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「君を愛することはない」と言われて三年、そろそろ白い結婚をやめようと思います  作者: 千乃


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第36話

「陛下から……?」


 朝食を終え、久方ぶりに執務室の椅子に腰掛けたセシリアへ、突然の報せを運んできたグレアムの顔には、僅かに困惑の色が見て取れた。何せ今、玄関口には王城からの使者が来ており、彼は国王テオドール直々の命によって招待状を持参していた上に、その宛名がユーリスではなくセシリアとなっていたのだから、グレアムが驚くのも無理はない。


 セシリアもまた動揺しながら、渡された招待状を受け取り、王家の紋章の捺された封蝋を破いて中身を取り出す。香水が吹き付けられているのか、仄かに上品な薫りを纏った白いメッセージカードには、金で箔押しされた四角いアカンサスの枠の中に、流麗な文字でお茶への誘いが丁寧に綴られていた。


 陛下自身が書いたのか、それとも側仕えの誰かが書いたのかは分からない。どちらにしろ、テオドールからの誘いであること自体に変わりはなく、まるでその証左のように、カードの端には封蝋と同じ王家の紋章が赤いインクで捺されていた。


 日時は、今日の午後。あまりにも急な誘いであるが、幸いにも午後の予定は何もないので、玄関で待っているという使者へ承諾する旨を伝えるよう、セシリアは急ぎ指示を出した。本来であれば、きちんとカードを認めて返事をするのが礼儀なのだろうけれど。使者曰く、口頭で返答さえもらえればそれで良い、とのことだったので、今回はその言葉に甘えることにした。


 何せ時間がない。令嬢や夫人たちとのお茶会ではなく、誘いの相手は一国の王だ。身支度にはかなりの時間がかかるだろうことが、セシリアには嫌でも想像出来た。


 案の定、それが杞憂に終わるはずなどなく。陛下からお茶に誘われたので登城することを侍女長へ伝えると、彼女はあからさまに活き活きと目を輝かせ、すぐに支度へ取り掛かるよう、使用人たちにてきぱきと指示を出し始めた。


 ドレスは何にするか、それに合わせる装飾品はどれが最適か、髪型はどんなふうに結うか――。忙しなく飛び交うやり取りを聞いているだけで、セシリアは苦笑をこぼさずにはいられなかった。確かに、いつも以上に身だしなみには気を付ける必要はあるけれど、舞踏会に参加するわけでもなければ、お后候補選びのような顔合わせでもない。


 公爵家の人間として恥じない格好であれば、それで良いのだけれど――と半ば呆れるセシリアの目の前で、侍女長を筆頭に、使用人たちは慌ただしく部屋を行ったり来たり、或いは持ってきた装飾品やドレスを矯めつ眇めつして吟味している。無論、セシリアは姿見の前で棒立ちする着せ替え人形だ。


 何着ものドレスをあてがわれ、これではない、でもそっちでもない、と交わされる意見を聞きながら、どちらも素敵だし何でも良いと言いたくなるけれど。その言葉をぐっと呑み込んでいるのは、諦めからではなく、彼女たちへの信頼からだった。


 流行の服飾誌を欠かさず読んでいる者、色合わせが得意な者、装飾品の本来とは違う、けれど誰もが驚くような発想で美しい仕上げに使う者――。飾り立てることに関していえば、彼女たちの方がよほど上手く、洗練されていて、それを分かっている今だからこそ、セシリアは姿見の前でじっとしていることを、自らの意思で選んでいた。――以前までの彼女とは違って。


 結局悩みに悩んだ末に選ばれたのは、セシリアの瞳の色に合わせた、薄紫色を基調とした繊細なドレスだった。


 首元から肩にかけて施された精緻な刺繍は、糸に細工でもされているのか、陽光を浴びる度にまるで小さな星のように瞬き、やさしい輝きを帯びる。胸元に凝縮された淡い紫は、裾へと向かうにつれて霞が溶けるように白へと移ろい、幾重にも重なった薄絹のスカートは光の角度によって青みを帯びたり白く輝いたりと、見る者の目を飽きさせない。裾にたっぷりと鏤められた繊細な花の刺繍は、しかし決して派手ではなく、歩く度にふわりと揺れ――その様はまるで夜明け前の薄明かりを纏っているかのようだった。


 回復したとはいえ、それでも体調を慮って締め付けのきつくないタイプのものが選ばれたことに気遣いを感じ、セシリアはドレッサーの前に腰掛けながら、ふっと微笑む。長い髪はゆるく編み込んで左肩へ流し、網目の所々に小花の飾りを散らした。化粧は予め伝えていた通り控え目に施され、最後の仕上げのアクセサリーには、透明感と涼し気な印象を醸し出すシルバーとダイヤモンドを組み合わせた、シンプルなデザインのものを選んだ。


 そうして一通りの支度を終えた頃には、すっかりぐったりしてしまったが、時計へと目を遣ると、王城からの迎えが来る時刻がすぐそこまで迫っていて、セシリアは慌てて椅子から腰を上げる。その瞬間、扉がノックされ、少し早いが馬車が到着した旨を報せるグレアムの声が聞こえてきた。


 こちらから馬車で向かう、と初めは告げたのだけれど、それは「迎えを送る」という使者の頑なな一言によって一蹴され、結局は至れり尽くせりの厚遇に甘えてしまった。公爵家といえど、こんな待遇を受けて良いのかと当惑してしまうほどに。


 玄関先へ出ると、車寄せに停められた馬車のキャビネットには、それが王家所有のものであると知らしめる紋章が、陽光を浴びてより神々しく輝きながら、しっかりと刻み込まれていた。御者が扉を開け、彼の手を取りながらステップを登る。室内は緞子張りの椅子と壁に囲まれ、その所々にも王家の印が見受けられる。


 グレアムと侍女長、そして幾人かの使用人たちに見送られながら王家の馬車に乗って公爵邸を出たセシリアは、椅子の背もたれに深く身を預け、小さく溜息をついた。車窓の外を、見知った景色がゆるやかに流れてゆく。からからと回る車輪の音、時折小石を弾くような音。それらがやけに大きく耳に届くほど、ひとりしかいない車内はひどく静かだった。


 それにしても――。帝都一番の賑わいを見せる大通りに入ったところで、騒々しい声が窓硝子越しにも流れ込んでくるのを聞きながら、セシリアは僅かに目を伏せる。それにしても、何故陛下は自分をお茶になど誘ったのだろう。念の為、使者に理由を尋ねたが、どうやら彼にもそれは伝えられていなかったようで、結局分からず終いだった。


 国王であるテオドールとは、彼の友人であるユーリスとは違い、決して親しい間柄というわけではない。結婚式とその後のパーティーで少し会話を交えた程度で、次に顔を見たのは先日の宮廷舞踏会の時だ。あの時は一言も会話を交わすことなく、貴賓台にいる彼をただ見上げているだけでしかなかったけれど。


 だからこそ、分からない。大きなお茶会ならまだしも、文面からして、どうやらふたりきりであるらしいことはなんとなく察せられた。たいした親交もない、ただ友人の妻、或いは公爵家当主の妻というだけで、一国の王がわざわざお茶に誘うものだろうか。


 可能性があるとすれば――。大広場に軒を連ねる露店や、噴水から飛び出る水をぼんやりと眺めながら、セシリアは思う。可能性があるとすれば、それは恐らく、カトリーヌ第二王女との縁談の件だろう、と。


 ユーリスからは、その後どうなったのか聞かされていないままだけれど、ふたりの婚姻がもたらすヴェルミア王国への恩恵を考えれば、断る理由を見つける方が難しい。それはユーリスと同じほど、或いはそれ以上に、国王であるテオドールはよくよく理解しているはずだ。となれば、お茶の席での話題は――。


 そう考えている内に、いつの間にか城門を潜っていた馬車は、迷いのない進みで広大な敷地を進んでゆく。初代国王が馬に跨り勇ましく剣を掲げた騎馬像の横を通り過ぎ、小さな庭園を横切り、やがて石灰石を敷き詰めた広場まで来ると、馬はゆるやかに歩調を落とし、建物の入口の前で静かに止まった。


 御者が台を降り、足早に扉へ寄ってくる足音が微かに聞こえる。それを耳にしながら、セシリアはこくりと唾を呑んだ。宮廷舞踏会で訪れたことがあるとはいえ、たったひとりで、しかも国王に会う為に王城へ来たのは、無論これが初めてだ。御者の手で扉が少しずつ開かれてゆくにつれ、鼓動がどくどくと速まってゆく。


 緊張した足取りでステップを降り、深く吸い込んだ空気をゆっくりと吐き出して入口の方へ目を向けたセシリアの視界に、ふと、見覚えのある青年の姿が映り込んだ。赤茶色の髪、榛色の瞳、左目の下にある小さな泣きぼくろ。ユーリスと似た軍服を纏った彼は、セシリアの到着に気付くと、ぱっと表情を明るめ、小走りに駆け寄ってきた。彼以外には、誰の姿もない。


「お待ちしておりました、セシリア様」


 目の前で足を止め、にこりと笑みを深めて一礼する彼――カイルに、セシリアは当惑しながらも、出迎えてくれたことへの礼と挨拶を返す。どうやらテオドール直々に案内を指示されたようで、彼は御者に目配せだけすると、セシリアをすぐに城内へと招き入れた。


「随分お元気になられたようで、安心致しました。一時はかなり衰弱されていて、呼吸も酷いものでしたから……とても心配していたのです」


 見上げるほどの高さもある窓が幾つも連なる静謐な廊下を進みながら、先をゆくカイルが肩越しにちらとセシリアを一瞥する。燦々と降り注ぐ陽光で眩いほどに明るく照らされた廊下に、人の気配はまるでない。胸像や絵画に見守られ――或いは見張られ――ているような感覚の中、小さな靴音を響かせながら歩くセシリアは、彼の何気ないその一言に、妙な違和感を抱いた。


 どうして――。すぐに前方を向いたカイルの、丸みのある後頭部を見上げながら疑問に思う。どうしてそんなことを、彼が知っているのだろう、と。


 カイルがユーリスの護衛部隊の隊長を務めているのは知っているが、そんな彼と顔を合わせたのは昨年の、あの事件の時以来のはずだ。仮に何らかの用事で――ユーリスの指示などで――体調を崩している間に邸へ来ていたとしても、彼が寝室に足を踏み入れる理由がひとつも思い浮かばない。


 けれどカイルははっきりと言った。かなり衰弱していて、呼吸も酷いものだった、と。それは自身の目で確かめていなければ、決して出てこない言い方だ。人伝に聞いたような曖昧さではないし、かといって適当に取り繕って言っているようにも聞こえない。


「カイル様は……邸へいらしていたのですか」


 訝しんでいるふう、というわけではなく、ただ純粋な疑問というふうを装った声音で問いかけると、不意に、数歩先を歩いていたカイルが足をとめて振り返った。セシリアもまた慌てて歩みをとめ、彼の榛色の瞳を見上げる。


 そんな彼は、どこかきょとんとした表情をして小首を傾げていたが、やがて独り納得したように「ああ」と明るい調子で呟いて、カイルは愛嬌のある端正な顔ににっこりと屈託のない笑みを浮かべた。


「実は、ユーリス様の書類を定期的に運んでいたのです」

「えっ……?」

「セシリア様が床に臥されている間、陛下のご許可をいただいて、ユーリス様は三日ほど邸へ詰めておられたのです。その間の殆どの時間を、セシリア様の寝室でお過ごしになりながら、書類の整理をされておりました。……ずっとお眠りになられていたので、セシリア様がご存知ないのも無理はありませんが」


 そう言って笑みを深めるカイルの語った事実に、セシリアは思わず息を呑む。確かに殆ど眠っていたし、目が覚めても意識は朦朧としていて、傍に誰がいるのかも定かでないような状態だった。だから、まさかユーリスがずっと寝室にいただなんて気付くわけもなく――そもそも、離婚を告げたあの時に顔を合わせるまで、彼が邸へ戻っていただなんて、全く以て知らなかったほどだ。


 どうして――と問いかけたくなるのをぐっと堪え、再び歩み始めたカイルの背中を追いながら、セシリアは左手に重ねた右手に、ぎゅっと力を込める。


 グレアムは暫く執務はしなくて良い、と言っていた。あれは単に体調を気遣ってのことだけでなく、もしかしたら処理しなければならない書類を既にユーリスが片付けてしまっているから、ということも含まれていたのではないだろうか。実際、朝食を終えて久方ぶりに執務室のデスクを見た時、全く手をつけていないはずのそこは、異様なほど綺麗に整えられ、書類の束も幾つか消えていた。


 政務と並行して、もし執務の肩代わりまでしてくれていたのだとしたら――。それに、王城を三日も離れていたとなると、どれほどの迷惑をかけてしまったのか、想像も出来ない。彼は、国王に次ぐ地位にある宰相だ。会議もあっただろう。裁決を必要とする者たちの来訪もあっただろう。視察などの遠征以外で重役が数日も登城しないのは、本来は有り得ないことだ。


 それなのに、三日も――彼の立場を考えれば、決して短くはないその時間の殆どを、寝室に、誰よりも一番近いところに、いてくれただなんて。


 こみ上げてくる言いようのない感情に胸を強く締め付けられ、セシリアは僅かに顔を俯けて、唇を噛み締める。カイルに聞くまで、何も知らなかった。きっとユーリスは、グレアムに対してだけは、口止めをしていたのだろう。まさかこんなふうに、カイルとふたりになる機会があるなど、全く予期していなかっただろうから。


「到着いたしました。こちらのお部屋になります」


 最後に見たユーリスの、感情の削ぎ取られたような瞳を思い浮かべていると、廊下の突き当たりにある部屋の前で、カイルが足を止めた。彼の前には、金工象嵌や精緻な彫り込みの施された白い扉が静かに佇んでいる。中央の少し上には、金で造られた王家の紋章。


 この扉の向こう側に国王がいるのかと思うと、緊張が身体を走り抜け、すっと自然と背筋が伸びた。いくらユーリスと親しいとはいえ、それはそれ、これはこれだ。殆ど会話をしたことのない、しかもこの国の頂きに君臨する王との対面は、どうしたって息が詰まりそうになる。


 そんなセシリアをよそに、カイルは慣れた手つきで扉をノックし、到着を告げた。すぐさま中から返事が戻るのが微かに聞こえ、カイルの筋の張った大きな手が真鍮製のドアノブを握る。ただそれだけなのに、心臓がどくりと跳ね上がり、セシリアは緊張と不安を少しでも誤魔化すように、握り合わせた両手にいっそう力を込めた。


 深く吸い込んだ息を、長く細く吐き出す。どうにか鼓動を鎮めようとするけれど、まるで鼓膜のすぐ裏側で脈打っているのではと思うほど、うるさくてたまらない。


 それでも扉は遠慮なく、セシリアの視線の先で、ゆっくりと開かれてゆく。木の軋む微かな音を立てながら。少しずつ少しずつ、隙間は広がってゆく。


 やがて人ひとりが通れるほどに開かれた扉の奥に広がっていたのは、思いの外こぢんまりとした――それ故にプライベートな一室であるのがひしひしと伝わってくる――美しくも落ち着きのある部屋だった。


 乳白色で統一された壁と天井。それらと同じ色に揃えられたチェストや本棚といった家具類。壁の片側には重厚な彫り込みの施された暖炉が切られ、時計や壺、肖像画などが所々に飾られている。床には色とりどりの――それでも色調の整えられた――薔薇を描いた絨毯が一面に敷かれ、その上にはやわらかなアクアグリーンの椅子と艷やかな木製の丸テーブルが並べられている。


 そこに、既に誰かが腰掛けているのが見え、セシリアは無意識に唾を呑む。傍らの壁一面に設けられた窓から差し込む真昼の日差しを一身に浴び、優雅に足を組んでこちらに顔を向けている、黒髪の男性。無論、誰何するまでもない。カイル越しに真っ直ぐに向けられる琥珀色の瞳を見つめながら、セシリアはもう一度、大きく息を吸った。


「セシリア様、どうぞ中へ」


 脇へ退いたカイルに笑顔で促され、セシリアは意を決して室内へと足を踏み入れる。一歩、また一歩と席へ歩み寄る両足が、まるで鉛の枷でも嵌められているかのように、ひどく重たい。向けられる視線に、一挙手一投足の細部に至るまで少しの見逃しもなく値踏みされているかのような気がして。


 背後で扉が閉まる音が聞こえ、セシリアはたちまち心許ない気持ちになるが、どうにかそれを悟られぬよう気を付けながらドレスの両端を摘み上げる。心細くとも、不安だろうと、目の前にいるのは国王だ。きちんと礼儀は示さなければならない。


 しかし、挨拶の為に膝を折りかけたセシリアを、テオドールは「構わん」と一言で制した。その顔には、にやりとした笑みが浮かんでいる。とはいえ、挨拶を欠くのは如何なものだろう、とセシリアは途方に暮れ、中途半端な体勢のまま視線を彷徨わせる。彼の言葉に従うべきか、それとも礼は尽くすべきだと押し切るべきか――。


 そう逡巡していると、くつくつと笑う声が聞こえた。慌ててテオドールへ目を戻すと、彼は金色に塗られた肘掛けに頬杖をつきながら、視線だけでセシリアに席へ着くよう促した。


「私情で呼んだのだ。わざわざ儀礼に則った挨拶は要らん」


 そこまで言われてしまうと他にどうする術もなく、セシリアは一言礼を述べるだけに留め、テオドールと向かい合う位置に置かれた椅子へ、ゆっくりと腰を下ろした。


 まるで頃合いをぴったりと見計らったかのように、扉がノックされ、テオドールが返事をするより先に開かれたそこから、ティートロリーを押した侍女がしずしずと入ってくる。


 上級の使用人にだけ身に着けることが許されているという上質な黒いドレスを着た彼女は、運んできたティーカップを手早くテーブルの上に並べ、白磁のポットから芳しい薫りを漂わせながら、手際よく茶を注いでゆく。薄桃色の小花が控え目に描かれた、ピオニーシェイプのカップ。その中で微かに水面を揺らす、澄んだ赤褐色の液体


 最後にセシリアのカップにだけレモンを一切れ添え、侍女は恭しく頭を下げてから、入ってきた時と同じ落ち着いた足取りで部屋を出て行った。


「体調の方はどうだ」


 扉が完全に閉まりきるのを待ってから、テオドールは品のある所作でティーカップを持ち上げ、口を開いた。


「おかげさまで、すっかり回復いたしました。……その節は、宮廷医師様や薬草師をご派遣いただきまして、誠にありがとうございました」


 座ったまま、セシリアは精一杯の感謝を込めて、深々と頭を下げる。


 意識がはっきりした後、てっきりグレアムが手配してくれたものとばかり思っていた老齢の医師の胸元に、あまりにも見覚えのない紋章が刺繍として縫い付けられているのを見て、ひどく驚いたものだ。それは宮廷で、王族相手の医療に従事する者の証だった。故に、王城以外の場では、滅多に目にすることはない。


 その後、経緯をグレアムから聞いた為、謁見を申し込むか、或いは手紙を綴って礼を伝えなければと思っていたのだけれど――理由はどうあれ、まさかこうして、テオドールの方から機会を設けてくれるとは、露ほども思っていなかった。


「礼は要らん。君の旦那を酷使していることへの、せめてもの償いだ」


 そう言って、テオドールは口元に薄っすらと笑みを湛えたまま、ティーカップの縁に口付ける。旦那――というのは、ユーリスのことに違いないだろう。そんな彼を酷使していることへの、せめてもの償いと言われても、セシリアにはどう反応して良いのか分からず、誤魔化すように曖昧に微笑んで、ティーカップへと手を伸ばした。


「本日は、いったいどのようなご用件でお呼びいただいたのでしょうか」


 話題は早々に変える方が良いだろう。赤褐色の水面に浮かんだ薄いレモンをじっと見つめながら、セシリアはおずおずと問いかける。本来、テオドールと会話をするには、謁見の為の申請を行わなければならない。それは公爵家の人間であっても同様のことだ。


 しかし今回は彼の方からの一方的な、“私情”による呼び出し。もしかしたらカイル以外には、自分が此処にいることを誰にも――ユーリスにも――伝えていないのではないだろうか、とセシリアは思う。仮にユーリスが知っていれば、妻が無礼な態度をとらないよう、同席を願い出ただろうから。無論、妻の為ではなく、テオドールの為に。


 そう思いながら、セシリアは淹れられたばかりのお茶で、すっかり乾いた喉をやさしく湿らせた。心臓の動きは、まだ少しだけ早い。こんな状況であれば、誰だってそうだろう。面識が浅ければなおのこと。国王とふたりきりで向かい合い、言葉を交わすとなれば、どうしたって気が張ってしまう。


「ユーリスはここ数日、私の指示で郊外へ出ておる」


 想像していたのとは違う返答に困惑しながら視線を上げると、真っ直ぐに向けられた琥珀色の瞳に捉えられた。視線だけで胸の内を容易に見透かしてしまうような、時には貫きもしそうな、鋭く、深淵を思わせる瞳。陽光を浴びてより黄金色に輝いて見えるそれに、一瞬気圧されるものの、テオドールは特に刺激するでもなく、くつりと喉を鳴らして笑った。


「その隙に、私の口から直接伝えておくべきだろうと思ってな」


 そう言って、テオドールはティーカップをソーサーの上へ置くと、両肘を肘掛けにつき、胸の前で手を組んだ。そうしたひとつひとつの仕草すら、思わず見惚れてしまいそうになるほど美しく洗練されている。これが王族だけが纏う特別な空気か、とセシリアが密かに思うのと、テオドールが形の良い唇を開くのは、ほぼ同時だった。


「――カトリーヌ第二王女との縁談については、()()()()()()()()()()、正式に断りを入れた」

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