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「君を愛することはない」と言われて三年、そろそろ白い結婚をやめようと思います  作者: 千乃


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第37話

 えっ、と漏れそうになった声を、セシリアは既の所で呑み込む。それでも戸惑いは、カップを握る指先に現れた。微かに震え、澄んだ赤褐色の水面が、薄切りのレモンとともに小さく波打つ。


 テオドールは、ただ事実を告げたまでだ、という声音をしていた。第二王女との縁談を断った、と。けれどその言葉の中で、彼は意図的に一部を強調しているような口ぶりだった。わざと単語を区切るわけでも、声を強めるわけでもなく、ごく自然と。――国王であるテオドールが断りを入れたのではなく、ユーリスの名において、彼自身の判断で断りを入れたのだ、と。そう示唆するような喋り方。


「……引き止めることは、なさらなかったのですか」


 思わず口を衝いて出た問いに、テオドールはすっと目を細めた。彼の、細く色の白い、けれど骨の張った男らしい指が、とん、とん、と手の甲を軽く叩く。それは静寂の中に響く秒針の音と、ほぼ合っていた。癖なのか、それとも何かを思案しているのか――テオドールの表情からも、琥珀色の瞳からも、それらは少しも読み取れない。


 一国の王として、ヴェルミア王国と比肩するほどの大国であるエルヴァール王国の王女との婚姻は、おいしい話であったはずだ。しかも縁談を申し込まれた相手は、王家の傍流の血を継ぐ公爵家の当主。ユーリス自身は王族ではないものの、それに最も近しい立場にある者との婚姻となれば、利用する価値は大いにある。国の更なる繁栄を優先するならば、なおのこと。そんな、誰でも簡単に思いつくようなことを、テオドールが理解していないはずがない。


 それなのに、彼はきっぱりと言い切った。ユーリスの意向として縁談を断った、と。どうして、と思わずにはいられない。彼の力であれば、そもそもユーリス自身の意思など関係なく、縁談を進めることだって十分に出来ただろうに。


 疑念が顔に出てしまっていたのか、テオドールは再び手の甲をとん、と指先で叩きながら、ふっと息を漏らすようにして笑った。そうして戯けたように首を傾け、唇の端を吊り上げる。


「何故私がそんなことをせねばならんのだ?」

「それは……」


 言いかけて、セシリアは続く言葉を見失い、諦めるように口を噤んだ。彼は分かっているのだ、と、向けられる眼差しから察せられないわけではない。自国の利を優先するならば、寧ろ歓迎すべき縁談だったはずだ――というセシリアの考えを、テオドールは見抜いた上での返しだ。そうと分かれば、どんな問いを続けようと、どれも愚問に思えた。


 自分で問いかけておきながら、どう収拾させれば良いのか見当もつかず、セシリアは頭の中で必死に二の句を探しながら、それを誤魔化すようにお茶をひと口含んだ。他国からの輸入品なのか、いつも飲んでいるものに比べ深みが重く、穀物のような甘い匂いが力強く薫る。


「君の考えていることには、確かに一理ある」


 少しの間を置いて、テオドールは重ねた指を一本一本開いたり閉じたりしながら、淡々とした口調でそう言った。開け放たれた小窓から、瑞々しい緑の薫りを孕んだ穏やかな風がふわりと流れ込み、レースのカーテンと、テオドールの濡れ羽色のような艷やかな髪をゆるく靡かせる。


「しかし私は、自国の繁栄の為に犠牲を強いるほど、人の心がないわけではない。これでも一応、慈愛の心くらいは持ち合わせている」


 僅かばかりだがな。飄々とした口ぶりでそう付け加え、テオドールはくつくつと喉を鳴らして笑った。


「そもそも」


 テオドールは解いた指でティーカップを持ち上げ、中身に視線を落としながら肩を竦める。今にも深々と溜息を吐き出しそうな、呆れた表情を滲ませて。


「他国の法を軽んじ、何の罪悪感も抱かずに犯すような者との婚姻など、あいつが何と言おうが、私は認めん」


 予想だにしていなかった発言に、セシリアは目を見開き、唖然としながらテオドールを見つめる。法を軽んじ、罪を犯す者との婚姻――。“他国の”ということは、ユーリスではないだろう。となれば行き着くのは、たったひとりしかいない。


 思えば、宮廷舞踏会の報せが届いてから当日を迎えるまでの日数は、驚くほど少なかった。普通、他国からの貴賓を招いての舞踏会であれば、それなりに時間をかけて周到に準備するものだ。それはどこの国でも変わらない、と聞く。礼儀を尽くし丁重にもてなしながら豪勢なパーティーを開くことは、自国がどれほど繁栄し豊かであるかを相手に知らしめる良い機会だからだ。故に、料理から会場の設営、使用人たちの選定に至るまで、事細かな配慮がなされる。


 しかし今回は、招待状が届いてから開催されるまでに五日しかなかった。カトリーヌの来訪を事前から知っていたのであれば、宮廷はもっと早くから舞踏会の準備に動いていただろう。そもそも、エルヴァール王国からヴェルミア王国の王都まで来るには、かなりの時間を要する。その間に調整と準備を進めることは十分に可能だったはずであり――。


 そこまで考え、セシリアは胸の内で静かに溜息をついてから、ゆっくりとひとつ瞬く。他国の法を軽んじ、何の罪悪感も抱かず犯す者――。テオドールのその発言が正しいのであれば、きっとカトリーヌの来訪は予期していなかったものだったのだろう。彼女の側にどんな事情があれど、一国の王女が法を犯すことを、国王が認めないのは当然のことだろう。


「そういえば、君宛に、エルヴァール国王自ら謝罪の品を贈ると言っておった」

「し、謝罪の品……でございますか?」

「ああ。娘の非礼を詫びる父親の気持ちとして、遠慮なく受け取っておけ」


 そう言って、テオドールはティーカップに口をつけ、白い喉仏を動かした。


 エルヴァール王国――しかも国王自らが謝罪の品を贈るということは、カトリーヌはそれだけのことをしでかしていた、ということだろうか。困惑しながら、はぁ、とあまりに間抜けな――言葉にもならない、ただの声――をこぼし、セシリアはティーカップをソーサーの上へ戻した。


 開け放たれた窓の枠に、どこからともなく飛んできた小鳥が二羽、仲睦まじそうに身を寄せ合ってとまっている。羽休めでもしているのだろうか。ふっくらと柔らかな羽毛は鮮やかな青色をしており、お腹の辺りだけが無垢な白色だった。とても美しい、けれど名を知らぬ愛らしい小鳥たち。


「それで」


 かちゃ、と茶器が重なる音が聞こえ、セシリアは小窓へ向けていた視線を引き戻す。テオドールはゆったりと背もたれに身を預け、意味深な微笑を湛えながら頬杖をついていた。短く切り揃えられた爪先が、今度は彼のこめかみをとん、と軽く叩く。


 そんな彼から、真っ直ぐに――遠慮も何もなく――向けられる黄金色の瞳に、セシリアは身動きを奪われる。まだ何も言われていないというのに。それでも、彼のその瞳には、視線には、人を引きつけ捉えるだけの力強さと、蠱惑的な深みがある。


 何も言えないまま、ただじっと見つめ返していると、テオドールは口元に薄く笑みを湛え、それから僅かに目を細めた。どこか愉しげに。まるで獲物の反応を面白がる猫のように。


「――君はどうするつもりだ?」


 一瞬、何を言われたのか分からなかった。それを気配から、或いは表情から見て取ったのか、テオドールの口角が更ににやりと持ち上がる。


 どうする――とは、いったいどういうことだろう。王女との縁談はユーリスの意向として正式に断った。いずれ、エルヴァール国王からの詫びの品も届くだろう。そこまではなんとか噛み砕き、理解することは出来たけれど、たった今彼の発した問いをうまく呑み込むことが出来ず、セシリアは言葉に詰まる。


 どうする、とは、つまり"選択"を促していることに他ならない。縁談は断った。謝罪も受けている。それらを知った上で、どうするつもりだ、とテオドールは問うている。


 カトリーヌとの婚姻に利があると考えていたからこその、それだろうか。そう考えながら、セシリアはテーブルの上に置いたティーカップへと視線を落とす。断りは入れたが、それでもユーリスと彼女の婚姻を望むのか、と。国の為にとユーリスを説得し、彼女と結ばれる未来を用意するのか、と。


 或いは――。そっと瞼を伏せ、セシリアは静かに息を吐く。もしかしたらユーリスは、親しい友人でもある彼に、離婚の話をしていた可能性もある。セシリアがグレアムへしたのと、同じように。彼に打ち明けていたとしても、十分に頷ける。それが相談だったのか、愚痴だったのかは分からない。けれどもしそうであるなら、テオドールの問いには何の不可思議な点もない。


 ――真実を知り、それと向き合う勇気。


 昨夜グレアムから告げられた、足りないふたつの“勇気”のひとつを思い返しながら、セシリアは徐に瞼を持ち上げ、窓辺で居眠りをしている青い小鳥へ目を向けた。


「……“白馬の王子様に護られるお姫様”になりたいのか、と、問われました」


 何の脈絡もない、突拍子もない発言に驚いたのか、テオドールの纏う気配が少しだけ揺らぐ。目を見開いたのかもしれない、息を呑んだのかもしれない。それは分からないけれど、兎も角今はまだ彼へ視線を向けるだけの気持ちが整わず、セシリアは愛らしい小鳥たちを眺めながら唇を開いた。


「けれど私はそれに、否と申しました」


 テオドールからしてみれば、何のことだかさっぱり分からない、意味のない話に聞こえるだろう。けれども彼は口を挟むこともなければ制することもせず、ただじっとセシリアの横顔を見つめたまま、耳を傾けてくれている。


 横暴な人だ、と一部では囁かれている国王ではあるけれど――言葉の通り、彼は確かに慈愛の心を持ち合わせているのだろう、とセシリアはひっそりと微笑みながら思う。そもそもそうでなければ、不釣り合いだの何だのと言われたあの結婚を、国王という身分でありながら手放しに祝してくれなどしなかっただろうから。


「護られるお姫様にはなることを望んではいない、と」


 凛とした声ではっきりとそう告げると、一拍ほどの間を置いて、テオドールがふふっとやわらかな笑い声を漏らした。吐息にも似たそれは、今までに聞いた彼の笑いのどれよりも純粋で、心から何かを喜んでいるような。それでいて、心做しかあどけなさも感じられる笑い声だった。


 はっとしてテオドールへ目を移すと、彼は長い脚を組み替えながらその上に手を重ね、からかうような瞳でセシリアを見据えていた。視線が交わると、不敵な笑みを滲ませながら首を傾け、そうして形の良い唇を徐に開く。小鳥たちが勢いよく羽ばたいてゆく音を背景にして。


「奇遇だな。私も近しい話を、ユーリスにしたばかりだ。……君にそれを話したのは、大方グレアムだろう?」

「ええ」

「まあ、あの邸で今それが出来るのは、あいつくらいなものだからな。長い年月の中で酸いも甘いも経験してきた者だからこその言葉だ」


 そう言って、テオドールはティーカップを手に取ると、口をつけることはせず、ただゆらゆらと微かに揺らして弄ぶ。


「“完璧な王子様”が存在するのは、御伽噺の中だけに過ぎん。何故ならこの世に生きるのは、架空の登場人物ではなく、“人間”だからだ。故にこの世に、“完璧な王子様”など存在しない」


 ティーカップを揺らす手を止め、テオドールは一瞬翳りを見せた瞳で、窓の外へと視線を向けた。真昼の陽光が燦々と降り注ぐ綺羅びやかな庭園ではなく――もっと遠い、別の場所へ思いを馳せるかのように。


「“完璧な王子様”とは、常に正しくなければならない。お姫様を救えなければ、少しでも傷つければ、辛い選択をさせれば、即失格の烙印を捺される。――しかし私は、こう思うのだ。常に正しくあれる“完璧な王子様”とは、創作の中か、或いは神でしか有り得ない、と」


 窓の外を眺めたまま、テオドールはティーカップの縁に口をつけ、ゆっくりとお茶を飲み下す。その横顔を、セシリアは複雑な心境で見ていた。もしかしたら彼の頭の中には――彼が今見ようとしているのは、広大な敷地の端に建つ離宮でひっそりと暮らす王太后なのではないだろうか、と思いながら。


「父上は、誹謗に晒され続ける母上を護る為に、“完璧な王子様”であろうとした。愛するが故に、だ。しかしその結果、父上は心労に陥り、それが引き金となって病を患い……最終的には床に臥せることとなってしまった」


 そして、とそこで一度言葉を区切り、テオドールは苦笑を滲ませながら僅かに目を伏せた。


「“完璧な王子様”であろうとした男に護られることに慣れきり、それを当たり前としてしまった"お姫様"の成れの果てが――今の母上だ」


 まるで何でもないことのような口ぶりで彼はそう言ったけれど、しかしきっと、心中はそんなはずではない、とセシリアは思う。誹謗に晒され続ける母親、そして“完璧な王子様”を貫こうとした父親。その姿を誰より近くで――当事者でもありながら――見てきたテオドールにとって、御伽噺のハッピーエンドは、実に都合良く美しい場面だけを切り抜いたものにしか見えないだろう。


「“完璧な王子様”に救済の全責任を負わせるのは、酷な話だと思わんか? それが成せるのは、万能な神くらいなものだ。しかしそれでも、世の中には“完璧な王子様”を強く求める奴らがいる。常に正しくあれ。姫を傷つけるな、悲しませるな。少しでもそうすれば、そいつは“王子様”ではなく“悪”に落とされる。――だが、そういう奴らに限って、実に盲目的だ」


 そう言って、テオドールはティーカップを弄ぶ手を、一瞬とめた。


「理想の“完璧な王子様”を求めるあまり、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のだからな」


 人間ではなく、ただの“幸福装置”としてしか見ておらんのだ。そう付け加え、セシリアへ視線を戻したテオドールの美麗な顔からは、既に翳りも苦笑もすっかり消え失せ、意地の悪いにやりとした笑みが浮かんでいた。


「我々は万能な神ではない。ただの“人間”に過ぎん。故にこの世に、“完璧な王子様”などおらんのだ。そうだというのに、何故完璧を求める? 何故悩んではならんのだ? 傷つき、悩み、苦しみ、その上で選択を誤ることの、何が悪い?」


 あまりにも重たい言葉に、返す言葉を見つけられず、セシリアは腿の上で重ね合わせた手に、ぎゅっと力を込める。


「完璧を求める奴らに、逆に問いたいくらいだ。お前らは一度も悩んだことがないのか? 誰かを傷つけ、或いは傷つけられ、苦しみながらも選択を誤ったことが、一度もないのか、とな。無論、それに頷く奴などひとりもおらんだろう。人間とはそういう生き物だ。岐路に立たされる度に選択をし、時に後悔しながら、それでも学び生きてゆく――それが人生というものなのだからな」


 ふっ、と息を漏らして、テオドールはお茶をひと口含む。


「人間は総じて未熟だ。この世には未熟者しかおらん。だからこそ人間とは、面白い生き物だと思わんか?」


 同意を求めるようで、その実、無理強いはしていないその言葉に、しかしセシリアは胸に熱いものがじんわりと広がるのを感じながら、ゆっくりとひとつ頷いた。


 確かに、御伽噺に出てくるような“完璧な王子様”には、人間味を感じられない。それはきっと、本来は“神”にしか成し得ない救済の形だからなのだろう。あれは人間の皮を被った神が、お姫様を救う物語だと思えば、なんとなく納得がゆく。


 人間は未熟な生き物だ。だからこそ――赤褐色の水面に浮かぶレモンを見るともなく見つめながら、セシリアは思う。だからこそ、グレアムの言葉が心に沁みる、と。


 誰も完璧ではない。自分はもちろん、そしてきっと、ユーリスも。未熟である人間の愛は、きっと不完全で、だからこそ深いのだろう、とセシリアは思う。悩み、苦しみ、時には傷つき、それでも愛してやまないという矛盾を抱えるほどに。でも、それこそ“人間同士の愛”という、何よりの証左のような気がした。


「それで、グレアムは他に何と言ったんだ? あいつのことだ、それだけを問うたわけではあるまい」


 鋭い指摘に苦笑をこぼしながら、セシリアはティーカップのハンドルへそっと指先を伸ばす。


「足りないものがふたつある、と言われました。……“真実を知り、それと向き合う勇気”と、“自分の足で立つ勇気”でございます」


 ティーカップをソーサーの上へ戻し、「ほう」と興味深げに呟きながら、テオドールは両肘を肘掛けにつき、胸の前で五指を組んだ。


「グレアムの言う通りだと思いました。確かに私には、その勇気が足りなかった、と」


 目を背け、諦めることに慣れていた。真実を知るのが怖かったから。真正面から向き合うことが、恐ろしかったから。それを“逃げ”だと言われても構わない、とさえ思っていた――。けれど結局それは間違いだったのだ、と、今ならば分かる。


 人間は誰しも未熟だ。けれど、だからといってその未熟に甘え、“完璧な王子様”を求めていてはいけない。最も大事なのは、自分の足で立つことだ。自立し、真実を知って、それときちんと向き合うこと――。


「グレアムは、幼い頃から君たちを見てきた数少ない人物だ。それ故、ユーリスと同じくらい、君のことも大切に思っている。だからこそ、君を信じてそう告げたのだろう。――そして私も、そう思っている。君は芯の部分では、強い女だ、とな」


 思いもしていなかった意外な言葉に、セシリアは目を見開き、そのままぱちりと大きく瞬く。その反応が可笑しかったのか、テオドールは指先でとん、と手の甲を叩きながら、くつりと喉を鳴らして笑った。


 と、その時。扉の向こう側から、誰かが話す声が微かに聞こえてきた。テオドールは笑みを湛えたまま、横目でちらりと扉を一瞥する。その様子は、そこに誰がいるのか確かめるまでもなく分かっている、という風情だった。


 数瞬して扉がノックされ、テオドールが返事をするより先に扉が開かれる。てっきり警護をしていた近衛兵か、或いはカイルかと思っていたセシリアは――扉の方へ目を向けた瞬間、視界に映り込んだ思わぬ人物の姿に、どきりと心臓を跳ね上がらせながら息を呑んだ。


 扉を開けて入ってきたのは近衛兵でもなければカイルでもなく――いつも通りきっちりと軍服を身に着けたユーリスだった。


 彼はテオドールを一瞥することなく、扉を開けた状態のまま身動きを止め、大きく目を瞠らせながらセシリアを一直線に見た。何故此処に、と言いたげなのが、その視線からひしひしと伝わってくる。やはりテオドールはユーリスには報せていなかったのだろう。そして見張り番であるらしいカイル――ユーリスの後ろで苦笑を浮かべている――もまた、彼には頑なに告げなかったようだ。


 しかし、そんなことはどうでも良かった。どうでも良いというより、他に何も考えることが出来なかった。見慣れた軍服でもなく、艷やかな白銀の髪でもなく、蒼穹を溶かし込んだような瞳でもなく――彼の左耳につけられた、青いピアスに視線が吸い寄せられてしまったせいで。


 それにはもちろん、見覚えがあった。忘れるわけがない。片時も、忘れたことなんてなかった。社交界デビューの記念に贈られた、アクアマリンのピアス。


 片方をユーリスに渡して以降、彼がそれを身に着けているところを一度も見たことはなかった。だから今どこにあるのか、そもそも今も持ち続けているのか、それとも疾うに捨てられてしまっているのか――何も分からないままだった、あの大切なピアス。それが今、彼の耳に垂れ下がっている。しかも、左側の耳に――。


「なんだ、もう戻ったのか、ユーリス」

「……ええ。つい先程」


 そう言ってユーリスは渋々といった様子で溜息をつき、テオドールへと視線を移した。その顔には、にっこりとした爽やかな――明らかに造り物だと分かる――満面の笑みが貼り付いている。


「戻って早々、元老院のひとりに捕まりまして。陛下が会議にいらっしゃらないと、泣きつかれました」

「なんだ、もうそんな時間か」


 さしたて焦ったふうもなく、飄々とした様子で時計を確かめたテオドールは、飲みかけだったお茶を全て喉の奥へ流し込んでから、悠然とした仕草で椅子から腰を上げた。そんな彼に合わせ、セシリアもまた慌てて立ち上がる。最後の挨拶をしておかなければ、とテオドールへ歩み寄るが、そんなセシリアを一瞥し、彼はゆっくりとひとつ瞬いた。


「――私は、君を信頼しているぞ、セシリア」


 不意打ちのようなその一言に心を射抜かれ、セシリアは思わず動きを止めた。そんな彼女の傍らを通り過ぎざま、テオドールはにやりと口角を吊り上げ、心底愉しげな口調で囁いた。


「ああ、そういえば――あいつは王城では、いつもあの格好だ」


 それだけを言い置いて、テオドールはユーリスに促されるまま足早に部屋を出て行った。開け放たれた窓からふわりと流れ込む薫風に満たされた室内で、セシリアはただひとり、ぐちゃぐちゃになった感情の整理をつけることが出来ず、ただ呆然と立ち尽くす。


 あの格好――それが“軍服”を指していることでないことくらい、分かる。決して珍しい姿ではないからだ。邸でも、何度も目にしたことがある。


 つまり、テオドールが指した“あの格好”の本当の意味は――。もしかして、と、脳裏にあの青い宝石が浮かんだ瞬間、どうしようもないほど胸が高鳴った。行方知れずだと思っていたピアス。もしかしたら捨てられているかもしれない、とすら思っていたそれを、まさか王城でつけていただなんて――。


 いつの間にか俯けていた顔をゆるゆると持ち上げ、セシリアは青い小鳥のとまっていた窓へと視線を向ける。――あの物語が伝えたかった真意を、まるで思い出そうとするように。

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