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不可視のアシスタント

「――やり直し。今のじゃ、ただの心霊現象だ」


俺は右手でストップウォッチを押す。


「む、無理だよぉ! これ、めちゃくちゃ集中力いるんだからね!?」


四畳半の中央で、ユウが必死な形相でトランプを宙に浮かせていた。


だが、カードは生まれたての小鹿のようにガタガタと震え、時折、上下に不自然に跳ねている。


「いいか、ユウ。マジックにおいて浮遊は優雅でなければならない。観客が『あ、幽霊が持ち上げてるんだな』と思った瞬間に、マジシャンとしての俺の負けなんだよ」


「いや、事実なんだから負けも何もないでしょ!? あと、さっきから『もうちょっと右!』とか『三センチ下げて!』とか、指示が細かいのよ! インテリアコーディネーターかあんたは!」


ユウはぷーっと頬を膨らませ、集中力が切れたのか、トランプを畳の上にバサバサと撒き散らした。


契約を交わした翌朝から、二〇一号室は居住スペースとしての機能を完全に失っていた。不可視のトリックのための研究室だ。


俺が求めているのは幽霊のイタズラではない。計算された奇跡だ。


「助手が目立ったら負けなんだ。お前の場合透明なわけだが、問題はうっかり音を立てたり、存在感を押し出しすぎることだ。いいか、もう一度コインの受け渡しだ」


「はいはい、了解ですよーだ」


ユウは不満げに空中を泳ぎ、俺の正面へと移動した。


「俺が右手でコインを渡すフリ、フレンチドロップをした一秒後、お前は指先で音を立てずにそのコインを掴み、俺の背後へ移動させろ。タイミングが命だ」

「了解! お安い御用――どふっ!?」


変な鈍音が室内にはじけ、銀色のコインが畳の上に転がった。

見ると、ユウが鼻を押さえて空中で悶絶している。


「……何やってるんだ」


「い、痛い……! 鼻に……私の鼻にダイレクトアタックされたんだけど……!」


「痛いのか?」


「気持ちの問題!」


「幽霊なら気にするな。それにコイン一枚掴むのに、なんで全身で受け止めようとするんだよ」


「しょうがないじゃない、慣れてないんだから! あんたの手の動き、テンポが速すぎて、こっちの処理速度が追いつかないのよ!」


ユウは幽霊のくせに変なところでプライドが高く、油断すると演出に余計な味付けをしてくる癖があった。


「よし、次はシルクと鳩のマジックだ。俺がトランクの蓋を勢いよく開けたら、お前は中から銀次をそっと外に逃がせ。大袈裟に動かすなよ」


「任せて、雰囲気作りのプロに見せてあげるわ!」


俺がトランクの鍵を外し、バッと蓋を開ける。その瞬間。


「ドロドロドロドロ……うらめしやぁぁぁ……」


部屋の隅から、おどろおどろしい効果音(肉声)が響き渡った。


「……止めろ。マジックのジャンルが変わるだろ。なんでハッピーなマジックに、呪いのビデオの風を吹き込むんだよ」


「えぇー、雰囲気出るじゃない! これ私の十八番だよ?」


「出なくていい。俺が求めているのは不思議であって恐怖じゃない。お前のそのうらめしやボイス、一回につきプリンのランクを一等分下げるからな」


「わ、わかったわよ。やりゃいいんでしょ、やりゃあ! 食べ物の恨みは死んでも死にきれないんだからね!」


そんな不毛な押し問答を繰り返しながら、特訓は昼過ぎまで及んだ。


狭い四畳半で、熱気がこもる。エアコンなどという文明の利器はないため、俺の燕尾服のインナーは汗でじっとりと重くなっていた。


「よし、次は連続旋回だ。俺を中心にトランプを円状に旋回させながら、お前自身は部屋の対角線を描くように移動しろ。これができれば客の目を散らせる」


「うぐぐ……高度な空中機動ね……。見なさい、私の本気を!」


ユウが真剣な顔つきになり、両手を広げた。


畳の上をカードが、ふわりと舞い上がる。今度は震えていない。カードは綺麗な円を描き、俺の周囲を滑らかに回り始めた。


「いいぞ、その位置をキープしたまま、お前は右奥の壁際へ――」


「ちょっと待って、なんか目が回っ……きゃあ!?」


指示を出した直後、ユウが空中での体勢を崩した。


バランスが破綻したのか、彼女の身体は空中を二、三回転しながら、派手にひっくり返った。


「うわわっ!」


頭を下にし、足首を上に掲げた完全な逆さまの姿勢。


その瞬間、白いワンピースの裾が、ずるりと胸元の方へめくれ上がった。


俺の目の前、ちょうど目線の高さに、彼女の下半身が露わになる。


「…………」


俺の動作が止まった。


視界に飛び込んできたのは、極めてファンシーな柄だった。


白地に、全体に散りばめられた小さなプリント。


そこに描かれていたのは、丸っこい黄色い顔に、大きな楕円形の目がついた、愛嬌だけが取り柄のような謎のアニメキャラクター――子供服のコーナーで売っていそうな『ぽこぽん丸』の総柄ショーツだった。


「……」


「……あ」


逆さまのまま空中で静止したユウと、俺の視線が交差する。

静寂。


隣の部屋の室外機が吐き出す生温かい風の音だけが、虚しく二人の間を通り抜けていった。


俺は一切の動揺を見せないよう努めた。


「……なるほど」


「な、何が『なるほど』よぉ!」


ユウは顔を真っ赤――というか、全身をパチパチと青白い発光体に変えながら、空中で激しくのたうち回った。手足をごちゃごちゃに動かしてワンピースの裾を必死に引っ張り下げるが、逆さまのままだから余計にめくれる。


「見るな! 見るな変態! エッチ! スケベ! マジシャン!」


「自発的に見たわけじゃない。勝手に俺の目に飛び込んできた。不可抗力だ」


「言い訳が屁理屈くさいのよ! なんでそんな平然としてるのよ! 幽霊にだって霊権……じゃなくて、乙女のプライドがあるのよ!」


「乙女のプライドねえ」


俺は腕を組み、冷ややかな視線を彼女に向けた。


「二十歳前後の女子が履くには、随分とファンシーなチョイスだな。ぽこぽん丸か。しかも黄色」


「うるさい! これは私が好きで……じゃなくて! 勝手に人の下着の柄を特定するな!」


「だから不可抗力だって」


「そういう問題じゃないの! ああもう、恥ずかしすぎて成仏しそう! いや成仏はしたくないけど!」


ユウはようやく空中での姿勢を立て直し、部屋の天井近くまで退避すると、膝を抱えて俺を鋭く睨みつけてきた。


「最低。あんた本当に最低のマジシャンね。プリンがないならもうしない!」


俺はため息をつき、部屋の隅に置いた買い出しのポリ袋から、昨日買っておいた七十円の安いカスタードプリンを取り出した。


フェルトマットの端、畳の上にプラスチックの容器をコトンと置く。


「……ほら、供えてやる」


「……え?」


ユウが天井から不審そうな顔でこちらを見下ろした。俺は容器のフィルムをペラリと剥がし、付属の小さなスプーンを脇に添えた。


「お前、実体がないのにどうやって食うつもりなんだと思ってな。実験してみよう。仏壇の線香方式で」


「線香……? 私を仏様扱いしないでよ」


「嫌なら食うな」


ユウは少し迷う素振りを見せたが、やがて甘いカラメルの匂いに耐えかねたのか、スルスルと天井から降りてきた。

容器の前に正座し、恐る恐る透明な手を伸ばす。当然、指先はスプーンをすり抜け、容器を通り過ぎて畳へと触れた。


「やっぱり掴めないじゃない……」


「手じゃなくて、鼻を使え。息を吸い込むんだ」


ユウは半信半疑のまま、プリンの真上に顔を近づけた。小さな胸を大きく膨らませるように、フワーッと深呼吸。


その瞬間、容器の中のプリンから、微かな黄金色の気配が立ち上り、ユウの鼻先へと吸い込まれていく。


「あ……」


ユウの瞳が驚きに見開かれた。

ふにゃりと頬がゆるみ、うっとりとした表情で喉を鳴らす。


「すご……口の中に、カスタードの甘さとカラメルのほろ苦さが、ちゃんと広がってる……! プルプルした食感まであるよ!」


「そのものを摂取することはできなくても、食べたのと同じ効果はあるんだな」


「うわぁぁ、美味しーい! 生き返る~! もう死んでるけど!」


「縁起でもない言い回しだな」


ユウはお供えされたプリンに向かって、何度も幸せそうに息を吸い込んでいる。一回吸い込むごとに、まるで高級スイーツを堪能したかのような歓声をあげていた。


一方、目の前のプラスチック容器に入ったプリンは、表面の形一つ崩れることなく、そのままの姿で畳の上に鎮座している。


「実物は一切減らずにお前は満腹になり、残った実体は俺が美味しくいただく。経済的だな」


俺がスプーンを取り上げ、残されたプリンをすくって口へ運ぶと、ユウが眉をひそめて睨みつけてきた。


「なんか言い方が味気ない! 私はちゃんと味わってるんだから、余韻に浸らせてよ!」


「文句を言うな、お前はもう食ったんだから損はしていないだろ。ごちそうさまでした」


「うぐぐ……理屈ではそうだけど、なんか納得いかない……!」


ユウは口元を拭う仕草をしながら、ふんと鼻を鳴らした。だが、その顔には先ほどまでの恥ずかしさや苛立ちは消え、さっきまでの不機嫌はどこへやらだった。


「さぁ、食い終わったカードを揃えろ。明日の夜は、いよいよ実戦だからな」


「え? 実戦?」


ユウが手を止め、目を丸くした。


「ああ。駅前の大衆居酒屋『ひょっとこ』だ。酔っ払いを相手に、テーブルホッピングをやる。お前のポルターガイストが、本物の奇跡として客に通じるかどうか……最初のテストだ」


「居酒屋……。美味しそうな匂い、しそうね」


「お前は食べられないだろ。……だが、うまくいったら約束通り、コンビニで一番高い固めのプリンを買ってやる」


俺がそう言うと、ユウはさっきまでの怒り顔をコロッと変え、パッと表情を輝かせた。現金な幽霊だ。


「言ったわね! 絶対買ってもらうんだから! よーし、完璧にやって全額むしり取ってやるわよ!」


「口が悪いぞ。……よし、もう一度最初からだ」


シュッ、シュッ。


四畳半のボロアパートに、再びカードが擦れ合う音が響き始める。

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