32.自分の価値
(本当に、来たな)
部屋を訪ねてきた琳華を見て、暁は少し驚いた。
一回目に来た時も、同じくらい驚いた。理性的な彼女が、自分の誘いに乗るとは思ってもみなかったからだ。
最初はただ、武官の女の子が珍しいのと、顔が好みだったから声をかけていた。しかし何度も断られるうちに、彼女は自分になびかないタイプだと理解した。何となく、惰性で声をかけていただけだ。
(なのに、琳華ちゃんは部屋に来た)
部屋に来た彼女と実際に話をしてみると、やはりたいそう理性的で、抱いてしまって、ただの女にしてしまうのはもったいないと思ったくらいだ。
(逃げてもらって、むしろ助かった)
「こんばんは。では、お手を失礼しても?」
戸口にいる琳華は、縄を持っている。
「ちょ、ちょっと待って、琳華ちゃん。本当に縛るつもり?」
「賊を縛るのは、職業柄慣れておりますので、ご安心を」
「いやいや、安心とかそういうことじゃなくて。冗談だから。冗談だから、縛るのはやめてほしいなあ~」
「そうでしたか」
琳華は縄をおろし、懐へしまう。
「本当に、何もするつもりはないから」
それは本当だ。暁は、女は二種類しかいないと思っていた。抱ける女と抱けない女。しかし、この目の前の女は、新しく現れた三種類目だ。もっと話をしたい女。
(抱いてしまったらもったいない)
一度抱いてしまえば、「抱ける女」に降格してしまい、二度と学問の話はできなくなるだろう。それは、あまりにつまらない。
「こちらの書物、ありがとうございました」
そう言いながら、琳華は椅子に座った。
「うん、どうだった?」
暁も向かいに座る。
「私が思っていたよりも、ずっと思考が深くて。とても面白かったです。もう一度、合理論も読み返し、なるほどと思った点や、少し納得がいかなかった点も」
「へえ」
哲学や論理学の話を、ここまでする女は初めてだ。いや、男でもいない。正確に言えば、いることはいるが、哲学をしている自分に酔っていて自ら考えていないから、話をしてもつまらない。
でもこの人は、自分で考えている。
そんな人が、どうして前回は、およそ理性とかけ離れたことをしようと思ったのだろう。
「琳華ちゃんは、前回、どうしてここに来たの?」
質問が意外だったのだろう。彼女は少し言いよどんだ。首を傾げ、言葉を探している。
「いろいろありまして……。自分の価値が分からなくなったんだと思います。それで、自暴自棄になり――賭けを」
「賭け?」
「はい。大変失礼ながら、殿下の言動を賭けの対象にしまして。ふふっ……」
何がおかしいのか、彼女は笑う。
「賭けに負けたのでのこのこと参上したものの、なんの覚悟もできておらず、あのような仕儀に」
分かったような、分からなかったような。
「情けない姿をお見せして、申し訳ありませんでした」
そう言って、彼女は頭を下げる。
「本当に、全然気にしてないから。直前で、やっぱり無理ってなる子、普通にいるし」
そういえば、と暁は思った。
(この女、たしか慧が狙っていたな)
平民の女を母に持つ、愚かで子供っぽい弟。
(あいつにはもったいないだろう。ここはやはり、先に囲い込んでおくか……?)
「琳華ちゃん。やっぱり俺の側室に――」
彼女の懐から、パンっと縄が出てきた。
「うそうそ、冗談です!縄はやめよう、琳華ちゃん」
理性的とはいえ、武官だ。ぞっとするくらい判断が早い。
「あはは……。もっと、話がしたいな」
「私もそう思って来ています。先ほどの、合理論ですが――」
◆
数日後。仕事が終わった琳華は、居間でくつろいでいた。そろそろ父が帰ってくる時間のはずだ。
「琳華!琳華ぁー!!」
帰ってきた父は、ひときわ大きな声を出した。
「おかえりなさいませ、父上。そんな大きな声を出して、どうなさったのです」
父は琳華の姿を認めると、ずかずかと大股で近づき、肩に手をかけた。
「昇進した!都尉だ!」
「おめでとうございます……!」
「お前のおかげだ!礼を言う」
父は、がしっと娘を抱きしめる。
「あの、宴会。あれでお前が出してくれた、水軍の人員配置案。あれをもとにやってみたら、大当たりだ。スムーズに訓練が進んでな。それが認められた!」
「そうでしたか……!」
「水軍は陸軍と違って、船で完全に分離される。船に乗った者たちの役割分担と相性が、なによりも大切なんだ。だから、本当にお前のおかげだ。すごく――大変だっただろう」
「いえ……」
確かにあれは――少し大変だった。いや、振り返ってみれば、すごく大変だった。それが報われたのは、とてもうれしい。
「本当に、おめでとうございます、父上」
「うむ。これは、将軍も夢じゃないぞー!」
がははと父は笑う。
将軍。
いわずと知れた、禁軍の水軍部門のトップだ。
――じゃあお父上が、どのくらい武功を積んで出世したらいいと思う?
いつかの慧の、素朴な疑問だ。
――そうですね。例えば、禁軍の将軍とか。
自分はそう答えた。
(まさか)
琳華は首を振った。
将軍になるためには、武功だけでは足りない。王家からの信頼と家柄。それらは、努力で手に入るものではない。
◆
(今日も疲れたな)
慧は自室で、だらりとくつろいでいた。衿を崩し、帯を緩める。人前でちゃんと振る舞うのは、少し疲れる。
最近、中級試験の勉強で根を詰めていたから、今日くらいはゆっくりしよう。そう思って慧は、琳華から借りた書物を手に取った。
(兄上も読んでいるらしいからなー)
最近、琳華と暁は仲がいい。自分の知らない書物の話をしていて、外に追いやられたようで嫌な気持ちになる。
書物の話をしに暁の部屋へ行くなら、うちに来たっていいじゃないか。
そういうことを琳華に言ったら、その書物を貸してくれた。『存在と因果』という厳めしいタイトルがついている。
(これを読んで理解すれば――あの中に入れる。琳華とも、もっと話ができるかもしれない)
幸い、書物に対する嫌悪感はだいぶなくなった。中級試験の勉強を進めているのだ。自分になら、理解できるだろう。
慧は書物を開く。
「はあ?」
思わず声が出る。
――そこにないということは、あるということと同義である。
一行目からわけが分からない。
「なんだこれ」
(ないとあるが同じ意味……?そんなわけがない)
頭がくらくらする。
それ以上読む気が起こらず、慧はそっと書物を閉じた。
お読みいただき、ありがとうございます!
感想、ブクマ、リアクション、評価★★★★★などとても励みになりますので、よろしくお願いします!!!




