24.もう子供じゃない
七試もあと一つと迫っていた。最後の一つは算術が必要になるため、慧は少し苦戦しているようだった。
横で本を読みながら、琳華は慧を見守る。
(あと――ひとつ)
ここまで、一年近くが経っていた。最初の地理は合格までに時間がかかったが、その後はあまり時間をかけず、順調にクリアしている。そうして最後の試験を明日に控えていた。
その間にいろいろあった。慧は成人し、一緒に城下町へ行った。暗殺者に襲われたこともあった。
琳華が慧の護衛を解かれれば、別の者が護衛に就くだろう。その者に引継ぎをしたら、この屋敷を出ていく。
(そうしたら、また寮暮らしだ)
気ままな寮暮らしは、自分の性に合っている。
足元に来た亀を抱いてやる。俊足くんともお別れだ。
「あー、疲れたな。琳華、気晴らしに衿取りしようよ」
「久しぶりですね。かしこまりました」
亀を床に置いて、琳華は立ち上がり、庭へと向かった。
◆
琳華は、対峙した男を見て、油断ならないなと思った。
以前とは違う構え。芯が通っていて、隙がない。
相手のほうが大きいから、距離を取られると勝つのが難しくなる。リーチの長さや力は、慧のほうが上。しかし速さは、自分のほうが勝っているはずだ。
(先攻で、しっかりと懐に入ろう)
まっすぐ行くと見せかけて、ガードの甘い左から。
琳華は間合いを詰め、フェイントを入れてから左手を払う。
(よし!)
飛んでくるひざは、計算通り。それをよけ、軸足に蹴りを入れて、体勢を崩す。
(いける)
衿へと伸ばした手は、しかし届かなかった。慧が身を反転させたのだ。
「あっ……!」
予想外の動きに、思わず後ずさる。
(何、今の)
ひらりとよけられた。まるで――10歳の頃、初めてやったときのように。
(なんだ……。この人は、なにも変わっていない)
相手の動きを見て、素早く対応する。それがずっと感じていた、勘の良さ。
(全部、昔のまま)
変わったのは表面に見える言動だけ。本質は何も変わってはいない。やっと今、気づくなんて。
慧がにこりと笑った。どういう意味の笑いかは、琳華には分からない。
そうして、間合いを詰められる。
(向こうから来られると、負ける――)
腕が伸びてくる。それをかいくぐり、なんとか懐へ。と、肩を押された。
(く……!)
予想はできていた。でも、なんて強い力。
踏ん張り切れず、バランスを崩す。その衿を、取られてしまった。
「あっ!」
「ふふ、琳華から取った」
「さすがです。慧さま」
つかんだ衿を、そのままぐいっと引き寄せられた。体が密着する。
何事かと、慧を見上げる。慧はじっと琳華を見つめている。暗くて、その目が何を訴えかけているのかは分からない。
「……くっつくのは禁止では?」
「そうだっけ?」
いけしゃあしゃあと彼は答える。
(力……こんなに強かったなんて)
いたたまれなくなって離れようにも、離れられない。
どんな表情をしたらいいのか分からずうつむく。そして、変な沈黙にならないように話題を探す。
「今回は――何か、賭けてましたっけ?」
「何も。でも、賭けてたことにしていい?」
「何を?」
「唇」
慧から放たれた言葉に、琳華は軽く息をのむ。
「そ、それでは、勝ちでも負けでも、どちらにしても、くちづけを――」
精一杯の理屈はしかし、顎をつかまれ引っ込んでしまう。
上を向かされる。彼と目が合う。
もうどう抵抗していいのか分からない。
いま自分はどんな顔をしているのだろう。
そのまま、慧の顔が近づいてくる。
「お、おやめください……」
自分から出てきた声は、情けなく震えていた。
(もうだめだ)
目を閉じる。
こつん、と額が合わされた。
恐る恐る目を開けると、苦笑する慧の顔があった。
「じゃあ、今回はおでこで」
衿に込められた力が弱まる。それで、琳華は一歩下がった。
「殿下。もう衿取りはやめましょう……」
(もう、私たちは子供じゃない)
無邪気に距離を縮めてはいけないのだ。今まで薄々感じていたことを、今はっきりと思い知らされた。
「うん。分かった。琳華、いままで本当に、ありがとう……」
「慧さま――」
明日、彼は七試の最後の科目を受ける。きっと合格するのだろう。
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