四畳半のポルターガイスト
深夜の静寂が肌にまとわりつく。
『黒荘』に腰を落ち着けてから四日目の夜、俺は薄い敷布団の上に大の字になって天井を見上げていた。
昼間の暑気がわずかに残る四畳半の空気は、やはり湿っぽく、鼻の奥をカビの匂いがかすめる。
隣の部屋のテレビの音は一時間ほど前に途絶え、今はただ、時折遠くを走る深夜トラックの地鳴りのような重低音が、建付けの悪い窓をガタガタと微かに震わせるだけだった。
(……明日、どうするかな)
天井の木目を数えながら、意識が微睡みの境界線へと沈み込みかけた、その時だった。
ピシッ。
乾燥した木材が弾けるような、妙に硬い音が暗闇に響いた。古い木造アパートだ。家鳴りの一つや二つ、珍しくもない。
そう自分に言い聞かせて目を閉じようとした瞬間、今度は耳元で、さらに奇妙な音が鼓膜を叩いた。
サラサラ、サラサラ……。それは、俺が何万回、何十万回と聴いてきた、あの音に酷似していた。
トランプの束が、誰かの手によって扱われている時にしか出ない、あの紙同士が擦れ合う微細な摩擦音。
俺は跳ね起き、赤錆の浮いたシンクの脇に置いた、フェルトマットの方へと視線を走らせた。
「……は?」
思わず、間抜けた声が漏れた。
マットの上に綺麗にまとめて置いてあったはずの五十二枚のトランプが、
バラバラバラッ!
と音を立てて、重力を完全に無視して真上へと舞い上がったのだ。
カードは天井の手前、床から一・五メートルほどの高さでピタリと制止し、まるで目に見えない円軌道がそこにあるかのように、くるくると優雅に回転し始めている。
さらに異変はそれだけに留まらなかった。
机の端に置いてあった、半分ほど水の入ったプラスチックのコップがガタガタと激しく震え出し、そのまま重力を失ったようにゆっくりと宙へ浮き上がっていく。
ケージの中では、銀次が激しく羽ばたき、パニックを起こしたように鳴いていた。
「クゥー! ククゥー!」
普通なら、ここで幽霊といったオカルトな単語を弾き出し、恐怖で腰を抜かす場面なのだろう。
だが、俺の脳内を最初に埋め尽くしたのは、恐怖などでは断じてなかった。タネを暴きたい衝動が俺の中を満たしている。
「インビジブル・スレッド……? いや、俺は仕込んでいない。マグネットか? この畳のどこにそんな強力な電磁石がある。送風機? コップが浮くほどの風なら俺の髪がなびいているはずだ。おい、何だこのギミックは! 誰がどこから操作している!?」
俺は敷布団を蹴飛ばし、狭い空間を這い回り始めた。
まずは天井だ。トランプが回転している真上の木目を、目を皿のようにして凝視する。超極細のナイロン糸が仕込まれていないか、手を伸ばして空間を激しく払ってみたが、指先には何も触れない。
次に畳にへばりつき、床下からの磁力反応を疑ってマットを裏返したが、そこにあるのはただの古い井草の繊維だけだった。
「重すぎる……。水が入ったコップを糸で吊るなら、相応の強度のワイヤーが必要だ。だが光の反射が一切ない。どうやって荷重を支えている?」
マジシャンとしてのプライドが、目の前の「タネの見当たらない奇跡」を許さなかった。
必死になって空気の揺らぎや壁の隙間を調べていると、宙に浮かぶトランプの円軌道の中心、月明かりが差し込む場所に陽炎のような歪みが生じ始めた。
歪みは徐々に光を集め、やがて人の形になっていく。
「……そんなに必死になって畳這い回らなくても、私はここにいるんだけどぉ!」
頭上から降ってきたのは、酷く不機嫌そうな少女の声だった。
俺は動きを止め、その声の主を凝視した。
そこに浮いていたのは、一人の少女だった。
夜の闇をそのまま切り取ったような長い黒髪に、透き通るほどに白い肌。仕立ての古い、しかしどこか上品な白いワンピースを身に纏い、その足首から下は、煙のようにうっすらと虚空に溶けて消えている。
「……夢か?」
彼女は空中で俺のトランプを数枚、不可視の手でパッとキャッチすると、それを実に見事な手つきで弄んでみせた。
「……本物だ」
俺の口から、掠れた呟きが漏れる。
「そうよぉ、本物よぉ! 恨めしやぁ! って、何よその顔! もっと驚きなさいよ! 普通はここで腰を抜かして『ひえぇぇ、お助けをー!』とか言いながら、この部屋の権利書を置いて逃げ出すのがマナーでしょ!?」
少女は宙でジタバタと手足を動かしながら、大きな瞳を吊り上げて怒鳴ってきた。幽霊のくせに、随分と世俗的なマナーを要求してくる。
だが、俺は彼女の抗議を完全に聞き流し、その顔のすぐ数センチ手前まで顔を近づけた。
彼女が持っているトランプの端、そして空間に固定されたコップの底を、凝視する。
「マナーなんてどうでもいい。……おい、幽霊。お前、今、それどうやって浮かせてるんだ? なにで支えているんだ?」
「……え、いや、どうやってって……『えいっ』て念じれば浮くっていうか、そもそも私自身が浮いてるし……」
俺の目つきに圧されたのか、少女はそれまでの勢いを失い、わずかに身体を引いた。
「ワイヤーはない。磁力もなし。送風もない。全方位から見てもタネが完全に見当たらない。素晴らしい……素晴らしいぞ、お前!」
俺は興奮のあまり、彼女の透ける肩を掴もうと両手を伸ばした。だが、俺の掌は、何の抵抗もなく冷たい空気だけをすり抜けて、虚しく合わさった。
「感触はない。……だが、物質に直接干渉させる力はある。もう一度やってみろ。今度はこの五十二枚全部、バラバラの方向に回転させられるか?」
「……は? ちょっと、聞いてる?」
少女はあ然とした表情で固まり、それから頭を抱えるようにして空中で一回転した。
「私、幽霊だよ? 呪いのビデオとか、井戸から這い出すとか、夜中に枕元に立つとか、そういう恐ろしい怪異なのよ!? なんでそんな、実験材料を見るような目で見てくるのよ!」
「幽霊だろうが怪異だろうが、そんなことはどうでもいい。大事なのは今目の前で起きている現象だ。一切の物理的トリックなしに物体が浮遊している。マジシャンとして、これ以上の興奮があるか」
俺は床に落ちたカードを拾い上げ、彼女に向かってシャッと広げてみせた。
「俺は弦。お前の名前は?」
「……わ、忘れたわよ。気づいたらここで浮いてたんだから。記憶なんて、初めからなかったわ」
「それでいいのか? 幽霊ってことはなにか未練があるんじゃ? それを解決しなくても」
彼女は面白くなさそうに唇を尖らせ、空中で体育座りのような姿勢をとった。記憶喪失、か。
「いいもなにも、名前も未練があったかも何もわかんないし」
「そうか。じゃあ、仮に『ユウ』だ。幽霊だからな」
「雑! もうちょっとこう、儚げで可愛い名前とかあったでしょ!」
「これで十分だ。……取引をしよう、ユウ」
俺はデックを収め、彼女の大きな瞳を真っ直ぐに見据えた。
「お前の『正体』、俺が探してやる。記憶もなにもかも。俺が必ず引き揚げてやるよ」
「……本当に? 私の正体、わかるの?」
「マジシャンの辞書に不可能という文字はない」
ユウは、キョトンとした顔で動きを止めた。その瞳が一瞬だけ、寂しそうに笑った。。
「なんであなたがそんなことしてくれるの?」
「お前は最高の奇跡だからだ。……条件がある。俺の助手になれ」
「は……? 助手?」
「お前のその、物体を動かす力。それを俺のマジックのギミックとして組み込むんだ。不可視の状態で、俺のマジックをサポートする。マジシャンが本物の奇跡を相方にするんだ。観客は全員、腰を抜かす。これ、絶対に売れるぞ」
俺は指をパチンと鳴らし、袖口から一本の赤い薔薇を出現させた。百円ショップの造花だが、演出には十分だ。
「幽霊が、マジックの助手? ……それ、面白いの?」
「面白いなんてもんじゃない、革命だ」
ユウはふわふわと空中を泳ぎ、俺の顔を覗き込んできた。しばらくの間、俺の目を値踏みするように見つめていたが、やがて、観念したように小さく溜息をついた。
「……わかったわよ。どうせ一人でここにいても、壁のシミを数えるくらいしかすることなかったしね! でも、約束だよ? 私のこと、ちゃんと調べてくれるんでしょ?」
「ああ。マジシャンの誇りにかけてな。……ところで、現時点で何か覚えていることとか、感覚的に残っているものはないか?」
彼女の正体を探すための、最初の手がかりだ。ユウはしばらくうーんと唸り、それから床にバラ撒かれたままのトランプの束へと、視線を落とした。
「……プリンが食べたい」
「プリン? それが記憶の手がかりか?」
「違うと思う。ただの私の今の欲望。固めのやつね。カラメルが苦いやつ」
「クゥー」
銀次も呆れたような鳴き声が、四畳半に響く。




