2.後宮内の小さな宮
10歳の琳華は、父に呼ばれて執務室へと入った。父は後ろを向いているので、表情はうかがえない。
(どうしたんだろう)
いつもと違う気がして、胸がざわつく。
父が振り返る。
琳華は父が大好きだった。がっしりとした体格で、髭を生やした父は、いかにも歴戦の武人だ。実際に都督として水軍を率い、国境を侵そうとする敵を、何度も追い払っている。領主さまの覚えもめでたい、尊敬できる父だった。
「琳華……」
父は少し迷う素振りを見せたが、すぐに言葉を継いだ。
「殿からお前に、お役目を仰せつかった。王子の傅役だ。やってくれるか?」
「王子の……?」
王子とは誰だ。自分の生活からは離れすぎているので、琳華は一瞬何のことか分からなかった。
「主上の御子だ。齢は8。お前の弟と同い年だし、王位継承権からは遠いらしいから、気安いだろう」
主上。それは殿――領主さまより偉い人だ。この国の王なのだから。
「ということは、王宮へ行くということですか?」
領地を離れ、一人で中央の王宮へ?急に不安が広がる。
「お前が適任だと、殿もご推挙してくださっている。ありていに言えば、王子の教育係だ。わしから武芸を習い、筆も達者なお前なら、見事にやりおおせると、わしも思う」
妙に早口で話す父に、琳華は不安を抱く。
(父上は、どうして私を中央へ……?)
じっと父の顔を見つめた。
「行きたくありません」
広がっていく不安をなんと表現したらいいのか分からず、琳華はそれだけを言った。
「行きたくないかあ……そうだよなあ。わしも、お前を手放したくはない。しかし――」
父は困ったように頭をがりがり掻いた。
「琳華、これは父の願いでもあるんだ。あちらにはな、母御がいらっしゃる。母御は宮妃の座を退かれ、今は近衛の要職に就いておられるそうだ。お前に武芸を仕込んでくれるのも、条件に入っている。それにお前にも、母上が欲しかろうと思って、な」
「母上――」
琳華は母のぬくもりをほとんど覚えていない。琳華が3つの時に、母は亡くなったからだ。
(父上は、それを気にしているんだ)
「傅役は、王子が14歳になるまでだ。お役目が終わったら帰ってくればいい。中央で得た知識で、わしを支えてくれると嬉しい」
「分かりました」
(父上の助けになるのなら)
「王宮へいきます」
◆
「この度は遠いところ、ありがとう」
王子の母は、そう言って琳華を迎えてくれた。
後宮内の端にある小さな宮。それが今日からの琳華の住まいであり、仕事場だ。
「お方さま。お初にお目もじつかまつります。清河領より罷り越しました、霍琳華と申します」
慣例に従い、膝を折り、深く礼をする。
「ああ、そんなにかしこまらなくていいよ。これから毎日会うんだから」
彼女は琳華の腕を取り、立たせてくれる。それで改めて、まじまじと彼女を見た。
王子の母だから、もっと雅でたおやかな人を想像していた。しかし目の前の女性は、簡素な服を着ており、気安い雰囲気だ。小柄で、愛くるしい面立ち。一見可憐だが、その佇まいは武人然としている。
(近衛の偉い人って言ってたから、父上くらい強いのかもしれない)
「さっそくで悪いんだけど……」
彼女は頬をポリポリと掻く。
「慧を探してくれるかな」
「慧さまを」
それは、これから琳華が仕える人の名だ。
「すぐどこかへ行っちゃうんだ。今日はあなたが来るから、気恥ずかしくて隠れてしまったんだと思う。甘ったれなところは、主上にそっくりだ」
「主上に……」
こんなに気安い彼女から、あっさりと「主上」という言葉が出たことに、琳華は驚いた。しかも、甘ったれと。
(そっか。この方は、主上の奥方さまだった)
王には奥方さまが何人もいるらしい。この方は、そのうちの一人だ。
琳華にとっての主上というのは、雲の上の人であり、どんな人かを想像したことすらない。それが、日常にある。
(すごいところに来てしまったのかもしれない)
「お方さま、慧さまはどのような方ですか?」
「うーん、8歳にしては小柄かな。信じられないくらいだらしない恰好をしているから、すぐに分かると思う」
「かしこまりました」
◆
宮は、琳華の実家の半分くらいの広さだった。数人の使用人が働いている。彼女らに自己紹介をしながら王子の行方を聞くが、誰もが首を横に振る。
(8歳の子が行きそうなところ……)
自分にとっては2年前だ。弟とは同い年。私が叱ったら、弟はどこに隠れた?8歳の私が父から隠れたかったら、どんなところへ行く?
大人がわざわざ探しに行かなさそうなところで、小さい体を生かして隠れられるところ。
(台所かな)
物がごちゃごちゃ置いてあるほうが、隠れやすい。棚や、大きな甕があればなお良い。
台所へ行ってみると、果たして大きな甕が二つ並んでいた。水を貯めておくものだろう。
(怪しすぎる)
覗き込んでみるとやはり、小さな頭があった。
「慧さま」
声を掛けると、その小さな頭がビクっとする。彼はすぐに、甕から逃げ出した。
「お待ちください」
逃げる王子を追う。王子は琳華を撒こうとしているが、大した速さでもない。すぐに腕をつかむ。
「離せ!」
そう言って暴れる王子は、確かに信じられないくらいだらしない恰好をしていた。
衿ははだけ、帯はぐちゃぐちゃ。そのぐちゃぐちゃの帯に、まくり上げた服の裾を突っ込んでいる。裸足のすねにはなぜか縄が巻いてあり、どこからかっぱらったのか、髪に女物のかんざしを二本刺している。
「慧さま。お初にお目もじつかまつります。今日からあなたさまの傅役を務めます、琳華と申します」
「いらん!帰れ!」
最悪な出会いだった。
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