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「君を愛することはない」と言われて三年、そろそろ白い結婚をやめようと思います  作者: 千乃


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第38話

「――そうカリカリするな、ユーリス」


 一歩先を悠然とした足取りで進むテオドールが、肩越しに一瞥するでもなく、唐突に声をかけてきた。今にも腹を抱えて笑い出しそうなほど、あからさまにからかいを孕んだその声に、ユーリスは静かに眉を顰める。


 今は背後にいるのだ。いくらだって顔を歪めても構わないだろう。しかしこの男には、まるで背中にも目がついているのかと思う時があるのを、幾度も目の当たりに――或いは身を以って――経験してきたので、あくまで眉根を寄せるに留める。どうせそんな表情をしていることも、容易に察しているのだろうから、どう隠したところで無意味ではあるのだけれど。


 王都郊外への視察を終え、漸く王城へ戻ってすぐ、エントランスで元老院のひとりに偶然出くわし、泣きつかれた時には頭を抱えたものだ。何せ会議の時間になっても、テオドールが姿を現さないというのだから。


 これから報告書作りに、留守にしていた間に渦高く溜まっているであろう書類の整理だってしなければならないというのに。先ずは君主を議会の間まで連れ出すという、なんとも子供じみた業務からこなさねばならないのかと思うと、腹の底から深々と溜息をつきたくなった。


 どうせすぐに見つかるだろう――と、当初は高を括っていたユーリスだったが、自室や執務室を訪ねてみても影も形もないどころか、通りすがりの使用人たちに訊いても、姿は見ていないと皆口を揃えて言う。他に彼の行きそうなところといえば、敷地の隅にある王太后の離宮か、或いはムーンヴェールの植えられている庭園だが、そのどちらを回るにも――特に離宮は――時間がかかる。


 奔放なところはあるが、既に組まれている予定の時間を忘れるような男ではない。それは、宰相として傍に仕えているユーリスが、一番よく知っている。故に、そう遠く離れた場所にはいないだろう――と王城の中を歩き回っていると、不意に見覚えのある姿が目についた。さっぱりと短く切られた赤茶色の髪、愛嬌のある顔、左目の下にある小さな泣きぼくろ。


 彼――カイルが壁に沿うようにして姿勢正しく立っているその背後には、白い扉が隠れているのが遠目からでも微かに見えた。それがどこへ通じる扉であるのか、王城の見取り図を騎士団時代に完璧に頭へ叩き込んだユーリスには、考えるまでもない。目眩がしそうだと思いながら重たい溜息を吐き出し、ユーリスは足先を向け直して、カイルのもとへ――その後ろに佇む扉へと、苛立ちの滲んだ足取りで歩み寄った。


 近付けば近付くほど、次第にはっきりとしてゆくカイルのかんばせに浮かぶ苦い笑みが、どんどんと濃くなってゆく。それだけで、確信が出来た。テオドールは間違いなく扉の向こう側にいるのだ、と。


 その部屋は、嘗て健在だった先代国王と王太后が特に気に入り、長い時間を共に過ごした場所だと聞いている。まだ幼かったテオドールも、当時はよくここで所謂“家族団らん”の時を過ごしていた。


 故に思い入れがあるのか、摂政時代も即位してからも、時折ひとりこもることがままあったことを、ユーリスは思い出す。テオドールは基本的に、そういう場所――ムーンヴェールの庭園や王太后の離宮など――には、信頼の置ける者しか近寄らせない。見張りについているのがカイルというのが、そもそも彼の存在を示す何よりの証左だった。


 何故か気不味そうにしているカイルを押し退け、真鍮製のノブに手をかけて扉を開いた――そこまでは良かった、とユーリスは眼前を歩む背中を半ば睨めつけながら思う。テオドールを引っ張り出して議会の間へ連れて行くだけだと、ただそれだけだと、その時までは考えていたからだ。


 しかし、扉を開いてすぐ眼に飛び込んできた光景に、呼吸も思考も身動きも、何もかもが一瞬にして奪われた。乳白色で整えられた室内、レースのカーテンが靡く開け放たれた小窓、薔薇の描かれた絨毯――その上に置かれたやわらかなアクアグリーンの椅子に腰掛けるふたつの人影。ユーリスの視線はごく自然と、薄紫色の瞳へと吸い寄せられた。まるでそれ以外何も見えない、というような、抗いようのない強い力で。


 あの時身体を突き抜けた驚きといったら、とてもではないが筆舌し難い。テオドールは彼女と――セシリアとは殆ど付き合いがないはずなのだから。まさか彼が“私情”で彼女を王城へ呼び出すなど、全く以て想像だにしていなかったことだったし、あの光景を実際に目の当たりにした今ですら、俄かに信じられないでもいる。


「そんな顔では、奴らの不興を買うぞ」

「陛下がきちんと時間通りにご出席されていない時点で、私の顔など彼等には関係ありませんよ」


 肩を竦めながら、呆れを含ませた溜息を深々と吐き出す。そんなユーリスを、テオドールは肩越しにちらと一瞥し、心底おかしそうにくつくつと笑った。


「なにも取って喰おうとしたわけではない。ただ楽しく話をしながら茶を飲んでいただけだ」


 取って喰おうとしたわけではないことくらい、分かっている。本当に彼にその気があれば、他にやり様はいくらでもあるのだから。“国王”という地位を利用すれば、幾らだって。先ずは茶を飲む仲から――などというまどろっこしいことをする必要はない。


 ならば、何故彼女を呼び出しなどしたのだろう。ふたりがまともに会話を交わしたのは、結婚式とその後に開かれたパーティーの時くらいなものだ。他に接点があったとは聞いていないし、今まで王城から――テオドール自身からの手紙が届いていたという報せも、グレアムからは受け取っていない。何より――


「……視察に行かせたのは、彼女を呼び出す為ですか」


 なるべく剣を含ませないように注意しながら発した声は、しかしそれでも不機嫌であることが薄っすらと滲んだ、なんとも中途半端な低い声となってしまった。無論その声に含まれた棘をテオドールが見逃すはずもなく、彼はふっと吐息をこぼし、


「まあ、それも理由としてないわけではない」


 と、飄々とした口ぶりで平然とそう言ってのけ、軽く挙げた右手をふらりと振った。


 廊下の角を曲がる間際、ちらりと見えたテオドールの横顔を凝視しつつ、ユーリスは胸の内で再び鉛のようにずっしりとした溜息を落とす。戻りが早まったのは、彼としては想定外のことだったのだろうか。それとも、それを見越して、わざわざ帰還日を選んだのだろうか。


 テオドールの性格を考えれば、どちらかといえば後者の可能性の方が高いように思えた。たとえ間に合わずとも、彼としてはそれでも良かったのだろう。ただ、偶然鉢合わせた方が、テオドールにとっては“面白い結末”だったに違いない。


「――ところで、ユーリス」


 議会の間へと続く長い廊下を進みながら、テオドールは肩越しにちらりと、ユーリスへ視線を向けた。陽光のせいで普段よりも黄色みの増した、琥珀色の瞳。その奥に潜む意味深な光に、ユーリスはまるで蛇のようだ、と思う。視線だけで相手の思考も身動きも感情も、何もかも雁字搦めにして、じっくりと、奥に隠したものを見透かそうとするような目。


「ちゃんと頭の整理はしてきたのだろうな」


 そう言いながら、すぐに逸らされた琥珀色の瞳に、それでもまだ見つめられているような錯覚を引き摺りながら、ユーリスは唇をきつく引き結ぶ。


 今回の視察については、騎士団の専門部隊を派遣するだけで十分な内容だった。そこまで重要でもなければ、その場ですぐに判断を下し、対処しなければならないようなものでもない。当初はその予定で、副団長を務めるブライアンも話を進めていた。


 けれども直前になって急に、テオドールがその予定をひっくり返したのだ。視察には宰相であるユーリスを向かわせる、と。護衛は通常通り宰相専属の者がつき――但し、何故かカイルは除く――、騎士団からは専門部隊の書記係だけを随行させる、と。その一方的な決定に、ユーリスだけでなくブライアンまでもが驚いたのは言うまでもない。


 しかし、彼がただの気紛れや我儘だけで、そんな鶴の一声を発するはずがないことは、どちらも理解していた。故に何故かと問いただせば、彼はデスクに肘をついて口の前で両指を組み合わせ、掴みどころのない笑みを湛えながら、さも当然と言わんばかりの口調で言った。――お前の為だ、と。ユーリスの瞳を、真っ直ぐに見つめて。


 結局、視察にはユーリスが向かうこととなった。カイルを除く護衛部隊と、書記係だけを連れて。あまりに急なことで現地への報せが遅れたせいで、てっきり騎士団の専門部隊が来るものと思っていた現地の役人は、馬車から降りてきたのが宰相であると認めるや否や、ひどく血相を変えた。その様を目にした時には、申し訳なさがこみ上げたものだ。


 宿の手配も食事の支度も、何もかも一からやり直すと言い張る重役を、今のままで構わない、と説得するのには苦労した。そもそも、急遽予定を変更した側に非があるのだから。彼等に負担を強いるわけにはいかない。言い出したのはテオドールではあったものの――その意図の根幹が自分であると自覚していれば、なおのこと。


 何も返事をしないのを不審に思ったのか、それとも呆れでもしたのか。不意にテオドールは足を止め、背後に立つユーリスへ顔を向けた。真っ直ぐに据えられた視線は、目を逸らすことを許さない。


「何の為に、わざわざお前を視察へ向かわせたと思っている。まさか、無駄に過ごしたわけではあるまいな」


 笑みを孕みつつも、真摯な、それでいて釘を刺すようでもある眼差しを受け止めながら、ユーリスは「理解しています」と短く答えた。それ以外に返せる言葉など、あるはずもない。


 テオドールが急遽、騎士団の専門部隊ではなくユーリスに視察へ向かうよう指示をしたのは、無論気紛れや我儘などではなく、彼なりの気遣いだった。王城にいれば、政務やその他の業務に忙殺され、執務室の長椅子で夜を明かすことを繰り返すくらいには、まともに休む暇さえない。


 故に彼は、王都郊外への視察へとユーリスを派遣した。王城のあれやこれやから暫く離れ、ひとりで考える時間の余裕が比較的作りやすい環境へと。もちろん仕事がないわけではなく、日中はこなさなければならないことは山のようにあったが、それでも、書類に埋もれる時間がないだけ、夜にはゆっくりとひとり考える余白をとれるくらいには、落ち着いていた。


 何を考える時間か――など、テオドールは敢えて公言を避けていたが、しかしユーリスには思い当たるものなどひとつしかなかった。執務室で、ふたりして酒を飲み明かしたあの夜。離婚を切り出されたと打ち明けた後に彼の与えた諭しが、恐らくはテオドールの、その後の判断の軸となったのだろう。


 色眼鏡なしにセシリアを見ること、そして自分自身を受け入れうること――それについて、一度しっかり己と向き合い、考えること。その重要性を理解しているからこそ、彼は意図して視察団のメンバーを変えたのだ。たとえテオドールへ非難や不満の声が上がろうとも。


「まあ、お前がどれほど真剣に考えたのかは分からんが」


 そう言いながら、テオドールはアーチ型をした大きな窓の外へと目を向ける。つられるようにして、自然とその視線を追ったユーリスの視界には、首に布を巻き、大きな麦わら帽子を被った数人の男たちの姿が映り込んだ。


 衣服や革手袋、顔の所々に土汚れがついているところを見ると、恐らくは専属で雇われた宮廷庭師たちだろう。幾つもある花壇のひとつで、彼等は腰を屈めて黙々と作業をしている。やわらかく耕した土の中に、一粒一粒丁寧に種を蒔く、地道な作業。


「種は土の中にいる限り安全だ。けれど芽吹こうとするならば、自らを覆う土を押しのけなければならぬ。光へ向かう者にとって、安らぎの場所は時に檻となるものだ」


 せっせと働く彼等の姿をじっと眺めたまま、テオドールは低く落ち着いた声で先を続けた。


「或いは、雛が空を知る為には、巣を離れなければならぬ。誰かに守られたままでは、己の翼の重ささえ知ることは出来ない」

「……何が仰りたいのでしょう」


 次々に紡がれる言葉の真意を測りかね、ユーリスは横目でちらりと、テオドールを見遣る。その横顔には、どこかやさしげな笑みが薄っすらと滲んでいた。何かと嫌な微笑を滲ませることの多い彼にしては珍しい、皮肉も戯けもまるでない、素直な笑み。


 それがあまりにも意外で、ユーリスは僅かに目を見開いた。その視線に気付いたのか、テオドールは庭園――そこで熱心に作業をする者たち――からゆっくりと顔を逸し、ユーリスの瞳を射抜く。


 鋭くも、しかし決して追い詰めるわけでも嘲るでもない、かといって感情の読み取ることも出来ない意味深な眼差し。思わず息を呑んだユーリスの心中をまるで見透かしたかのように、テオドールはすっと目を細め、にやりと口角を持ち上げた。どこか愉しげに、或いは、挑発するかのように。


「傷つくことを恐れる限り、何も変わらん。お前を閉じ込めているのは、牢獄ではない。()()()()()()()()。――望む未来があるのならば、殻を破れ、ユーリス。破ることを恐れるな。昏い世界の底で朽ちたくなければな」


 そう言ってくつりと喉を鳴らして笑い、テオドールはさっさと廊下の先へと身体を向けて歩み出した。遅刻をしているというのに、そんなこと全く感じさせない、悠然とした足取りで。その背を、ユーリスは慌てて、足早に追いかける。漸く目前に、議会の間へと通ずる扉が見えてきた。


「視察、ご苦労だった。お前には明日一日、休暇を与える。好きなように使え」

「しかし、まだ報告書の作成が……」

「そんなもの、書記係に作らせておけ。何の為に随行させたと思っている。お前は休暇明けに仕上がったものを確認し、署名するだけで構わん」


 “休暇”という、宰相に就いてから今まで殆ど耳にしたこともなければ与えられたこともない言葉に、ユーリスは唖然としながら君主の背中を見つめる。無論、何故この時期に、という彼の真意が分からないわけではない。


 だからこそ口を開けずにいるユーリスをよそに、テオドールは廊下と議会の間とを隔てる扉の前で足をとめ、そうして、ふっと吐息のような笑みを微かにこぼした。まるで遠いどこかへ思いを馳せるように――。

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