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3.教育係も楽じゃない

 琳華《リンカ》は、嫌がる王子を母御のもとへ無理に引っ張っていく。幸い、王子は8歳にしては小柄なので、そんなに難しいことではなかった。


「ありがとう、琳華」


 慧《ケイ》の母はそう言い、息子の耳をぎりぎりとつかむ。


「いでででで!!」

「慧!琳華にちゃんとご挨拶しなさい」

「嫌だよ、やめろ!このぼーりょく女っ!!訴えるぞ!」


 母はようやく耳を離し、暴れる息子の両手をまとめて握り、琳華に苦笑を向ける。


「本当にごめん。いつもこんな感じなんだ。呆れただろ?」

「いえ、そんな」


 本当は呆れた。まさかこんなにも甘ったれとは。王子というから、もっと優美な佇まいを想像していた。これでは、故郷の弟よりひどい。


 その時、女官が何かを彼女に耳打ちする。


「ええ?司丞殿が?うーん……すぐ行きたいんだけど、ちょっとだけお待ちいただけるように言ってもらえる?」


 そうして、王子の母は、琳華に向き直った。


「琳華。こいつを、何とかまともな人間にしたいんだ。後宮を出るまでに、武芸も勉強も、身につけさせなきゃいけない。本当は私がやらなきゃいけないんだけど、いろいろ忙しくて手が回らないんだ。今までは女官に任せていたんだけど、それでは足りなくなってしまって。一緒にやってくれるかな」


 困ったように笑う彼女は、武人というよりは母の顔をしていた。


「かしこまりました」

「ありがとう。ちょっと客人が来たみたいだから、席を外すね。初日なのにごめん。あとは頼んだよ」


 そうして去り際に、息子へ声をかける。


「慧!今日の課業、ちゃんとやるんだよ!」



 ◆



 母が去ったあと、王子は縁側で、背中を丸めてぽつんと座った。


「慧さま。その、おみ足の縄はどうしたのですか?」


 琳華は隣に座って聞いてみる。慧はぶすっとした表情をしているが、逃げる気はないようだ。


「なんか、強そうだと思って。ただそれだけ」

「なるほど。確かに強そうです」


 琳華の弟も、大人の使う革帯を体にいくつも巻き付けて、嬉しそうにしていたことがある。


「そちらのかんざしも?」

「なんかキラキラしててきれいだったから。かっこいいかなって」

「分かります」


 慧の表情が、少しだけ和らいできた。


「今日の課業は、どんなことがあるんですか?」

「武芸の稽古と、古典の書写……」

「では、武芸からやっちゃいましょう。琳華がお相手いたしますので」


 しかし王子は、ぷいっと横を向き、返事をしない。


(これは……手がかかりそう)


 弟もこんな感じになるときがある。そういう時は、遊びに誘うのが一番だ。


「ではこうしましょう。武芸の稽古は、私と衿取りをしましょう」

「衿取り?」

「向かい合って、相手の衿を取ったら勝ちです。簡単でしょう?」

「ふーん」


 あまり興味を持たなかったようだ。


「もし慧さまが勝ったら、書写は半分でいいです」

「えっ」


 急に目をキラキラと輝かせてこちらを見る。しかしすぐに、下を向いてしまった。


「でも、半分しかやらなかったら、母上に怒られる」

「私も一緒に怒られますから。どうですか?」

「本当に?母上はすごく怖いよ、大丈夫?」

「大丈夫です。それでは、琳華と勝負してくださいますか?」


「やる!絶対勝つ!!」


 慧は立ち上がった。


(立ち上がらせるだけで、この苦労――)


 先が思いやられる、と思いながら、琳華も立ち上がった。


「ではまず、衿と帯を正してください」


◆


 小柄な8歳をいなすのは、ものすごく簡単だった。動きが素直で、何をしたいのか手に取るように分かる。


(うまくバランスをとりながら、いい感じに勝とう)


 衿取りは、故郷で父とよくやっていた。長じては弟とも。弟の衿を取るのは簡単だが、少し手加減をしないと、すぐにへそを曲げる。


(慧さまは、弟よりやっかいそう……)

(課業を勝手に減らすのは良くないだろうから、うまく持ち上げながら、最終的には勝たなきゃ)


 わざと衿をちらつかせると、慧はがむしゃらに飛びついてくる。予測は簡単だから、ひょいと避ける。


「うう……」


 それでも諦めずに食らいついてくるのは、琳華が出した条件が魅力的だからであろう。


 何度も隙を見せてみては飛びついてくる手をいなし、ときには大きな動きで腕を出し、ギリギリでかわしてもらう。


(これくらい武芸の鍛錬をすれば、十分だろう)


 そろそろ終わらせよう、そう思って琳華は慧の衿へ手を伸ばした。一生懸命、方向転換で慧が逃げる。


(これは、つかまずにおこう)


 王子の勘は、とてもいい。もう少し不器用に逃げたときに、衿をつかもう。そう思って、もう一度手を伸ばす。


 その手をかわそうとした慧の足が、ずるっと滑った。


「あっ」


 思わず支えようとする。


 その衿を――。


「取った!」


 慧は転びながらも、琳華の衿をパシッと取ってしまった。


「取った!!やったー!!勝ったー!半分だ、はんぶーーん!!」


 ひざをすりむきながらも、大喜びで庭を駆け回る8歳児。


「やられた……」


(なかなか勝負強いところはあるのかも)


「慧さま、お見事です。琳華の負けです。書写を半分だけパパっとやったら、今日の課業は終わりとしましょう」


「よっしゃー!!やる気出てきた!!」


 小躍りしながら、王子は卓に向かった。


(まあ、これならいいか)


◆


「琳華。今日は一緒に怒られてくれてありがとう」


 一人で寝られないと甘える慧に膝枕を貸しながら、琳華はお方さまの説教を思い出す。思い出しただけで、身震いした。普段から武官を相手にしているだけあって、ものすごい迫力だった。


「慧さまがおっしゃったとおり、とても怖かったです」

「でしょ。でも琳華が一緒だったから、泣かずにすんだよ」

「そうでしたか」


 そう言いながら、説教中の王子を思い出す。目に涙を溜めて、それがこぼれ落ちないように目を見開いて耐えていた。


(泣かずにすんだ――というほどでもなかったけれど)


 そういう琳華も、恐ろしさに震え上がったので、大きなことは何も言えない。


「おやすみ、琳華」

「おやすみなさいませ」


◆


 慧が眠ったのを確認し、琳華は寝室を出た。すると、慧の母がいた。


「今日はごめん。初日なのに、席を外してしまって」

「とんでもありません」

「武芸と書写、ちゃんとやらせてくれて、ありがとう。」

「いえ、勝手に半分にしてしまって申し訳ありません」

「やらせただけでもすごいよ。しかも字が整っていて、すごくいい書写だった。うまく乗せてくれたんだね」


「少し、苦労しましたが」


と琳華は苦笑した。


「琳華はすごく頑張ってくれたのに、成り行きで一緒に説教してしまって悪かった」


 状況を理解して、謝ってくれる王子の母に、琳華は頭を下げる。


「いえ。一緒に怒られよう、と慧さまと約束したので、まとめて怒ってくださってむしろ良かったです」

「そうだったんだ」


 彼女は琳華の手を取った。


「琳華。これからも、よろしく」

「はい、お方さま」





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