崖っぷちのステージ
マジックというのは、観客に「ありえない」という錯覚を抱かせなければ成立しない。
だが、マジシャン自身の生活が「ありえない」ほどどん底なのは、洒落を通り越してただの悲劇だ。
手元にあるのは、半分壊れたアルミ製のトランクと、底が薄くなりかけたスニーカー。それから、二十三歳、独身、職業・自称マジシャンという、社会のレールから綺麗に踏み外した自分という存在だけだった。あとは鳩の銀次。
「じゃあな、弦! 俺、『愛の共同生活』っていう一生モノのイリュージョンを完成させる必要があるんだ!」
一週間前、爽やかな笑顔のまま一切の躊躇なくワンルームの鍵を置いて去っていった元ルームシェア相手・カイトの顔が、今でも網膜の裏に焼き付いている。
夜な夜なファーストフード店でトランプを切り、鳩の餌代をきっちり一円単位で折半し、いつか劇場でトリを飾ると誓い合った時間は、一人の女の登場によってあっけなく霧散した。
今後はルームシェアではなく、そちらと同棲するらしい。
せめて、今月の家賃は払ってから消えてほしかった。
残された通帳の数字は、四桁。
千の位にある数字は、かろうじて「一」ではなかったが、それ以下の数字が並ぶ光景は、ライフラインがいつ止まってもおかしくない現実を冷酷に突きつけていた。
駅から歩くこと二十分。
さらに住宅街の入り口から、緩やかな勾配の坂を上り続けて五分。すでに足は悲鳴を上げていたが、目の前に現れた建物は、その疲れを忘れるどころか、さらに重くした。
「……黒い。本当に黒いな」
築四十五年、木造二階建て、その名も『黒荘』。
不動産屋のオヤジが「予算三万、できれば都内」というこちらの無茶振りに、引きつった笑みを浮かべながら差し出してきた物件だ。
木造のはずなのだが、経年劣化と排気ガスのせいか、外壁は茶色を通り越して炭のように燻んでいる。
ギギィィ……と、古い洋館の扉のような錆びた音を立てて開いた、二〇一号室。
部屋の広さは四畳半。一歩踏み出した瞬間、足元から「ミシッ」と、何かの細い骨でも踏み抜いたかのような音が響いた。
畳は中央が波打つようにへこみ、全体が不健康な黄色に日焼けしている。
部屋の隅、唯一の窓を開けようとしたが、サッシが歪んでいるのか数センチしか動かない。
隙間から流れ込んできたのは、隣の古い雑居ビルの室外機が吐き出す、熱を帯びた生温かい風だけだった。
「カイトのマンションのベランダにでも居候させてもらうか」
声に出してみる。乾いた言葉は湿気った壁に吸い込まれ、虚しく消えた。
段ボールを一つだけ床に置き、その上に鳩のケージを据える。
中にいる鳩の銀次が、環境の変化を察知して、
「クゥー」
と、不安そうに首を傾げた。
『あはは、事故物件ってほどじゃないけど、たまーに『音がする』なんて言う人もいたかなぁ』
契約書に判を捺す時、不動産屋が漏らした軽薄な笑い声を思い出す。
音がする、か。
西日が部屋の奥まで差し込む頃、俺は床に直接座り込み、コンビニで買ってきた半額の幕の内弁当の蓋を開けた。
壁の薄さは絶望的で、隣の部屋の住人がテレビのバラエティ番組を見て笑う声や、箸が皿に当たる音までが手に取るように伝わってくる。
冷え切った米を口に運び、無心で噛む。美味いか不味いかを感じる余裕はない。頭の中で稼働しているのは、現在の残高から、明日の移動費、銀次の餌代、そして衣装のクリーニング代を引いた結果のみ。
……このまま、ただの『自称マジシャン』で終わるのか?
胃の奥がキリキリと痛む。
当面の出演予定はほとんどなくなっていた。駅前の居酒屋で、酔っ払った客を相手に数百円のチップをねだるテーブルマジックの予定すら、来週は二件しか入っていない。
俺は、食べ終えた弁当のガラを片付けると、赤錆の浮いたシンクの脇に置いておいた、真新しいトランプの束を手に取った。
トランクからカードの滑りを良くするために使う、白いファニングパウダーを取り出す。
俺は日焼けした畳の上に、丁寧にフェルトのマットを敷いた。どれほど生活が荒んでいようと、このマットの上だけは、俺の聖域でなければならない。
パウダーをほんの微量、指先に取り、五十二枚のカードの側面に、一枚一枚、均等に馴染ませていく。
シュッ、シュッ――。静まり返った四畳半に、カードが擦れ合う、耳に心地よい硬質な音だけが響き始めた。
リフルシャッフル。左右の手で分けたカードが、交互に噛み合っていく。
続いて、片手だけでカードを三つの束に分け、空中で複雑に交差させる変則的なカットを繰り返す。
「クゥー」
ケージの中で、銀次がじっと俺の指先を見つめていた。
「見てろ、銀次。どんなに舞台が狭くなろうと、妥協はしない」
カードを右手から左手へと、一筋の滝のように流し落とす。続いて、デックのトップにあるカードを親指で軽く弾き、空中で一回転させてから、ブーメランのように再び元の位置へと正確に収める。
指先には、じっとりと嫌な汗が滲んでいた。明日の食費への恐怖、カイトへの憤り、未来への不透明さ。それらすべての負の感情を指先に押し込める。
気がつけば、窓の外の室外機は止まり、住宅街は深い夜の静寂に包まれていた。
何度も何度もトランプを切り続けたせいで、親指の付け根が熱を持ち、微かに震えている。
俺はカードをまとめ、マットの上に静かに置いた。そろそろ寝よう。
この時、疲労が限界に達していた俺は、部屋の隅から聞こえてくる物音を、ただの古い建物特有のものだと考え、気にも留めなかった。




