第39話
“休暇”という響きだけで、何故かむず痒い感じがするのに、普段では滅多にいることのない昼間に邸にいる状況は、輪をかけてユーリスに妙な居心地の悪さをもたらした。どうにも落ち着かない。嘗てはここが、自分の住んでいた――生まれ育った――場所だというのに。
取り敢えず執務室にこもり、伯爵領から送られてきた書類に一通り目を通すものの、それもほんの一、二時間ほどで片付いてしまった。
“休暇”である以上、前回のように政務の一部を持ち帰ることも出来ず、クロードから送られてきている書類は全てセシリアの執務室にある。こんなことならば、テオドールに無理を言って、せめて視察の報告書の作成だけでも自分が手がけると押し切れば良かった、とつくづく思う。
これまで仕事尽くしの日々だった。頭の中の殆どはそれに詰め尽くされ、如何に手際よく捌くか、自国が有利になる交渉材料は何か、といったことばかりを考える毎日。それは朝目覚めた時から、夜会や晩餐会に参加している時も、果ては眠る直前まで頭の中枢に居座り続ける。
そんな生活を長く続けていたせいで――政務を意図的に取り上げられてしまった今、ユーリスはただただ途方に暮れていた。無論、この“休暇”が、ただのそれでないことくらい、よくよく理解している。あのテオドールがわざわざ“休暇”と銘打って時間を用意してくれたのだ。その好意に、報いなければならない。
分かっている――そんなことは、理解している。視察へ出向いていた間に、そのことについて毎夜、幾度も繰り返し考え続けてきたのだから。やらなければいけないことは、しっかりと頭の中で整理されている。――しかしそれは、整理されているだけ、と言った方が正しいのだろうけれど。執務室の椅子に深く腰掛け、意味もなく天井を見つめたまま、未だ何も出来ないでいる愚かな己に深く溜息を吐き出しながら、ユーリスは無造作に前髪を掻き上げた。
取り敢えず時間潰しに、庭園で散歩でもしよう。らしくもないがそう思い立ち、ユーリスは伯爵領関係の書類をデスクの抽斗へしまうと、上着も纏わないラフな格好で執務室を出た。今日も突き抜けるような青空から陽光が降り注ぎ、空気の入れ替えのために開け放たれた廊下の窓からは、瑞々しい若葉を揺らす音とともに爽やかな薫風がふわりと流れ込んでくる。
まるでそれらに背を押されるようにして階段を降り、エントランスを横切ろうとすると、ちょうど反対側の廊下から姿を現したグレアムと目が合った。何事も丁寧に受け止め、やさしく包み込んでくれるような深い灰色の瞳。彼はユーリスの姿を認めるや否や、昔から変わらない――今では随分皺が寄っているけれど――柔和な顔に穏やかな笑みを湛え、礼儀正しく軽く頭を下げた。
「どちらへお出かけでございますか」
「気分転換に、庭を散歩するだけだ」
ユーリスの返答に、グレアムはほんの一瞬だけ片眉を上げる。見間違いだったのではと思うほどの、些細な変化。しかしそれを確かめる前に、グレアムは瞬きひとつの間ですぐに元のやわらかな微笑みへ戻ると、「そうでございますか」と言って、庭園へと続く扉の方へ目を向けた。
「今日は雲ひとつない晴天で、気候も穏やかですから。庭園の花々も活き活きとしており、散歩をするにはうってつけかと存じます」
「……そうか」
それだけを言って、ユーリスはとめていた足を動かし、庭園へと続く扉へ一歩踏み出す。しかしはたと、彼はそこで身動きを止め、頭を過っていった美しいブロンドの髪に意識を奪われる。――彼女は今、いったい何処で何をしているのだろう。
邸へ戻ってきたのが朝食の後だった為、セシリアとは擦れ違いとなり、未だ顔を合わせていない。侍女の話では、午前中は執務室で書類の整理をしているとのことだったが、その話を聞いてからもう幾分時間が経っている。陽は疾うに天の真上に差し掛かり、今にも通り過ぎようとしているような時刻だ。それでもまだ彼女は、自身の執務室にこもっているのだろうか。
背中に注がれるグレアムの視線に気付き、振り返って居場所を尋ねようかと考えたが、しかしユーリスはすぐにそれを諦め、まるで何でもなかったかのような素振りで止めていた足を再び動かす。
庭園へは、中央階段の裏に設けられた小さな扉から出ることが出来る。造りからして、それが本来の出入り口ではないのだが、来客を案内するわけでもないのだから、最も近い場所から出ても何ら問題はない。単なる時間潰し――という名の、実質はもう一度己と向き合う為の時間――でしかないのだから。
グレアムに見送られながら扉を開くと、青くも清々しい薫りを孕んだ若葉風が吹き抜け、髪を――左耳につけたピアスを――微かに揺らした。
その宝石と同じ色をした空には、グレアムの言っていた通り雲はひとつもなく、照りつける陽光のあまりの眩さに、ユーリスは僅かに目を眇める。初夏も、あともう僅かで終わりを迎えるだろう。そしてその後には――あの黄色い大輪の花が咲き乱れる季節がやって来る。
石灰石で出来た石畳をぼんやりと歩みながら、ユーリスは周囲で心地よさそうにそよぐ草花を見るともなく眺めた。白色のアイリス、灌木の周りを埋め尽くすように群生するエルダーフラワー、白いパーゴラにたっぷりと茂ったモッコウバラ。
来客用の部屋やパーラーに面したメインの庭は、噎せ返るほど生命の薫りに溢れ、色とりどりの草花は陽光に見守られながら艷やかに咲き誇っている。けれどユーリスはそれらの脇を素通りし、中央に設けられた噴水や小ぶりなガゼボを尻目に歩みを進め、蔓薔薇のアーチが連なる道を突き抜けて、その奥に広がるもう一つの庭へと足を踏み入れた。
アーチを抜けた先には、庭園との境を区切るように、シマトネリコやリンデン、エゴノキといった中高木や、クチナシ、ボックスウッドなどの低木がまるで目隠しのように植えられている。そのせいで、一本道で繋がっているものの、メインの庭園からは殆ど視界が遮られるその場所は、両親の目から逃れ、何も気にすることなく遊び回れる――子供たちにとっての"秘密基地"のような場所だった。
けれどもそれは、もう遥か遠い昔の話だ――。恋愛感情などに左右されず、ただ兄妹として、ただの幼馴染として無邪気でいられた頃の、今はもう決して手の届かない、懐かしい思い出たち。
それ故、邸へ戻っても、この場所へ足を踏み入れることを、ユーリスは意識的に避けていた。溢れる記憶とともに、感情を、心を、大きく揺さぶられてしまうような気がして。けれどもだからこそ、此処が必要なのだと、ユーリスは思う。今の自分には、己を見つめ直す為に欠かせない、聖域のような場所だ、と。
庭を取り囲むように中高木がぐるりと植えられているが、それらに囲われた中央には初々しい緑色をした芝生が敷き詰められ、小さな広場が造られている。ただの原っぱ、と言った方がしっくりくるような、何もない場所。ベンチやガゼボといった類はなく、広場を縁取るように石畳が敷かれ、その傍らにはラベンダーや色とりどりのカンパニュラ、ウィステリアによく似たルピナスが美しく配されている。
ほぼ円形に造られたその庭の石畳を、反対側――入口の真向かい側――へ向かって進んでいると、ポプラやリンデン、プラタナスといった巨木が林立する一帯に、ふと、見覚えのある人影が見えた。周りの木々よりも一際しっかりとした太い幹を持ち、特徴的な切れ込みのある葉をたっぷりと茂らせたオークの根元。風がゆるく流れる度、艷やかなブロンドの髪が、やわらかな薄紫色のドレスの裾とともにふわりと靡く。
その姿に、ユーリスは目が釘付けになる。何故、と思った。何故そこにいるのだろう、と。ユーリスにとってその木の根元は特別な場所だったが、しかし彼女もまた同じとは限らない。疾うに記憶の中に埋もれ、薄れ、忘れ去られていると思っていた。だから、ただ気紛れに選んだ木がたまたまそれだったのだろう、と考えるのが妥当なはずだ。他のどの木よりも立派で、だからこそ木陰で休むには最適な場所なのだから。
けれど――もし、彼女がその木を憶えていたとしたら。一抹の望みが胸を過ぎり、しかしユーリスは小さく溜息を吐きながらそれを否定する。彼女はその木の下にいることよりも、原っぱを駆け回っていることの方が多かった。当時飼っていたゴールデンレトリバーやクロードと共に。息を切らし、時には小さな汗の粒を、白くやわらかな肌に張り付かせながら。
引き返そうか、と思ったけれど、ユーリスから相手の姿形がはっきり見て取れるということは、彼女の方もまた同じことで。すぐに存在に気付いたらしいセシリアが、驚きに満ちた表情をユーリスへ向けながら、大きく目を見開いた。そんなふたりの間を――まるで時が止まったかのようにじっと見つめ合うふたりの間を――かさかさと葉擦れの音を立てながら、新緑の薫りを滲ませた風がやさしく吹き抜けてゆく。
彼女の姿を瞳に映せば映すほど、テオドールの声が鼓膜の裏側に蘇ってくる。まるでたった今耳元で囁かれているかのような鮮明さで。
――お前が、己に対して“セシリアを愛して良い”と許していないことだ。
視察に出ている間、灯りを点けていない、青白い月明かりだけが薄暗く照らす室内で、ひとり、何度も何度も繰り返し考えた。そうすればするほど、箍が外れて溢れ出しそうになるのは、彼女への想いだった。公爵家の資金に負担となろうが、君主から首を刎ねられようが、それでもセシリアが護れるなら構わない、と頑なになれたほどの想い。
見返りなど、要らなかった。ただ彼女が何処かへ売り飛ばされることなく、その身の安全を護られるのなら。そもそもの初めから、“見返り”などということは、頭に浮かびもしていなかった。ただただ、彼女を護れるのなら、それだけで良かったのだから。
だからこそ、テオドールの言葉を上手く呑み込むのに、かなりの時間を要した。己に対して“愛して良い”と許すことと、相手に“愛されたい”と思うことは、果たして何が違うというのだろう。どんなに自問を重ねても、答えは容易に見つからなかった。底の見えない闇に呑まれ、その中で必死に藻掻き続けても、分からないものは分からなかった。
けれど――と、ユーリスは眩い光の中で、淡いヴェールに包まれているかのように一層輝きを帯びて見えるセシリアの姿を見つめながら、すとん、と何かが腹の底に落ちた気がして、静かに息を呑む。
己に対して“愛して良い”と許すことと、相手に“愛されたい”と思うことは、そもそも主語が違う。
前者の主語は己だ。彼女を愛している。その気持ちを決して否定せず、傷付くかもしれないと分かりながらも、それでも愛することを“選ぶ”。
けれど一方後者は、自分を選んでほしい、自分を必要としてほしい、自分を見てほしいという、“相手”を主語とした、ある種の“願い”。
主語が己か相手か。そして“選ぶ”ことと“願う”こと。その違いは決して小さくない。
愛されたいという願いそのものが間違っているわけではない。誰かを深く想えばこそ、その人に自分を見てほしいと願うのは、ごく自然なことだろう。けれどもそれを、ユーリスは頑なに拒み続けていた。"愛されたい"と願うことを、己に許してこなかった。
セシリアの幸せを願い、その身を護ろうと尽くし、彼女の為なら、どんな犠牲も厭わないと思えるほどに彼女を想っていながら。それでも、意固地に拒み続けていた。目を背け続け、少しも見ようとはしなかった。頑丈に封をして、更には重石までのせて、自らの願いに蓋をし続けてきた。
――お前が、己に対して“セシリアを愛して良い”と許していないことだ。
あの言葉は、何に恐れを抱いているかの違いを指摘したかったのだろう。“愛されたいと思うこと”を恐れているのではない。その願いを抱く己自身を“認める”ことこそ、恐れていたのだ。だからこそ、それを己に許せなかった――。
己の弱さも、欲も、傷付くことへの恐れも含めて受け入れた上で、それでもなお愛することを“選ぶ”こと。そして、愛しているからこそ生まれる“願い”を否定しないこと。それが“己の足で立つ”ということである、と、テオドールは言いたかったのだろう。
木漏れ日の中で、薄紫色の美しい瞳が揺れている。その宝石のような双眸を受け止めながら、ユーリスは引き結んでいた唇から、ふっと力を抜いた。
――望む未来があるのならば、殻を破れ、ユーリス。破ることを恐れるな。昏い世界の底で朽ちたくなければな。
今にも、あの時のくつくつとした笑い声が聞こえてきそうで、ユーリスは幻影を霧散させるように、ゆっくりとひとつ瞬く。そうして、初夏の瑞々しい空気を肺いっぱいに吸い込み、ざわつく心を鎮めながら、意を決して唇を開いた。
「――少し話が出来ないか、セシリア」
そう告げると、彼女はじわりと更に目を見開き、暫くの間呆然としていた。彼女が驚くのも、無理はないだろう。離婚の話より以前から、ふたりで話をするという機会は殆どなかったのだから。
一際強い風が吹き抜け、枝葉を、草花の上を渡ってゆく。陽光を浴びて淡く輝くブロンドの髪を、彼女はそっと右手でおさえると、やがてふっと解けるようにやさしい笑みを浮かべ、それから徐に頷いた。
「ちょうど良かったわ。私も、貴方と話がしたいと思っていたの……ユーリス」
▽
ユーリスが“休暇”を得て邸へ戻ってきた、とグレアムから聞かされた時には、驚いたものだ。あんなにも忙しい彼が、という思いと、まだきちんと向き合えるだけの心の準備も頭の整理も出来ていないのに、という焦りが綯い交ぜになって。
幸いにも朝食はひとりだったので、そのまま執務室にこもり、午前中は書類仕事に没頭した。彼がこの邸にいるという事実を、少しでも忘れる為に。けれどそれもすぐに区切りがついてしまい、セシリアは途方に暮れてしまった。
このまま執務室にこもっていれば、ユーリスが訪ねてでもこない限り、顔を合わせることはない。それは束の間の安心を与えてくれる。――しかしそれは、逃げていることに他ならない。真実を知り、向き合う勇気が必要だと分かっていながら。それでも今、頭の中で考えているのは、それから逃げることばかりだ。
お茶を用意するか否かを確認に来た侍女に断りを入れ、セシリアは息抜きという名目で庭へと出た。メインの庭園を迷いのない足取りで突っ切り、蔓薔薇の茂ったアーチをくぐった先に広がる、小ぶりな庭。
入口に佇み、瑞々しい緑色をした芝生の広場の奥に見える、他のどの木よりも一際立派なオークへ視線を据えると、途端に頭の中に、懐かしい思い出が次から次へと溢れ出してきた。図鑑や、童話や、少し難しいオペラの原作などといったものをたくさん読み聞かせてもらった、かけがえのない場所。
そこで一息ついて、ゆっくりと考えをまとめよう――そう思っていたのに。セシリアは今にもそわそわとしてしまいそうになる身体をどうにか落ち着かせ、少しでも気を紛らわせようと、芝生の敷き詰められた広場を囲う草花へとじっと視線を据える。
ただ、この思い出の場所で、頭を整理しようと思っていただけなのに――まさかユーリスが来るだなんて、想像だにしていなかった。彼の中では疾うに、消え去ってしまった場所だろうと思っていたから。
「ユーリスが此処に来るなんて、驚いたわ」
もしかしたら、ただの気紛れだったのかもしれない。彼には此処を目指した意図などまるでなく、散歩ついでに通りがかったら偶然鉢合わせてしまっただけ、と考えた方がよほどしっくりくる。それくらい、意外だったのだ。意外で、でも、否が応でも胸がときめいてしまった。もしかして――という、一縷の望みのせいで。
ユーリスは何か思案するように間を置き、それからほんの少し逡巡するような仕草を見せてから、ゆっくりと口を開いた。
「……俺も、君が此処にいるのは、意外だった」
低く落ち着いた声でそう言った彼の横顔を、セシリアはちらりと横目で見上げる。ユーリスはただじっと、目の前に広がる広場を見つめていた。まるで何かを――今はもう此処にはない何かを――探そうとしているかのように。
いったい何を探しているのだろう。何を見ようとしているのだろう。彼の横顔からそっと視線を逸らし、セシリアもまた風の渡る広場を眺めた。そうしていれば、彼が探しているものを、見たがっているものを、知れるような気がして。
けれど無論、そんなことなど出来るはずもない。彼と自分は、結婚した夫婦ではあっても、全く別の人間なのだから。
――奥様には、ふたつの“勇気”が足りていらっしゃらないのではないかと存じます。
ゆるゆると瞼を閉ざし、いつの夜かにグレアムから告げられた言葉を、ひとつひとつ丁寧に拾い上げるようにして、思い出す。
――ひとつ目は、“真実を知り、それと向き合う勇気”。そしてふたつ目は、“ご自身の足でお立ちになる勇気”でございます。
もう一度彼の言葉を頭の中で反芻し、セシリアは静かに瞼を持ち上げる。視線の先で、花の群れの中に置かれた大理石のバードバスに、青い小鳥が二羽、仲睦まじげに寄り添ってとまっているのが見えた。蒼穹と同じ、そしてユーリスの瞳と同じ色をした、美しい青色の翼。
あの物語で、兄妹は“青い鳥”を探して旅をしていた。彼等は様々な経験を得て、その末に漸く青い鳥を見つけ、捕まえる。けれどもその瞬間、青い鳥は飛び去っていってしまった。自由な大空へと、立派な翼を広げて。
長く愛され続けた物語であるが故に、あの話には様々な解釈がある。どれが正解なのか、著者亡き今は謎のままだ。これから先も、“これ”と断定されることはないだろう。青い鳥は存在したのか。それとも、本当は存在などしていなかったのか。
でも、と、セシリアは小さな嘴でちびちびと水を飲む小鳥たちを眺めながら思う。著者が伝えたかったのは、そういうことではないのかもしれない、と。青い鳥がいるのかいないのかではない。最も重要なのは、その鳥を探す“旅”そのものの方なのではないか――そこに、全ての意味をもたせたのではないだろうか。
幸福そのものを探す旅ではなく、幸福を認識できる人間になるための旅。もし初めから、何の苦楽もなく青い鳥を手に入れていれば、兄妹は何も学ぶことはなかっただろう。
だからこそ、旅は必要だったのだ。“青い鳥を手に入れた”ことではなく、“探したこと”が何より大事なことであったから。その旅を経て、兄妹は様々な経験をし、学び、成長した。そうしてその果てに漸く、彼等はこれまで見えていなかったものを見ることができたのだ。幸福とは遠くにある特別な何かではなく、案外すぐ傍にあるものなのかもしれない、と。
「――ねえ、ユーリス」
小さな羽音を立てて、小鳥たちが飛び立ってゆく。自由な大空へと。あの物語のラストで、折角捕まえた青い鳥が、鳥籠の中を抜け出し、羽ばたいてゆくように。
「私、決めたの」
そう告げた瞬間、隣で息を呑む気配がした。きっと、あの日のことを思い出したのだろう。離婚の話を切り出した時のことを。もしかしたら彼にとっては、“決めた”という言葉は、それほど重い意味を持つのかもしれない。だからだろうか。彼は暫くセシリアを見ようとしなかった。その姿を見て、胸の奥がちくりと痛む。
けれど――逃げない。今此処で、逃げてはいけない。
そう自分を鼓舞しながら、セシリアはゆっくりと、ユーリスの方へと顔を向ける。それでも彼は、すぐにこちらを見ようとはしない。そのまま彼が振り向いてくれるのを、セシリアはただ静かに待った。急かすことも、視線を逸らすこともせずに。すると、やがて観念したように小さく息を吐いて、ユーリスは徐にセシリアへと目を転じた。
その動きに合わせ、彼の左耳につけられたアクアマリンのピアスが、微かに揺れる。それを身に着けている彼をこの邸で目にしたのは、これが初めてだった。
左耳で揺れるアクアマリンよりも、天空を埋め尽くす蒼穹よりも、更に澄んで美しい、青色の瞳。それをじっと見つめ、セシリアはふっと吐息をこぼしながらやさしく微笑んだ。その裏側に、強い決意を潜めて。
「これからは、自分の目で見て、自分の耳で聞いて――そうして、何を信じるかは自分で決める、と」
だから、とそこで一度言葉を区切り、ユーリスを見つめる視線に力を込める。人間は総じて未熟だ。そして“王子様”もまたそんな“人間”のひとりである、というテオドールの発言を思い出しながら。
「だから、教えてくれないかしら。――貴方が今まで何を考え、何を思ってきたのかを」




