33.俊足は俊足になれるか
どうしても、見せたいものがある。暁からそう言われた琳華は、彼の部屋を訪ねた。
「あ!琳華ちゃん!」
いつもより少し興奮した様子で、暁は戸口に現れる。一瞬、懐の縄に手が伸びかけた。
「亀は足が速くなるか、という話だけど、探したらあったんだ!」
「はあ?」
どういう意味だ。
――亀は、鍛えれば速く走るようになると思いますか?
初めて暁の部屋を訪ねた日、琳華が口にした言葉だ。その時暁は、そんなわけない、と一蹴していた。
「とにかく入って入って」
暁に導かれ、部屋に入る。
「琳華ちゃん、すごいよね。亀の足を速くしてみようって、思いつくなんて」
「ありがとうございます」
思いついたのは自分ではないが、お褒めの言葉はありがたく受け取っておく。
それにしても、話のつながりが見えてこない。
「あのあと、興味がわいて、いろいろ調べてみたんだ」
あの戯言を真面目に受け取り、根拠を探す。この人は、普段の軽薄さからは想像できないほどの知的好奇心を持っている。
暁は本を一冊取り出した。
「ほら、ここ。亀自身を鍛えるんじゃなくて、こういうのを使えば、早く走らせられるかもしれない」
と、しおりの場所を示す。
亀の足が遅いのは、自身の体重のせいだという論考。そこまでは誰しも考えるだろう。この著者はさらに、亀の腹の下に車輪がついた台車を置き、体重を預けさせた。すると亀は、手足を少し動かすだけで、とても速く走るようになったという実験結果であった。
「……すごいですね。よく、このような資料を」
飽くことなき知的好奇心。それが、この人の原動力であり、今の地位を支えているもののひとつだ。棚にある書物は哲学や論理学が多いが、それ以外の分野――生物学や天文学、工学に農政学、外国の書物まで様々だ。
(王族だからという理由だけで、異例の出世を遂げたわけじゃない)
琳華はもうひとり、よく知っている王族を思い出す。
(慧さまも、最近やっとやる気を出してきた。こうなれるのかもしれない)
◆
翌日の帰り際、慧の後姿を見つけて、琳華は走った。
「慧殿下」
声をかけると、彼は振り返った。
「琳華。一緒に帰る?」
慧と帰りの時間が合うときは、亀と同じペースでゆっくりと話しながら帰るのが、二人の習慣になっていた。しかし、今日琳華が慧を呼び止めた理由は、一緒に帰りたかったからではなかった。
「いえ。それよりも、今日この後、お屋敷に伺ってもいいですか?」
「え、え?いいけど……どうして?」
慧の動揺を見て、言葉が足りなかったかと琳華は付け加えた。
「俊足くんです。俊足くんの足を速くできるかもしれなくて。やってみたいのです」
「あー、そういうこと。もちろん、大丈夫」
「一度、家に帰ってから伺います。では後ほど」
暁が見せてくれた書物には、亀を台車に乗せるとあった。台車の大きさは、亀の腹より少し小さい程度。高さは、足が届くように。台車につける車輪は、なるべく滑らかに動くもの。
(早くやってみたい)
試してみたくて仕方がない。
大体の材料と工具を持ち、琳華は慧の屋敷へと向かった。
(久しぶりだな――)
七試が終わって辞去した後は、一度も訪れていない。
玄関を訪ねると、すぐに使用人が来て案内してくれる。懐かしい、いつもの居間だ。
屋敷の主人は相変わらずだらりと椅子に座り、その横を亀が歩く。
「殿下、今日はありがとうございます」
「家の中くらいは、慧のままでいい」
「かしこまりました、慧さま。ではさっそく、俊足くんをお借りしますね」
このくらいかと大雑把に切った板を、亀にあててみる。
(ちょうど良さそう。高さは――ちょっと高いか)
持ってきた工具で調整する。
慧は特に口をはさむことなく、琳華がしていることを見つめていた。
できた台車に俊足くんを乗せてみる。腹だけが台車に乗り、四本の足は地面につく状態だ。
「俊足くん、走ってみて」
俊足は、手足をばたばたとさせた。その勢いで、台車が少し動く。しばらくはぎこちない動きをしていたが、やがてコツを得たようだ。なかなかの速さで走り始めた。
「すごいよ、琳華!」
慧は目を輝かせている。
「はい……!」
琳華も感無量だ。
亀を早く走らせるためには、彼自身を訓練し、鍛えるしかないと思っていた。
(それ以外の方法があるなんて)
まさか、機構を利用したアプローチがあるとは。その視点を紹介してくれた暁には感謝だ。
「それでは、慧さま。私は満足したので、これで失礼しますね。この台車は差し上げます」
「えー、食事くらいしていったらいいのに。ちょうど琳華の分も作らせたところだし」
慧は、意外とちゃっかりしているところがある。まあいいじゃんと言いながら、琳華を食卓へと座らせる。それには苦笑しかない。
「では、お食事だけ」
◆
食事もあらかた終わり、琳華はデザートの杏仁豆腐を食べていた。
「琳華。書物、借りっぱなしだったね。ありがとう」
「どうでしたか?」
琳華が尋ねると、慧はデザートを食べる匙を止め、非常に複雑な顔をした。
「ないということは、あるということと同義ってのが、もう全然分からなくて」
一行目に書いてあったことだ。
「なるほど。ない、ということを認識するためには、まずあるという状態が前提になっていますよね?なので、ここでは同義、と」
「うん、そう……なのかな。そう言われれば分かる気がする。けどなんか、煙に巻かれたような感じだよ」
「全部こんな感じです」
「全部こんな感じ……。俺、無理かも」
「無理に読まなくて大丈夫ですよ。合う合わないがありますから」
「うーん、読みたかったんだけどね。せっかく貸してくれたのに、ごめん。琳華はどうして、こういう書物を読むようになったの?」
意外な質問に、琳華はきっかけを思い出そうとした。
「自分が考えていることや決めたこと、そういうものに根拠が欲しかったんだと思います。結局、根拠は得られずにいますが」
「ふうん……。分かるような、分からないような……」
と、慧はお茶を飲む。
「兄上とはどうなの?最近仲がいいみたいだけど」
王子は少し口をとがらせている。
「暁殿下には、書物をお借りしているだけですよ。もし何か進展がありましたら、ご報告します」
「えっ、進展……。それはそれで、すげー嫌なんだけど……」
本当に心の底から嫌そうな顔をしている彼を見て、琳華はくすりと笑う。
琳華は最後の一口を食べ終わると、立ち上がった。
「では私はそろそろ、失礼しますね。お食事、ありがとうございました」
「もう帰るの?遅いから、泊まっていけばいいのに。琳華が使っていた部屋、まだそのままだよ」
食事だけと言ったのに、それをけろりと忘れたように食い下がってくる慧に、琳華は首を横に振る。この人は本当に、ちゃっかりしているし、腹黒いところがある。
「いらぬ噂になってしまいます。それに――」
琳華はふっと笑った。
「自分のことを大事にしてほしい、と殿下が仰せだったので、その通りにしますね」
「うわ!しまった。言わなきゃ良かった……」
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