30.誘いに乗ってのこのこと
完全に寝不足だ。兵部の護衛の見回りをしていた琳華は、頭を左右に振った。
(昨日は、あまり寝れなかった)
あの後、記録を書いて、似た色の糸で瑪瑙をつなぎ、帯飾りを直した。その作業は遅々として進まず、朝方までかかってしまった。
(そうだ。新人の育成計画)
部下に声をかけて、琳華は執務室へと向かう。その途中、慧が兵部軍務司長に呼ばれて、何やら話をしているのが見えた。会話の断片だけ聞こえる。
「えっ?俺に側室ですか?」
「うん、親戚の貴族のお嬢さんなんだけど。あちらは問題ないって」
「でも大叔父さま」
「一人くらいもらっておいたほうがいいよー。いないと逆に、変な噂になっちゃうし」
驚いた琳華は、思わず執務室に逃げ込んだ。幸い、誰もいない。琳華は卓の前にすとんと座り込んだ。
(聞いてしまった――)
聞かなきゃ良かった。
(慧さまに、側室)
まだ心臓がどきどきしている。
いいじゃないか。今までそんな話がなかったこと自体がおかしいんだ。あの人は王子。いくらでも使い道がある。有力貴族との結びつきとして、地方豪族の人質として、側室は利用価値が高い。
(慧さまには、慧さまの役割がある)
そのうち、王家と釣り合う家との縁組もされ、妻も娶るだろう。
琳華は無意識のうちに、帯飾りに触れた。瑪瑙の手触りを確かめるように、かちゃかちゃともてあそぶ。
目の前に広げた紙は、白紙のままだ。
(仕事、しなきゃ)
そう思っても、頭は別のことでいっぱいだ。
慧の側室話、散らばった瑪瑙、護衛なのに給仕を命じられた彼女らの微笑み、宴会で悪気なく削られていく心。
誰にだって、持って生まれた役割がある。王子には政治的役割。武門の娘には、年頃になったらどこかの家へ嫁す役割。
誰とも添わず、一人で生きていく。自分の人生の決定権は、自分で握りたいから。
(なのに、ままならないことばかりだ)
悪気なく押し付けられる役割。出世して得た仕事の責任。
今はなにもかも、全部放り出したい。
(あの屋敷に帰りたい)
居間で主人がだらしなく座り、お茶を飲む。その横を、亀が歩く。そんな穏やかな暮らし。
琳華の手は、ずっと瑪瑙の帯飾りを触っている。
すると、執務室に誰かが入ってきた。暁だ。
「ねーねー、琳華ちゃん、今夜は空いてる?」
思わず舌打ちしたくなる。
今の気分で、この軽薄王子に何か言われると、いらいらすると同時に、口車に乗せられてやろうか、とも思う。
「暁殿下。申し訳ありませんが、今夜はたまたま予定が。またお時間が合いましたら」
「またぁ~?予定多いねえ、琳華ちゃんは。じゃあ、また今度ねー」
すけこましは、手のひらをひらひらとしながら去っていく。
(ふう……)
危なかった。もう一歩押されていたら、やけになっているところだった。
自分との賭けだった。これ以上押されたら、誘いに乗ってやろう、と。
すると、王子はくるりと振り返った。
「明日は?」
(ははっ)
賭けに負けた。
(まあ、いいか)
「偶然ですね。明日は、空いています」
どうせ誰とも添わないんだ。この身を、大切にする必要もない。
◆
次の日の夜、琳華は暁の部屋を訪ねた。
(来てしまったな)
誘いに乗って、のこのこと。
(自分がこんなことをするなんて、思ってもみなかった)
意外と趣味のいい部屋だ。大きな棚には、たくさんの書物がきれいに並べてある。そのそばに座卓。食事をする卓には、椅子が四脚。奥の暗がりには寝台が見える。
なんとなく、琳華は瑪瑙の帯飾りに触れようとした。
(ああ、そうだった……)
そういえば、今日は外してきたのだった。
「お酒、飲む?」
「あまり強くないので――少しだけ」
椅子に座ると、暁が酒を出してくれる。それに、少しだけ口をつける。すぐに、喉が熱くなる。
(意外と強い酒だな。飲みすぎないようにしないと)
酒を言い訳にはしたくない。
「まさか、琳華ちゃんとこうやって、ゆっくり話ができるとはねー」
と言いながら、暁はグイっと杯を傾ける。一口で飲み干したのか、卓に乗せた瓶から酒を注ぎ足した。
「私も思ってもみませんでした。――殿下はご本をかなり読まれるんですね」
棚のほうへ視線をやりながら琳華は言った。
「うん、そうだね。あれもこれもと取り寄せていたら、どんどん数が増えて。琳華ちゃんは読む?」
「たぶん、読むほうだと思います。しかも、殿下と似ている傾向のものを。最近は、『存在と因果』とか」
◆
「へえ~。じゃあ、琳華ちゃんも、『合理論』読んだんだ」
「はい」
いつの間にか、学問談義になっていた。
(この人は、とても頭がいいし、知識も豊富だ)
どんな話題でも、きちんと返してくれる。今まで、哲学や論理学の話をする人などいなかったから、とても面白い。
暁は女たらしという欠点はあるが、それを補ってあまりあるほどの知識と頭の冴えを持っていた。
「どう思った?」
「うーん……。理想的ではあると思います。ただ――少しひねた考え方かもしれませんが、少し合理的すぎるかと。大半の人は、そんなにも合理的には動けないと思います。むしろ、説明のつかないことのほうが多いくらいで」
「なるほど。じゃあ、これは読んだ?」
暁は立ち上がり、座卓のほうへと向かう。琳華もそれに倣った。
座卓には書物が何冊か積まれていた。端には、硯がひとつ。
「確か、下のほうに――」
と言いながら、暁が探している。
琳華は何となく、座卓の上の硯を、指で撫でた。
(亀の形の硯――)
「あ、これだ。『合理論の論考とその批判』」
と、暁は一冊の本を差し出す。
「いえ、読んだことはないです」
「じゃあ、貸してあげようか」
「ありがとうございます」
と、書物を受け取る。そうして椅子に戻ろうとすると、
「琳華ちゃん」
肩をつかまれた。
振り向かされる。
「いいってことだよね」
夜に男の部屋を訪ねる。その意味が分からないほど、子供ではない。
「……ええ」
男の顔が近づいてくる。
(後は、この人にゆだねればいい)
(もう疲れた)
(何も考えたくない)
目を閉じる。
――亀の形の硯。
「その前に一つ、お聞きしたいんですけど」
琳華は暁をやんわりと押し戻した。
「亀は、鍛えれば早く走るようになると思いますか?」
暁は驚いたのか、目をぱちくりさせた。そして、
「なんだそれ。そんなわけないじゃん」
と笑う。
「ですよね」
普通はそう思うだろう。やはり人は、合理的ではいられない。
「ごめんなさい。急に予定を思い出したので、帰ります。書物、お借りしますね」
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