5.そのほうが、面白そうだったから
初めて出会ってから、三年が経った。年を追うごとに、慧は変わった。相変わらず衿は着崩すが、おかしな格好はしなくなった。稽古や勉強から逃げることも少ない。
そして、二人の身長の差も、徐々に縮まっていった。
今日の課業も終わり、13歳の琳華は縁側で考え事をしていた。
(あと二年足らずで、傅役は終わる)
そうすれば、父上のもとへと帰れる。ここにきた当初はお役目が終わる日が待ち遠しかったが、最近はそうでもない。この家族との暮らしに、すっかり慣れていた。
「琳華、衿取りしようよ」
と、慧がやってくる。
「いいですよ。では、負けたほうが、腕立て伏せ30回で」
「よっし!」
「ではまず、衿を正してください」
衿取りは、二人の間で続いていた。慧がわがままを突き通すときの勝負だったり、単純に何かを賭けた遊びだったり、目的は様々だ。
二人が対峙したとき、慧の母が現れた。こんな時間に帰ってくるとは珍しい。少しふらふらしているようにも見える。
「お方さま、どうなされたのですか?」
「ちょっとね。お酒を飲まされた。お酒は弱いから、一杯でこれだ。で、辞去してきた」
そう言って、縁側にすとんと座る。
なんとなくすべてにおいて強そうな彼女だが、お酒は弱いのか、と琳華は意外に感じた。
「気にしないで、続けてて」
琳華は慧の母に一礼すると、慧に向き直った。
「じゃあ、いきますね」
◆
衿取りは、僅差で琳華の勝ちだった。
「慧さま。腕立て伏せ30回です」
「くそ~!」
慧が悔しそうに腕立て伏せを始める。
それを見て、慧の母が、ぴょんと立ち上がった。
「衿を取れば勝ちなんだね。面白そう。私も酔い覚ましにやってみていい?」
「はい、お手合わせ、お願いします」
初めて手合わせをしてから、ずいぶんと経った。琳華の身長は、目の前の女性をすでに追い越してしまった。
(お方さまには、何度も稽古をつけられた)
一度だって勝てたことはない。いや、勝ち負け以前の問題だ。いつも撫でるように指導されるだけだから、彼女の強さの底を見たことがない。
(でも、衿取りなら)
故郷では父や弟相手に、ここでは慧を相手に、毎日のようにやってきた。しかも今、慧の母はお酒を飲んでいる。
(よし!)
まずは踏み込み。これはうまくいった。ガードの手を払う。
すると、彼女は体を突き付けてきた。
(えっ……?)
体はほぼ密着状態だ。近すぎて、衿が取れない。戸惑っている間に、膝裏にコツンと足が飛んできた。膝ががくりと力を失う。
「よし!」
あっさりと衿を取られてしまった。さらに、流れるように投げを打たれる。受け身を取ったが、あまりの速さに呆然とし、立ち上がれなかった。
「琳華、足に気がつかなかったでしょ。もっと全体を見なきゃ。それに、考えるのをやめちゃだめだよ」
「はい……」
衿取りの戦いが、体を密着させるという展開になったことがなかった。それで混乱している間に、体勢を崩された。
「腕立て伏せ、30回だったっけ?」
力を失くして座り込む琳華に、慧の母はにやりと笑いながら言う。
「慧もやろう!」
母は、腕立て伏せが終わった息子を呼びつける。少し渋りながらも、慧は構えた。
「母上、強いんだもん……」
「じゃあ、ハンデをやろうか?」
「それはそれで、むかつくから要らない」
二人の身長は、今は同じくらいだ。腕立て伏せをしながら、琳華は二人の戦いを見守る。
(どんな戦いになるんだろう)
慧がたまに見せる勘の良さは、お方さまにも通用しそうな気がする。
勝負はあっという間だった。
無造作に間合いを詰めた彼女が、ゾッとするほど早い動きで息子の衿を取る。作戦も何も、あったものじゃない。
そのまま彼女は息子の足を払い、投げる。慧の体は、空中で見事に一回転した。
「慧、まだまだ遅いね」
負けた慧にも、何が起こったのか分からなかったのであろう。ぽかんとしている。
「腕立て伏せ、もう30回だね」
「もう無理だよお~」
そう言いながらも、慧は腕立て伏せを始めた。
琳華は、縁側に座る慧の母の隣に座った。
「ごめんね。勢いで投げてしまった」
「いえいえ。父ともやったことがあるんですが、父も手癖で投げてきますので」
そうなんだ、と慧の母は笑った。
「お方さま。今日は、どうしてお酒を?」
彼女がお酒を飲んでいるのは見たことがない。それをこんな時間からというのは、不思議だった。
「ふっ……」
慧の母は微笑んだ。
「実はね、後宮警護司丞のお役目を賜ることになって、今日はそのお祝いがあったんだ」
「司丞……!」
それは、司長に次ぐ立場だ。そうそうなれるものではない。
「おめでとうございます!お方さま」
「うん、ありがとう」
照れて笑うこの女性が、要職に就いていることは知っていた。努力していることも。しかし、ここまでとは。
子供の頃は見えていなかったことが、今は分かる。
宮妃という存在は、王の愛玩対象だ。出産や加齢で追い出されることもない。その立場にいれば、なんの不自由もなく暮らせる。
(でもこの人は)
その安定した宮妃の座を退き、近衛へ入隊。そこでこんなにも出世している。
「お方さまは、なぜ近衛に入られたのですか?」
ずっと聞きたかったことだ。
「んー、なぜって言われてもなあ。そのほうが面白そうだったから、かな」
「そうなのですか……」
もっと理由があるのかと思っていたから、少し肩透かしを食らった気分だ。
「そんなもんだよ。琳華は少し考えすぎるときがあるよね。考えるのはいいことだけど、あんまり思いつめないほうがいいよ」
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