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「君を愛することはない」と言われて三年、そろそろ白い結婚をやめようと思います  作者: 千乃


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第41話

 言葉とは不思議なものだ、とセシリアは思う。“音”として耳から入り込んできたそれは、頭の中をくるりと回って身体の奥へ落ちてゆくまでの間に“形”を得て、胸の底にごろんと転がる。ひとつひとつが区切られた、ひとつひとつの単語として。そうして言葉たちは、やがて胸の底に広がる底なし沼のようなぬかるみの中へ、ゆっくりと沈んで消えてゆく。意味を呑み込めたものから、順々に。


 けれど今、セシリアの胸の底には、たくさんの言葉たちが“形”を保ったまま、ごろごろと積み重なっている。ひとつも沈んで消えることなく。きっと身体を振れば、中からじゃらじゃらと、軽くも重くもあるような音が響いてくるだろう。そんな気がしてしまうほど、ユーリスの紡いだ言葉はどれひとつ、彼女の中に溶けず残されたままだった。


 君自身の意思で選んでほしい――そう告げたユーリスの真摯な瞳を、セシリアはただじっと見つめる。何か言わなければ、と思うのに。言いたいことが、たくさんあるはずなのに。そうと分かっていても、それはただ感覚として“分かっている”だけで、唇を動かすどころか、言葉ひとつ見つけられないほど、思考はひどく混濁していた。


 それがあまりにももどかしく、セシリアはドレスの端をぎゅっと握り締める。伝えたいのに伝えられないという焦燥感。そればかりが募り、却って混濁はどんどんと酷くなってゆく。そのまま沈黙がふたりを包み込んでも、ユーリスは答えを急こうとはしなかった。ただ真っ直ぐにセシリアを瞳に映し、"その時"が来るのを静かに待っている。


 その姿を見ていると、唐突に、幼い頃の記憶がふと頭の中に蘇った。まだ純粋に、彼の傍にいられることが嬉しかった頃の、懐かしい思い出。今も色褪せぬその情景の中で、セシリアは子どもながらに険しい顔をし、頁の開かれたままの本を見下ろしている。まるで魚のように、口を開いては閉じ、開いては閉じを繰り返しながら。


 そんな彼女の傍らで、ユーリスは穏やかな微笑を湛え、やわらかな眼差しでセシリアをやさしく見守っていた。今と同じように、答えを急くことはせず。ただただ静かに、時の流れに身を任せるようにして。


 あの時読んでいた本は、子ども向けの童話でありながら、少し内容の難しいものだった。中盤までのストーリーはありきたりな設定だったけれど、終盤を迎えるにつれ段々と“ありきたりな設定”は壊れてゆき、ラストは善いとも悪いとも、或いは幸とも不幸ともいえない、余韻の深い、曖昧な結末だったのを憶えている。


 まだ幼かったセシリアにとって、その物語を噛み砕くのはひどく時間を要するものだった。言葉にしたいけれど、出来ない。この言いようのない気持ちを共有したいのに、出来ない。そのもどかしさに苛まれ、そこから抜け出そうとすればするほど、却って頭の中はぐちゃぐちゃになってゆく。


 どうして良いのか分からず、助けを求めてユーリスへ視線を向けると、彼はふっと吐息をこぼすような笑いをひとつ落として、縋り付くようなセシリアの眼差しを、真綿で包むように受け止めてくれた。――ゆっくりと考えると良い、と。“これだ”と思う言葉が見つかるまで考えて、そうして見つけた言葉にはきっと、相手の心に響く重みがあるはずだから、と言いながら。


 もしかしたら――ドレスを握り締める手に、ぎゅっと力を込めながらセシリアは思う。もしかしたら、真剣に想いを告げてくれた今の彼もまた、あの時の自分のように“これだ”と思う言葉を探し倦ね、そうして漸く見つけた言葉を紡いでくれたのではないだろうか、と。だからこんなにも、心が強く揺さぶられるほど、一言一言が重く響いているのではないだろうか、とも。


 もしそうであるなら、適当に選んで繕った軽い言葉を返すわけにはいかない。どんなにもどかしくとも、どんなに時間がかかろうとも――幼い頃の彼を、あの時示してくれたことを信じて、焦らず“これだ”と思う言葉を探さなければ、誠実に向き合おうとしてくれている彼にあまりにも失礼だ。


 “言葉”とは、それほど大事なものなのだと、今更ながらつくづく痛感する。言葉は時に人を傷つけ、苦しめるけれど、その一方で、人の心を震わせ、救い、あたたかく包み込んでくれもする。だからこそ、考えることはとても重要なのだ。"これだ"と思う言葉を見つけるまで、深く深く考えることは、とても。


 どれくらい黙っていただろう。頭上から小鳥の愛らしい囀りと、木の葉の擦れる乾いた音だけが鼓膜に触れる、穏やかな静けさ。木漏れ日が、光の粒をきらきらと鏤めるように揺らめいている。あたたかな静寂に包まれながら、どちらも口を開くことはせず、ただ互いを見つめ合っていた。周りから隔絶された、ふたりきりの世界で。


「……違うわ。ひとつだけ、違うの」


 あんなにも言葉を見つけられずにいたのに。何か言わなければ、と気持ちだけが急いて、そのせいで頭の中がどんどんと混濁していっていたのに。自然に、ふわりと浮かんできた言葉は、驚くほど無意識に、簡単に、唇の間からこぼれ出た。頑なに開こうとしなかった口が、こんなにもするりと言葉を紡ぐなんて、と、自分自身でも驚きながら、セシリアはユーリスを見つめる視線に力を込めた。どうか伝わりますように、という願いとともに。


「私は、クロードを愛していたことなんて、一度もない」


 きっぱりと、意思のこもった声でそう告げると、胸の底に渦高く積もっていた言葉の山からひとつだけ、すとん、と底のない沼の中へ溶けて消えてゆく感覚がした。


 ユーリスは一瞬、何を言われたのか理解出来ないと言いたげな、虚を突かれたような表情を浮かべたけれど、少しずつ意味を呑み込むかのように、じわりじわりと目を見開いてゆく。まん丸とした、青空のような瞳。そんな彼の左耳で、吹き抜けた風に乗って、同じ色をしたピアスがきらりと輝きながら微かに揺れた。


「確かにクロードは、とても大切な人よ。けれどそれは、恋慕ではなく――友情なの。良き友人で、良き理解者で、良き幼馴染。それが、私にとってのクロードだわ」


 一度言葉が口を衝いて出ると、そこからはもう、箍が外れたように次から次へと溢れ出してくる。そうすればするほど、胸の中に積まれていた言葉たちが、ひとつ、またひとつと、静かに溶けて消えてゆく。


 けれど、だからといって胸が軽くなるわけではなかった。寧ろ溶けていった分だけ、重みが増してゆくような気がする。しかしそれは、決して不快な重みではない。その重みこそ、ひとつひとつの言葉が大事であることの証だと、セシリアは思う。


「貴方によそよそしくなったのは……その、なんと言えば良いのか分からないけれど……クロードと同じように接することが出来なくなったからなの。自分の気持ちの変化に、ついてゆけなかった。だから……恥ずかしさを誤魔化そうとして、それで……」


 友情から恋情へと、少しずつ変化してゆく気持ちをきちんと自覚することが出来ず、けれどただの“幼馴染”として段々と見られなくなってゆくことへの、不安や戸惑い。それをうまく理解し、表現することが出来ていれば、もしかしたら何かが変わっていたのかもしれない。けれどもまだ幼かったセシリアに、それはあまりにも難しいことだった。


 けれど、思春期を迎え、漸く自身の想いを自覚したからといって、自分の感情をうまく制御できるようになったかといえば、決してそうではない。寧ろ、却って距離を生んでしまうような行動をとってしまうことが増えたように思う。好きな人を前にして、羞恥や喜びを隠そうとすればするほど、ではどう接すれば良いのだろう、と分からなくなった。――初恋だったのだ。今にして思えば、当然分かるはずもない。未だにそれは、変わらないのだから。


「小部屋の前で聞いたという、クロードとの会話のことだけれど……あれはただ、ドレス選びに付き合ってもらっていただけなの。こういうことを口にするのは恥ずかしいのだけれど……貴方に少しでも、“異性”として意識してほしくて……」


 夜会の度、ユーリスの周りには常にたくさんの令嬢が集った。色とりどりの、美しい華たちが。美しい華、可愛らしい華、清らかな華――。同性の羨望や妬みを買うほどに、彼はどんな女性たちからも人気があった。


 だから、ラストダンスを踊る時だけでも良いから、少しでも彼に自分の存在を意識してもらいたかったのだ、とセシリアは僅かに瞼を伏せながら思う。彼の傍にいても恥ずかしくない姿で。そうすることで、“異性”として、他のどの華よりも深く、彼の心に自分の存在を植え付けたかった。妹でも、友人でも、幼馴染でもなく。ひとりの華として。


 胸元の開けたものを、とクロードがアドバイスしたのは、女性らしさを際立たせることで、これまでの“認識”を打ち砕くことが目的だったようだけれど――そんなこと知る由もないユーリスからしてみれば、不穏な会話に聞こえても不思議ではない。まさか彼に聞かれているとは思わず、余計な反応を返してしまったのも不味かった。あんなことを耳にすれば、彼が誤解するのも無理からぬことだ。逆の立場であったなら、と考えると、なおのこと痛感する。


 なんてちぐはぐなんだろう、と思いながら、セシリアはそっと苦笑をこぼす。“ひとりの女性”として意識してほしくてドレス選びに必死になったり、騎士団へ入団してからも“許婚”がいることを忘れてほしくなくて手紙を書いたり、ピアスの片割れを渡したりしておきながら、いざ本人を前にすると、気恥ずかしさや臆病心がこみ上げてきて、うまく伝えることも向き合うことも出来ない。


 彼との間に溝が出来、それがどんどんと深まって距離を感じるようになればなるほど、諦めを抱きつつも、心の何処かではずっと藻掻き続けていた。昏い水中に溺れながら、それでも光を求めるように。


 ――ひとつ目は、“真実を知り、それと向き合う勇気”。そしてふたつ目は、“ご自身の足でお立ちになる勇気”でございます。


 自信がなかったのだ、と認めると同時に、グレアムの言葉が頭の中に蘇る。自信がなかったから、噂の真偽を確かめることもせずにそれを鵜呑みにして、果ては諦念まで抱いてしまっていた。そして、抗っていたくせに本心では自信がなかったから、結婚初夜に告げられたあの言葉を、受け入れてしまった。仕方のないことだ、と。愛されなくて当然だ、と。


 “選ばれたい”と思っていた。“選ぶ”ではなく、“選ばれたい”と。他のどの女性でもなく、自分を選んでほしい、と。


 それは結局のところ、自分自身を信じることが出来なかったからだ。“選ばれる”ことに、自己価値を置いてしまっていた。存在価値の根拠にしてしまっていた。ひとりの女性として意識してもらえれば、許婚でいることを認識してもらえれば、完璧な公爵夫人を全うできれば、いつかユーリスに“選ばれる”――。選ばれる資格を得たかった。選ばれなければ価値がない、と、無意識に思っていたから。


 けれどそれは間違いだったのだ、と、セシリアは過去の自分自身を――“選ばれる”努力ばかりしていた頃の自分自身を――思い浮かべながら、胸の内で静かに自嘲する。選ばれたいと願うことは、きっと誰にでもあることだ。しかし、そこに自分の身を、人生を委ねてしまうのは、間違っている。選ばれることを待っていてはいけない。それに縛られていてはいけない。


 ――今度は、君自身の意思で選んでほしい。


 ユーリスの言葉を反芻しながら、セシリアは伏せていた瞼をゆっくりと持ち上げる。あんなにも溢れ出していた言葉は、ふっと箍が嵌ったように途切れ、沈黙が再びふたりを包む。それでもユーリスは、変わらぬ真摯さで、セシリアをじっと見つめていた。その実直な眼差しを、逃げることなく真っ直ぐ受け止めながら、セシリアは自問する。自分は果たしてどうしたいのだろう、と。自分の意思は、何を選びたいのだろう、と。


「……ねえ、ユーリス」


 頭上で、鳥が羽ばたいてゆく音がした。ばさっと勢いよく翼を広げ、それから枝葉の揺れる音が。茂った葉の隙間から差し込む陽光が揺らめき、ユーリスの白銀の髪を、蒼穹の瞳を、美しく照らす。


「貴方に“愛することはない”と言われた夜、私は終わったんだと思ったわ。貴方に嫌われているのだとも思った。それでも、貴方の妻だから……」


 そこで一度間を置き、セシリアはこくりと唾を呑む。胸の底に沈み、溶けて消えてゆこうとする“ひとつの言葉”を、両手で包むように掬い上げながら。この言葉だけは溶けてしまわないように、と。いつまでもいつまでも形を保ったまま、大事に握り締めていたい、と。掬い上げたその言葉をきつく抱き締めて、セシリアは徐に唇を開いた。


「――貴方を愛していたから」


 ユーリスが息を呑む気配が、薫風とともに伝わってくる。それに微笑みを返して、セシリアはこみ上げる感情を鎮めるように、ゆっくりとひとつ瞬いた。


「せめて貴方が求めた通り、“公爵夫人”という立場だけは全うしようと努めたわ。……けれど、私はお義母様のような立派な"公爵夫人"にはなれなかった。それに私は、借金の件といい、貴方に迷惑をかけっぱなしで……」


 ユーリスが、何かを言おうと口を開きかける。けれどすぐに思い直したのか、結局何も言わずに唇を閉じた。それは、彼なりの“意思の尊重”に感じ取れ、セシリアはそっと笑みを深める。木陰でいつも本を読み聞かせてくれた頃の、あの凛としていながらもあどけなさのあるかんばせが、ほんの一瞬、今の彼に重なったような気がした。


「だから私は、あの日、一度答えを出したわ。あの時の私は、貴方の隣を離れることが、貴方の為であり、私の為でもあると思っていた」


 愛されないことへの疲れ。苦しみ。辛さ。そして、王女からの縁談。全てが重なりに重なって、あの時導き出したひとつの答え。自分の為、そしてユーリスの為。あの時はお互いの為に離れるべきだと、心からそう思っていた――信じていた、と言った方が正しいのかもしれない。それが正しい選択だと、自分自身に言い聞かせる為に。


「“離婚”という答えは、本心だった。それは、それまで私が知っていた“貴方”に対して出した答えよ。けれど――今日、私は今まで知らなかった“貴方”を知ったわ。これまで知ろうとしなかった、向き合おうとしてこなかった“真実”を知った。……そして、今まで目を逸らし続けてきた、自分自身の気持ちにも」


 知ろうとしなかったから、知らなかったこと。見ようとしなかったから、見えなかったこと。逃げていたから、向き合うことの出来なかったこと。それらが、いざ知り、目にし、向き合おうとすると、こんなにも――思っていた以上に――たくさんあったのだと、驚かされる。


 そして同時に、納得もする。だから理解することが出来なかったのだ、と。自分自身のことも、相手のことも。それはお互い様だ。どちらが良い悪いでもなく、許し許されるでもなく、裁き裁かれるでもない。互いに、どちらも理解していなかったからこそ生まれてしまった、深い深い溝。互いに、自分自身からも、相手からも目を逸らしていただけだった。


 けれど、今は違う。知らなかったことを知った。これまで向き合うことから逃げていた“真実”を。だから一番大事だったのは、相手にどうしてほしいではなく、自分自身の殻――思い込みや噂やその他たくさんのこと――を破り捨て、自分自身で“選ぶ”ことなのだ。真実を知った上で、“自分はどうしたいか”に耳を傾けること。


 私たちに必要だったのは、それだったのだと、セシリアはしみじみと思う。相手を変えるのではなく、自分自身を見つめ直し、そうして自分の意思で選ぶことが、何より必要だったのだ、と。


「だから、その上でもう一度、自分の意思で答えを出すことにしたわ」


 そう言いながら、セシリアはそっと視線を僅かに逸らし、ユーリスの左耳できらりと輝きを放つピアスを見つめる。彼の瞳の色と同じ、蒼穹を溶かし込んだような鮮やかな青色。


 宝石には、花言葉と同じように、それぞれに意味があるのだと教えてくれたのは、クロードだった。ユーリスからピアスを贈られてすぐの頃。あまりにも美しい青色に見惚れている時に、彼がそっと囁くように教えてくれたのだ。――アクアマリンには、“幸福”や“幸せな結婚”という意味がある、と。ダイヤモンドではなく、敢えて青いアクアマリンを選んだのは兄上らしいね、とも言い添えて。


 行方知れずだと思っていたそれを、彼はずっと身につけていてくれた。しかも、“左耳”に。今もそれは、ユーリスの白い耳朶の下で、贈られた時と変わらない煌めきを纏っている。


 その澄んだ宝石から再びユーリスの双眸へと目を移し、セシリアは一度ゆっくりと深呼吸をしてから、にっこりと満面の笑みを浮かべた。幼かった頃、よくそうしていたように。恥じらいも何もかもかなぐり捨てて、ただ純粋な想いだけを滲ませた、あの頃と変わらない笑顔を。


「――私は、私の意思で、貴方の隣にいたいわ、ユーリス」


 “答え”は、貴方がくれたものではない。

 私が、自分自身で見つけ、そうして選んだ“答え”。


 そう胸の中だけで密かに付け加え、セシリアはそっと笑みを深めた。伸ばされる大きな掌を視界の端に映しながら。それでもただ真っ直ぐに、青色の瞳だけを見つめて。

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