわい!」
数分後、全身の体力と気力を使い果たした老婆は、肩を上下させながら、逃げるように居酒屋を飛び出していった。
「ありがとうございました!」
俺が深々と一礼すると、店内に地鳴りのような拍手と歓声が巻き起こった。
終演後。
居酒屋の裏手、深夜の冷たい風が吹き抜ける路地裏で、俺たちはへたり込んでいた。
俺の服は塩まみれで、髪の毛も真っ白だ。だが、胸ポケットの中には、今夜稼ぎ出した膨大なチップの束が、ズシリとした確かな重みとなって収まっている。
『……ふぅ。……死ぬかと思った。もう死んでるけど、二度目の死を本気で覚悟したわ……』
俺の隣、街灯の薄明かりが照らすコンクリートの上に、ユウがへなへなと座り込んでいた。
いつもより少し薄く、透けて見えるが、その顔には疲労感と共に、どこか誇らしげな笑みが浮かんでいた。
「……災難だったな。だが、お前の踏ん張りのおかげで、今夜の稼ぎは予定の三倍だ」
俺はポケットから数枚の千円札を取り出し、彼女に見せるように振ってみせた。
『すご……! こんなに!? ねえ弦、これがあれば家賃も、銀次ちゃんに高級なエサも買えるんじゃない!?』
「ああ。それと、お前のプリンもな。コンビニで一番高くて、一番固いやつを二個供えてやる」
俺がそう言うと、ユウはぱあっと顔を輝かせ、身体を乗り出してきた。
『本当!? 約束だよ! 二個だからね、一個はカスタードで、もう一個はプレミアムジャージー牛乳のやつね!』
「今日はお前の手柄だ。好きに選べ」
触れることのできない相棒がすぐ隣で満足そうに声を弾ませている気配を感じながら、俺はポケットの中の札束を指でそっと確かめた。
「行くぞ、ユウ。明日も特訓だ」
『えー! 今夜くらい休ませてよ! ブラックマジシャン!』
「それだと意味変わるだろ」
『プリン二個だからね!』
「わかってる」




