Fin
朝、隣が空になっている――。
それだけが、夫が帰ってきたことを証明する、唯一のものだった。
少し乱れたシーツに手を這わせてみるけれど、もちろんそこに人肌の名残はまるでない。ぬくもりも、匂いも、気配に至るまで、さっぱりと消えてしまっている。寧ろあれは夢だったのだ、と言われた方がしっくりくるほど――彼が眠っていたという形跡は、なにひとつ残されてはいなかった。
それでも以前のような虚しさや哀しみは、少しも感じない。寧ろもう少しこの感覚を味わっていたいとさえ思えて、セシリアははにかむように微笑んだ。シーツにも毛布にも、もう夫の存在は欠片も残ってはいないけれど。しかし、昨夜確かに抱き締めてくれた彼の腕のぬくもりが、逞しい胸板から聞こえてきた規則正しい鼓動の音が、今も身体のそこここに沁み込んでいるのを感じられて、そのぬるま湯のような心地よさの中にいつまでも浸っていたくなるのだ。
以前は背中合わせで眠ることが殆どだった。ひとつのベッドに並んで横になっているのに。互いに端に身体を寄せて、肌が触れてしまわないよう意図的に距離を作っていた。ふたりで眠る為のものではないベッドでそうするのは、ユーリスにとってとても窮屈なことだったろう。
けれど今は、もう背中合わせで眠ることはなくなった。セシリアが就寝した後に邸へ戻ってきても、彼はそうっとベッドに滑り込んで、そのままやさしく彼女を包むように腕を回して眠る。その腕の重みと、頬や薄い布越しに感じる彼のぬくもりで、まるで水底から掬い上げられるように、一度は眠りから覚めてしまうのだけれど。しかしセシリアにはその真綿で包まれたようなまどろみの中での目覚めが嫌いではなく、寧ろ思わず笑みをこぼしてしまうほどの至福なひとときだった。
とはいえ、いつまでも毛布に包まっているわけにもいかない。セシリアは後ろ髪を引かれつつもベッドを降り、窓辺へと歩み寄る。壁一面を覆うカーテンの、細く光を滲ませた隙間に指をかけてひと思いに開くと、燦々と降り注ぐ清潔な朝陽が身体中を照らし、そのあまりの眩さに思わず目を細めた。
ぐっと伸びをして完全に眠気を晴らすと、セシリアは窓を開けて朝の新鮮な空気を室内へ取り込み、その足でドレッサーへと向かった。
ブラシや香水瓶が置かれた飴色の台の下に備え付けられた抽斗を開け、中から小さな小箱をやさしい手つきで取り出す。真紅のベルベットが張られた、何の装飾も施されていないシンプルな造りのジュエリーボックス。そっと蓋を開けると、白いサテンが張られたその上に、細長い雫型のアクアマリンがあしらわれたピアスが、静かに横たわっていた。
セシリアの肩越しに朝陽を浴びたそれは、澄んだ光の粒を弾きながら、きらきらと輝いている。ユーリスの瞳によく似た、蒼穹を溶かし込んだような青色の輝きを。今日も今日とて――いや、昨日よりもより一層美しく。
それを指先で摘み上げ、セシリアは箱を台の上に置いて、鏡を見ながらピアスを右耳につける。手を離すと、雫型にカットされたアクアマリンが小さく揺れ、銀装飾が小さな音を奏でた。
その冴えた音と、耳朶に感じる重みに、つい頬が緩んでしまう。同じ音を、重みを、彼もまた感じているのだろうと思うと、場所も時間も超えて、ふたりでひとつ――まるで感覚を共有しているような、或いは、すぐ傍に彼がいるような気がして、ひとりで過ごす時間も、今ではすっかり寂しくなくなった。
暫くの間、鏡越しにアクアマリンを気が済むまでじっと見つめ、セシリアは満足げにゆっくりとひとつ瞬くと、今度は部屋の中央に置かれたソファへと歩み寄る。向かい合うように設けられた二台のソファと、その間に挟まれた一台のテーブル。その上には、革張りの手帳とペンが、それぞれひとつずつ置かれている。
セシリアはソファの片側にそっと腰掛け、深い藍色の表紙をした手帳を手に取った。頁の中程に挟まれたスピンを頼りに開くと、少しアイボリーがかった紙に、見慣れた流麗な文字が丁寧に綴られている。
何をしたのか、誰と話したのか、ちょっとした変わり事や、他愛もないこと――。文章はあまり長くないが、それでも端的にまとめられたそれを、一文字一文字丁寧に視線で辿りながら、セシリアはふっと微笑みを滲ませた。どうやら昨日は、帰宅前にテオドールとブライアンに捕まり、酒飲みに付き合わされたようだ。
あのふたりとならば、きっと一杯では済まなかっただろう。どういう理由をつけて抜け出してきたのかは書かれていないけれど、苦労しただろうことは想像に難くなく、それが少しだけ面白かった。
ユーリスは相変わらず多忙だ。それはテオドールの人間不信が幾分和らぎ、彼の派閥が盤石なものになるまでは、変わることはないだろう。ユーリスは今も殆どの時間を王城で過ごし、邸で床につくのは数日に一度ほどしかない。
けれど、以前にグレアムが言っていた通り、ユーリスはそれでもセシリアが把握している以上に邸へ戻っている。たとえば夜会や晩餐会から王城へ戻る際に、或いは仕事を一時切り上げて、“息抜き”と称してひとり馬を駆って。滞在はほんの僅かな時間だけである上に、頻度にはばらつきがあり、更にセシリアが眠りに就いた後であることが多い為、意識のある状態で顔を合わせることは滅多にない。
それでも邸へ帰ってくる彼に、何故かと問うたことがある。夜会や晩餐会を終えて、そのまま王城へ戻る方が休める時間は多いだろう。“息抜き”と称しての外出でも、往復の時間を考えれば、王城の庭園でも散歩している方がまだ良いような気がしたからだ。
“浮気”をしているのではなく、多忙であるが故に帰れない。それを理解したからこその心配だった。少しでも多く休める時間をとってほしいという、彼の身体を慮ってのこと。だから無理はしてほしくない、と伝えたかったセシリアに、ユーリスは苦笑を滲ませながら逡巡した後、
――君の顔を見れる方が、十分に休むことが出来る。
と真っ直ぐな声で言った。寝顔だけでも見られればそれで十分だから、とも。そう言われた時には、驚愕したものだ。けれどその驚きは、すぐに喜びへと変わり、そうして耳まで真っ赤に染まるほどの羞恥へと変わった。まさかそんな理由で戻ってきているとは、露ほども思っていなかったから。
その遣り取りをきっかけに、寝室に一冊の手帳を置くことにした。互いの本音だけを、繕うことなく思いのまま綴ると約束をした手帳を。
忙しくて顔を合わせられない日々の中、この手帳はいつしか、ふたりにとって会えない時間を繋ぐ“会話”のようなものになっていた。ユーリスは邸へ戻る度、どんなに僅かな時間であっても、律儀に言葉を残してくれる。あまりにも余裕がない時は、たった一行だけの時もあるけれど。それでも彼は、自らの意思で必ず言葉を綴ってくれる。
そしてセシリアもまた、就寝前の日課は読書から手帳への言葉綴りへと変わった。一日の出来事から、侍女やグレアムたちと交わした会話、それから相も変わらず日々忙しいユーリスを気遣う内容や、お茶会で耳にした気になったことや疑問に思うことなどを、つらつらと。隠し事は一切無し、という決まり通り、時には逢えないことを寂しいと認める時もある。初めのうちは抵抗があったものの、今ではそれもすっかり吹っ切れた。
それらに対して、ユーリスはきちんと正直に返事を書いてくれる。寂しいと綴れば、早めに帰宅をして、直接言葉を交わしてもくれるようになった。無理をさせているのでは、と申し訳なく思うことも、未だにないわけではないけれど。それでも「問題ない」という彼の言葉を信じて、セシリアは素直に思いの丈を綴っている。――もう二度と、自分自身に、お互いに目を逸らし、すれ違うことがないように。
扉をノックする音が室内に響き、朝の支度にやって来た侍女の声が聞こえてくる。セシリアはそれに短く返事をし、急いで手帳を閉じ、ペンとともにベッドサイドに置かれた小ぶりなチェストの抽斗の中へとそれをしまった。誰の目にも触れないように。ふたりだけの秘密の宝物を隠すように。
▽
「――夫婦円満なようで何よりだ」
唐突に声をかけられ、ユーリスは書類に走らせていたペンをぴたりと止める。反応を示せば、どうせ面白がられるだけだろうと分かっているけれど、それでもちらりと上目で窓辺のシェーズロングへ視線を向けた。そこには随分と寛いだ格好で、テオドールがゆったりと腰掛けている。侍女が淹れたばかりのお茶を悠然と飲みながら。
その口元には明らかに笑みが滲んでいるのが見て取れ、ユーリスは胸の内で深々と溜息をついた。
「陛下もそろそろ、お后候補を探されては如何ですか」
「そのうちな」
夫婦がどうのと言うくせに、相変わらずこの君主は、后を娶ることには全く興味を示さない。跡取りとなる御子のこともあり、元老院や大臣たちからの催促は日増しに大きくなっているが、どれものらりくらりとうまく躱して、聞く耳を持とうとしないどころか、最終的にユーリスへ対応を押し付けてくるのだから困ったものだ。
とはいえ、以前は「興味がない」と一刀両断だったのに対し、最近は「そのうち」と口にするようになった分だけ、前進したと思うようにしている。ほんの少し、僅かばかりの――誤差の範囲と言われればそれまででしかないくらいの小さな――前進でしかないけれども。
「それにしても――」
テオドールは右手に握ったティーカップの中へ視線を落としたまま、くつりと喉を鳴らして笑う。
「先日会った時にも思ったが、セシリアは随分美しくなったものだな」
まあ、昔から整った顔立ちをしてはいたが。そう付け加え、再びカップの縁に口付けるテオドールの横顔を、ユーリスは眉を顰め、今度こそはっきりと真っ直ぐに見遣る。半ば睨めつけるようにして。
無論その視線に気付いているだろうに、テオドールは素知らぬ顔でティーカップをソーサーの上へ置くと、悠々とした仕草で背もたれへと深く身を預けた。
先日――というのは恐らく、王太后主催で開かれた食事会の時のことだろう。彼女が信頼する者だけが集められた、とても小規模な食事会。その招待状に、“公爵夫妻で”参加して欲しい旨が王太后直々に綴られていた為、テオドールという厄介な存在に苦虫を噛み潰しつつも、セシリアを連れて参加した。
彼女は基本的に王太后と会話をしていたようだが、ユーリスの目を盗んで、テオドールに話しかけられたことを後から聞いた時には、してやられた、と悔いたものだ。恐らくはちょっかいを出さずにはいられなかったのだろう。母の手前、堂々とユーリスをからかうことこそしなかったが、案の定、彼はセシリアへの興味だけは隠そうとしなかった。まるでそうすることで、遠回しにユーリスをやきもきさせて愉しむかのように。
翌日、それとなく棘を含ませて文句を言ったが、もちろんこの男に効くはずもなく。また茶にでも誘うか、と平然と――冗談半分、本気半分で――言ってのけた時には目眩がしそうだった。
無論、后候補として狙っているわけではないことくらい、分かっている。ただからかい、反応を面白がっているだけだ。しかし、そうと頭では理解していても、気持ちがそれについてゆくかといえば、そうではなかった。いくら信頼を置いている主君であり、友人であったとしても。
「お前が夜会や晩餐会になかなかセシリアを同伴しないのは、魑魅魍魎しかおらん社交界から、少しでも距離を置かせたいだけかと思っていたが」
そう言って、テオドールは肘掛けに頬杖をつきながらユーリスへと目を向け、今日一番の意地の悪い笑みをにやりと浮かべた。
「――ただセシリアを、他の男の目に晒したくないだけだろう?」
問いかけるような口調だが、殆ど確信に満ちた声音に、ユーリスは舌打ちしたいのを堪えながら、手元の書類へと視線を落とす。無言が、彼にどう受け取られるかなんて、考えるまでもない。けれど、敢えて肯定も否定もすることなく、止めていた手を動かしてペンを走らせた。ここで下手に言葉を返せば、どこでセシリアに告げ口されるか分かったものではない。
「独占欲が強いのは、初恋故というところか」
くつくつと笑って、テオドールは戯けたように首を傾ける。その姿が嫌でも視界の端に映り込み、ユーリスは鉛でも詰めたように重たい溜息を深々とついた。
「……そろそろ執務室へ戻られた方が宜しいのでは」
「構わん。私の姿がないと分かれば、どうせ奴らは此処へ来るだろうからな」
呆れたものだ、と思いつつ、ユーリスは左手の指先で皺の寄った眉間を軽く揉む。どうせそう遠くない先で、彼の言葉は現実となるのだろう。
そしてその予想通り、テオドールへの謁見を申し入れていた大臣がユーリスの執務室の扉を叩いたのは、それから幾分経ってからのことだった。
▽
手入れの行き届いた庭園をくるりと見回し、セシリアはなるほど、と納得する。道理でお茶から薔薇の薫りが濃く漂ってくるわけだ。お茶会の為に設けられた会場を取り囲むように、赤や白といった色とりどりの薔薇がたっぷりと茂っている。
それに、此処へ来るまでの道やパーゴラにも、同様に様々な種類の薔薇が――こんなにも豊富にあるのかと驚くほど――美しく咲き乱れていた。よほど薔薇が好きなのだろう。ティーカップやポットにまで、繊細な筆使いで薄桃色の薔薇が描かれている。
先日、王太后直々に招待を受けた小規模な食事会の席で、初めて顔を合わせたアディソン伯爵夫人。そこで彼女から、数日後に開くお茶会へ是非来てほしい、と無垢な笑顔とともに誘われ――そうして今に至るのだが、周囲からは聞こえよがしに噂話ばかりが耳に届いてくる。
そもそも、当初は予定されていなかった、突然の参加。それが“あの”セシリアとなれば、集った者たちは当然嬉々として口を開くだろう。誘った当人である、アディソン伯爵夫人が席を外している隙を狙って。
「ねえ、お聞きになりました? 公爵様のお話」
「あら、どのお話かしら」
「一昨日の夜、ベアトリア嬢のもとをお訪ねになっていたというお話よ」
「私もそのお話、耳にしましたわ。明け方にお邸を出てゆかれるところをお見かけになった方がいらっしゃるとか」
噂が広まるのはこんなにも早いものなのか、とつくづく思いながら、セシリアはゆったりとティーカップを持ち上げ、頭の中で手帳の頁を捲る。
確かに数日前、ユーリスはベアトリア嬢――ビルソン伯爵邸を訪れる予定だ、と一文綴っていた。恐らくは、伯爵家に令嬢がひとりいる為に、噂が出回ることを予見してのことだろう。政務の一環である為か、詳細は記されていなかったものの、それでも誤解を招かないようにと、用事があるのは当主の方だ、と彼は明確に記していた。
そもそも――。ティーカップの縁に唇をつけ、薔薇の華やかな薫りが漂うお茶をひと口含みながら思う。そもそも、“明け方に邸を出てゆくところを目撃した人がいる”という時点で、その噂話には信憑性がない、と。
何故なら彼は、ビルソン邸を出た夜更けのうちに、公爵邸へ一度立ち寄っているのだから。セシリア自身は既に就寝した後で帰宅には気付くことはなかったけれど、代わりに彼は、手帳に短い言葉を書き残してくれていた。明日の夜は少し時間がとれそうだ、と。そして事実、彼は昨夜、セシリアの隣で眠っていた。今朝にはすっかり姿はなくなっていたけれど。
これからは、自分の目で見て、自分の耳で聞いて――そうして、何を信じるかは自分で決める。そう心を定めてからというもの、“噂話”とはこんなにも余計な尾鰭がつくものなのか、と幾度思ったことだろう。それらは実に脆いものであるのに、何故あんなにも惑わされていたのだろうか、とも。
しかし、そう感じられるのも、“真実”を知り、何を信じるかを自身で選ぶことに決めたからこそだ。そう思いながら悠然とティーカップをソーサーの上へ戻し、セシリアはちらちらと視線を投げてくる夫人たちの方へと目を向けた。凛と背筋を伸ばし、にっこりと笑みを浮かべて。
「面白いお話ですわね。……けれど、何を信じるかは、もう私自身で決めておりますの」
びくり、と夫人たちの肩が微かに震え、息を呑むとともに表情が固まる。そんな彼女たちを穏やかな眼差しで見つめ、セシリアはゆっくりと唇を動かした。もう、噂に足を止められることはない――そう思いながら。
「――私は、私の意思で選びますから」




