16.普通になって感謝感激
「琳華。久しぶりに、衿取りしようよ」
武芸の稽古の合間に、慧が誘ってきた。
「いいですね」
最近の慧は、稽古に身が入るようになった。嫌がっていた基礎練習も、ちゃんとやる。
(あの襲撃)
きっかけは間違いなく、女官に化けた暗殺者の襲撃だ。
(私の言葉、ちゃんと伝わったんだ)
あれからもう、一か月が経った。慧は、使用人が頻繁に入れ替わるのは良くないと感じたようだ。あまり無理を言わなくなった。
「ではまず、衿を正してください」
そう言ってから、もう衿を乱していないことに気づく。すっかり口癖になっていた。それでも慧は、ほとんど整っている衿を、ちょいちょいと直す。
「くっつくのは、なしで」
「かしこまりました」
そうして構える。
(少しはさまになってきた)
しかしまだ、琳華を脅かすほどではない。
自分の衿をガードしながら、目線は相手の腕へ。
(でもこれはフェイント)
足を払うように蹴りを入れる。絶対に避けられないと思ったそれは、あっさりと避けられた。
(えっ?)
――やっぱり勘がいい。
もともと良かった勘が、冴えているような気がする。
(でも――)
向かってくる手をいなす。
(まだ遅い)
もう片方のガードを手早く崩し、がら空きになった胸元へ鋭く手を差し込む。
衿を取り、袖をつかみ、そのまま投げを打つ。
「はい!琳華の勝ちです」
「くそ~。投げるまでしなくていいじゃんか。母上みたいだよ」
「申し訳ありません、つい――」
自分が衿を取るだけではなく、流れで投げを打ったことに驚いた。
(お方さまや父上も、こんな感じだったんだ)
尊敬する二人に少し近づけた気がして嬉しい。
「最初の蹴りを避けられたのには、びっくりしました。私がすること、分かっていましたか?」
「ううん、全然。うーん、そうだなあ……分かっていたっていうより、蹴りが来たから避けたって感じかな」
(反射神経か――)
そればかりは天与のものだと、指導教官が言っていた。
「慧さまは、きっと強くなります」
「そうかな。琳華には全然かなわないけど」
「すぐに、私より強くなりますよ」
高い身長、広い肩に長い腕。体格にも恵まれている。
(きっと基礎練習をし続ければ)
あっという間に自分は抜かれてしまうだろう。
琳華は、目の前の男を見る。最初に出会った時からは考えられないくらい成長した。
(寂しいような、嬉しいような)
頭をぽんぽんとしてやりたかったが、思ったより上にあったから諦めた。その代わり、背中をぽんとたたく。
「続けましょう、稽古」
◆
琳華はいつものように、兵部の護衛についた。
亀の散歩はこの部署では恒例となり、もう誰もなにも言わない。むしろ、全員で愛でている。
すると、兵部のほうから琳華を呼び寄せる者がいる。
(あの方は――軍務司長さま)
警護司長の部屋で、慧の勤務態度を嘆いていた男だ。呼ばれるがまま、人目につかない場所へ行く。
「なんでしょう」
「ありがとうねぇ~!君のおかげだよ~!」
司長は泣かんばかりに、琳華の手を取る。
「ずっとお礼を言いたくて。君のおかげで、慧殿下が、すごく、すごく、普通になったんだよぉ~!」
「恐れ入ります」
普通になっただけでこれか。
あまりの熱量に、少し引いてしまう。
「もう本当に助かっている。仮にも殿下だからさぁ、注意もしづらくって。でもみんなの手前、注意しないわけにもいかないじゃん?」
「はあ……」
「ほんっとうに辛い日々だったんだよぉ……」
ああ、本当に泣き始めてしまった。
「それは、お辛かったでしょう」
「うん、そうなの。何度言っても直らなかった衿がさ、もうピシィーっと。感動だよぉ。遅刻も居眠りもしないし、ちゃんと仕事を理解して、自分の意見を言うようになったし」
(長いな……)
司長殿はそれ以降も辛かった過去を滂沱の涙とともにたっぷりと語り、満足したのか仕事へと戻っていった。
(よっぽど頭痛の種だったんだな……)
あんなに人が良さそうな人物の頭を悩ませるとは、あの甘ったれなへそ曲がりにも、困ったものだ。
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