第35話
白馬の王子様に護られるお姫様――。
その言葉の真意を測りかね、セシリアは小首を傾げる。童話に出てくる、白馬の王子様と、彼に護られるお姫様。それはよくある定番の――いつの時代の童話にも必ず出てくる、ありふれた設定だ。小さな女の子であれば、一度は憧憬を抱き、夢見るもの。
しかしそれは、あくまで童話の中でだけ成り立つ、出来すぎた絵空事の世界だと分かる。だからこそ、グレアムの質問の真意が、よく分からなかった。白馬の王子様に護られるお姫様になることを望んでいるか、それとも望んでいないのか――。
「それは……たとえばどういうことかしら」
腿の上で両手を重ね、甲の上をそうっと指先で撫でる。胸がざわざわとして、なんとなく落ち着かない。責められているわけではないと、分かるのに。不安でも恐れでもなく、全く得体の知れない何かに、心臓を激しく揺さぶられているような感覚がする。
そんな私の様子をじっと見つめたまま、グレアムは「そうですね」と短く呟き、まるで考え事をするかのように顎先に指を当てた。
「例えば――使用人たちから蔑ろにされていることを、社交の場で不躾に向けられる噂話や嘲笑を、旦那様にどうにかしていただきたかった。旦那様にお庇いいただきたかった……と申し上げれば、分かりやすいでしょうか」
つまり、何か困ったこと、嫌なことがある度に、ユーリスに助けてほしかったか、庇ってほしかったか、どうにかしてほしかったか、ということだろうか。まるで童話の世界のように。窮地に陥ったお姫様を颯爽と救う王子様のように。大丈夫だ、と。全ては私が片付けてしまうから、と。だから君は何も心配することはない、と。
グレアムからそっと視線を逸らし、夜の帷に包まれた庭園へと、再び目を向ける。あまりの静けさに、どこかで羽休めをしているのだろう梟の鳴く声が、窓硝子越しに耳へ届く。煌々と輝く星々、もうじきまんまるになるであろう月、そしてそれらに見守られながら静かに眠るたくさんの草花たち。それを見るともなく眺めながら、セシリアは左手の上に重ねていた右手に、ぎゅっと力を込めた。
辛いと思うことは、あった。哀しいと思うことも、苦しいと思うことも。
けれど、だからといって何でもかんでもユーリスに助けを求め、彼に縋り付くのは間違っている。使用人を管理する責任を負うのは、当主である彼ではなく、女主人――つまりセシリア自身だ。先代夫妻やクロードとともに、嘗ての使用人たちが全て公爵領へ移った後の補充は、全て彼女の手によって行われ、セシリアの最終判断によって雇われた。そしてその後の彼らの教育も、女主人である夫人の管轄となる。ユーリスは確かに公爵家の当主だ。けれど、邸のことについての殆どはセシリアに権限があり、それがあるからこそ雇用や教育の責任を負うのは、紛れもなくセシリア自身なのだ。
故に、使用人たちに蔑ろにされていたことに対し、厳しく対処をしなかったのは、他でもないセシリアの非でしかなかった。邸のことを、そこで働く者たちをしっかりと管理する権利と責任を持ちながら、それから逃げ続けてしまったという、不甲斐なさ。それはただの怠慢であり、大きな過ちだ。
それはそのまま、社交界のことについても通じる、とセシリアは僅かに瞼を伏せながら思う。本来“公爵家”は、王族を除いた全ての貴族の頂点に立つ。しかもシルヴェイン家は、王家の傍流の血を継ぐ一族だ。由緒正しい、名家中の名家。右に出る家系はないと言われるほどの、絶対的な地位にある。
そんな公爵家の妻を――愛の有無など関係無しに――誹謗することは、本来許されることではない。これまでの歴史の中でも、目上の爵位家に対しては――内心はどうあれ――敬うことが、貴族社会の儀礼とされてきた。
けれどそれはある意味、公爵家の妻としての威厳をしっかりと保ち、爵位の品位を貶めるような醜態を見せないことによって得られる敬いである。
果たしてこの三年間、社交の場でそれが出来ていただろうか――。数々のお茶会の席を思い浮かべ、セシリアは口元に自嘲を滲ませながら、ゆっくりとひとつ瞬く。
出来ていた、と胸を張って頷くことなど、とても出来ない。最初の頃こそ、言い返そうとしたことは一度や二度あったけれど。結局言葉を呑み込み、諦念を抱くことを選んだのは、他でもない自分自身だ。だから誰も彼もが、こう思ったのだろう。公爵家の妻といえど、彼女は無抵抗だから何を言っても構わない、と――。それは、本来持たなければならないはずの“威厳”を、“品位”を保つことの出来なかった――そうすることから意図的に逃げた――セシリアの非と言われても、仕方のないことだ。
現実の世界は、砂糖菓子のように甘い童話の世界とは、何もかもが違う。何故ならば、今を生きる者たちには、その身分に違いこそあれど、誰にでも“責任”や“役目”というものが必ずあるからだ。そして爵位が高ければ高いほど、その重要さは増し、王族ともなれば、更に絶対的なものとなる。その責任を、役目を担った以上は、きちんと果たす――それが現実と、良いところだけを美しく描いた夢物語との大きな違いだ、とセシリアは思う。
そもそも、童話の中で無条件に救われるお姫様は、ただ愛されるだけで、彼女たち自身はいったい何をしたのだろう。
有名な童話のひとつに、深い眠りについているお姫様を救う為に、王子様が果敢に敵と戦う、という話がある。お姫様はずっと眠ったままだ。戦うのは王子様であり――お姫様は最終的に目を覚まし、自身を助けてくれた彼と結ばれる。
ではその話の中で、彼女は果たして“何”をしただろうか。何度も何度も読んだことのある話なのだから、答えなど考えるまでもない。彼女は何もしていないのだ。そして彼女を見守っていた仲間たちも、何もしていない。ただ眠りについて何も出来ないお姫様を助けてくれる王子様が現れるのを、ただひたすら“待っていた”だけだ。棺の中で、じっと。そして漸く現れた王子様が、お姫様を救う為に戦う――。
それは、受動的なお姫様を王子様が救う典型ではないだろうか。
けれどそれは、ただの夢物語だ。幾ら待っていたところで、白馬に乗った王子様が現れるわけではない。そして誰も彼もが責任を、役目を負い、それを果たしながら生きていかなければならないのだ。――つまり、護られるだけでは駄目だ、ということ。与えられた責任を、役目を全うする為に、白馬に乗った王子様をただじっと待っているだけではいけない、ということ。
「――いいえ」
夜風にそよぐピンク色のゼラニウムを遠目に眺めながら、セシリアはきっぱりとした声で言い放つ。少しの迷いも揺らぎもない、自分でも思わず驚いてしまうほどの、凛とした声。
「私は、ただ無条件に救われるだけのお姫様になることを、望んではいないわ」
そう言いながらグレアムへ視線を戻すと、彼は僅かに目を見開き、それからゆっくりと口元を綻ばせ、感慨深げに微笑んだ。
「奥様は、そのような御方でいらっしゃると、信じておりました」
新しく手に取った封筒の裏側を一瞥し、グレアムはそれを手早く一番左端の箱の中へ入れる。裏返しの状態で置かれたそれへ何となしに目を向けると、封をする為に捺された深い紫色の蝋には、見覚えのある紋章がくっきりと刻まれていた。セシリアの認識が間違いでないことを示すように、右下の端には、流麗な筆跡でブライアン・モランベストの名が綴られている。その隣には、夫人であるアメリア・モランベストの名も。
「それで……私に足りない、ふたつの“勇気”とは、いったい何なのかしら」
なんとなく分かるようで、しかし確信が持てず、セシリアはモランベスト夫妻の手紙に視線を落としたまま問いかける。
紙の擦れる微かな音がして、グレアムが中身を検めているのだと察するが、すぐに中身を戻され、セシリアの視界の端で真ん中の箱の中へと落とされた。
興味本位でちらと覗いてみると、最近商業界隈で最も財を成していると有名な実業家の名が、かっちりとした文字で書きつけられていた。その名を見て、なるほど、と思う。ユーリスはなるべくブルジョワジーと関係を結ばないようにしているのだろう。万一にも、自身の立場――公爵家当主、王家の傍流の血を継ぐ一族、王国宰相――を利用されない為の、予防線。
封筒を落として一拍ほどの間を置いてから、グレアムはふっと笑みともとれるような吐息をこぼした。彼とはもう長い――それこそ初めて公爵家を訪れた時からの――付き合いだけれど、思えばグレアムが怒ったところなど、一度も見たことがない。常に冷静で、穏やかで、誰に対しても分け隔てなく接する。だから、あの日――廊下で意識を失う寸前に聞いた彼の大声には、驚いたものだ。
「奥様に足りないふたつの“勇気”とは――ひとつ目は、“真実を知り、それと向き合う勇気”。そしてふたつ目は、“ご自身の足でお立ちになる勇気”でございます」
気遣うように、やさしい声音で紡がれた言葉を頭の中で反芻しながら、セシリアは、ああ――と、どこか観念したような微笑みをこぼす。そうして、漸く理解する。問うたのは、確信が持てなかったからではない。ただ、他人の言葉ではっきりと指摘されることで、喉の辺りに詰まった蟠りを、すとん、とお腹の底へ落としたかったのだ、と。それが水面に作った小さな波紋は決して不快ではなく、寧ろ心地良い。
“真実を知り、それと向き合う勇気”と、“自分の足で立つ勇気”――。確かにどちらも、自分に足りないものだった、とセシリアは思う。
ユーリスへ噂のことを訊くことは、幾らでも出来た。手紙、伝言。或いは無理を言って時間を作ってもらうことも、もしかしたら出来たかもしれない。けれどそうはせず、仕方のないことだと受け入れて逃げていたのは――真実を知るのが、怖かったからだ。他でもない、ユーリスの口からそれを聞くのが、どうしようもないほどに恐ろしかった。だから訊かなかった。知ろうとしなかった。そうすれば、向き合う必要もなかったのだから。
そして、自分の足で立つということからも、ずっと目を背け続けていた。公爵夫人としての執務はこなしていたけれど、一歩社交の場に出れば、その肩書は随分と脆く、容易く剥がれ、ぐちゃぐちゃに踏み躙られるばかり。
けれどそれを許していたのは、許してしまうような状況を作ってしまったのは、その肩書を護ろうとしなかった自分自身だ。借金だの浮気だの、そういったものを隠れ蓑にして。仕方のないことだと、受け入れていた。
けれどそれは、間違いだったのだ。ユーリスの妻として、公爵家の女主人として。
貴族の世界で、愛のない政略結婚など、幾らでもある。特に王族ともなれば、なおのこと。それでも夫人に、或いは王妃の座に就いた女性たちは皆、愛があろうとなかろうと、自身に与えられた肩書きに誇りを持ち、それを護る為に威厳を、品位を示してきた。それが、結婚の経緯はどうであれ、その役目を与えられた者の務めなのだから。
しかし自分は――。セシリアはシュミーズのやわらかな布地をそうっと撫で、指先で端を僅かに摘みながら思う。自分にはグレアムの言う通り、どちらの“勇気”もなかったのだ、と。真実を知り、ユーリスと向き合う勇気。そして、一人前の“公爵夫人”として己の足で立つ――毅然と立ち居振る舞う――勇気。
「そうね……グレアムの言う通りだと、思うわ」
箱から視線を上げ、深い灰色の瞳を見つめながらセシリアは、苦笑とも自嘲ともつかない笑みを深める。もっと早くそれを認められていたら、受け入れられていたら――もっと違う“今”があったのだろうか。
開きかけた唇を閉ざし、セシリアは言葉を紡ぐべきか否か逡巡しつつ、くるりと室内を見回す。灯りの点けられた幾つもの燭台、暖炉の上に置かれたオブジェや花瓶、一定の速度で正確に時を刻む振り子時計、年季の入った風合いをした初代公爵の肖像画。
「ねえ、グレアム……。実は私、ユーリスに離婚を告げたの」
小ぶりなゲリドンの上に飾られた紫色のアイリスを暫し見つめ、セシリアはゆっくりと、正面に座るグレアムへ目を向ける。そこには、今まで一度も見たことのないほど大きく目を瞠った、驚愕するグレアムの顔があった。その表情に、何故だかくすりと笑みがこぼれる。彼をここまで驚かせたのは、もしかしたら幼少の頃以来かもしれない。
「……旦那様は、何と」
「離婚はしない、と、ただそれだけ言われたわ。……けれど私には、どうしても理解が出来ないの」
離婚はしない、と、凛とした声できっぱりと告げられた時。彼は、感情の読み取れない――というよりも、何の考えも感情もない淡々とした瞳をしていた。端正なかんばせをみっともなく歪めることも、怒りを滲ませることも、嘲笑を浮かべることもせず。かといって冷たいというわけでもない――全くの“無”。
あの時の、彼のその表情が、瞳が、そして「離婚はしない」という一言が、セシリアには未だ理解することが出来ない。まるで底のない泥沼に嵌まってゆくかのように、考えれば考えるほど、分からくなってゆく。
だって、不思議でならないでしょう、と、セシリアは誰に言うでもなく、胸の内で独りごちる。だって彼は――
「結婚した日の夜に、ユーリスに言われていたのよ。――君を愛することはない、と」
今まで誰にも明かしたことのなかったあの夜の一言を、セシリアは寂しげに眉を下げながら、微かに震える声で告げる。グレアムはそれをどう捉えたのか、目を見開くことはせず、かといって驚くこともせず、何かを深く探るような瞳で、ただじっとセシリアを見つめていた。或いは――今此処にはいないユーリスを。
そのまま、沈黙が落ちた。重苦しくもなければ軽くもない、ただ静かに時が流れてゆくだけの沈黙。
セシリアはテーブルの上に並べられた箱に視線を落とし、それから月明かりに誘われるようにして、窓の外へと目を向けた。そこには、何度見ても変わらない庭園が、静謐な淡青の光に包まれながら広がっている。眠りについた草花、かさかさと葉擦れの音を立てる木々。
そんな庭園を通り越し、セシリアはパーラーからは決して届かない、その更に先に在る小さな庭の情景を、そっと頭の中に思い浮かべた。そこには、嘗て幼い頃、ユーリスとよくふたりで本を読んだ――読み聞かせてもらった――木が植わっている。立派な太い幹を持ち、特徴的な鋸歯の葉をたっぷりと茂らせた、秋にはたくさんのどんぐりを実らせるオーク。
「理由を、お訊きにならなかったのですか」
「訊かなかったわ。……でも、そうね。あれも逃げていただけだわ。“真実”と向き合うことから」
ふふっと笑うつもりだったのに、その声は今にも泣き出してしまいそうなほど、か細く震えていた。そのせいで、グレアムの表情が僅かに歪む。切なそうに、或いは憐れむように。
「私は、幼い頃より旦那様のお傍でお仕えしてまいりました。ですからもちろん、伯爵家の借金の件が浮上した折の旦那様のご様子も、間近で拝見しておりました」
仕分けをする手をとめ、グレアムは少し間を置いて、慎重に言葉を選びながら先を続けた。
「あの時の旦那様は、必死でいらっしゃいました。首を刎ねられる可能性がおありと、ご自身でもよくお分かりになっていながら――それでも陛下のもとをお訪ねになるほどには」
ユーリスが借金の肩代わりを決めたことも、多額の支援をするよう手配していたことも、それとは別に国王であるテオドールへ直談判していたことも、何もかも。それらがセシリアに知らされたのは、全て事が終わってからのことだった。ただ“そうなった”という事実を告げられただけ。詳細を、ユーリスからも両親からも聞かされることは、ただの一度もなかった。
だからこそ、今改めて痛感する。何故あの時、きちんと聞いておかなかったのだろう、と。ユーリスの考えを。一国の王への直談判という危険を冒してまで、そして公爵家の資産にも多大な影響を及ぼすと理解していながら、どうしてそれらの決断を下したのかを。
「……実は、奥様には決してお話しするなと、旦那様よりかたく口止めされておりましたのですが」
グレアムは、珍しく逡巡するように微かに首を傾け、それからこほん、と演技じみた咳払いをひとつこぼしてから、封筒の山へと手を伸ばした。
「旦那様は、奥様が把握されている以上に、邸にお戻りになっておいでです」
「……えっ?」
想像だにしていなかった打ち明けに、セシリアは目を丸くする。今の今まで、ユーリスは週に一度程度しか邸へ戻っていないと思っていた。しかしそれも、一年前のあの事件を境に幾分増えた、という程度でしかない。それまではひと月に数度戻るくらいしかなかったのだから――まさか自分の認識以上に邸へ戻っていただなんて、考えもしなかったし、気付きもしなかった。
もちろんその反応から、セシリアの心中を察したのだろう。グレアムは「無理もないことでございます」と言って、苦笑を滲ませた。
「旦那様が邸へお戻りになるのは、いつも奥様がお休みになった後のことでございますから。夜会や晩餐会、その上多くの政務をお済ませになってからとなりますと、どうしてもそのような時間になってしまうのでございます。しかも、お戻りになってもすぐに王城へ戻られてしまうという――殆どとんぼ返りの状態でございましたし」
「で、でも……どうして」
戸惑いながら返すと、裏面を確かめただけの封筒を真ん中の箱へ入れながら、グレアムは皺の寄った目元を綻ばせ、くすりと小さく笑った。
「ですから私には、旦那様が何のお考えもなく、そのようなことを仰ったとはとても思えないのでございます」
何故とんぼ返りでも、邸へ戻ってきているのか。そして、何故「愛さない」と告げたのか。グレアムの中では既に、ある程度固まった答えがあるのだろう、というのが、その表情から読み取れたけれど、
「しかしそれらは、奥様ご自身で旦那様に直接お聞きになるのが、よろしいかと存じます」
と穏やかな――心做しか、ほんの少しだけ楽しんでいるような――口調でそう言われ、セシリアは思わずたじろぎ、口を噤んだ。けれどすぐに、確かにグレアムの言う通りかもしれない、と思い直す。何の為の、ふたつの“勇気”だったのだろう。早速見失いそうになっていたそれを頭の中でもう一度繰り返し、セシリアは自嘲を孕んだ息をそっと漏らした。
私たちはいつから、こんなにも言葉を交わさなくなったのだろう――と、そう思いながら。




