影喰い
血の匂いだけが広がる。誰も何も見ていない。
「……今の、見えたか」
誰も答えない。
「……まさか」
喉が乾いたような声が落ちる。
「何でこんなとこに九薙伊澄が居るんだよ!?」
名が落ちた瞬間、恐怖が伝播する。
「鹿島が雇ったんじゃねぇのか…?」
「影喰いが誰かに雇われるようなタマかよ」
「鹿島みたいな詐欺師につくわけねぇだろッ」
「……嘘だろ、あれ死んだって話じゃ——」
誰かが後ずさり、誰かが武器を握り直す。遅い。すべてが遅い。七条の視界では、動きが引き延ばされていた。
腕が上がる途中。指が引き金にかかる途中。足が退く途中。一歩で距離が消える。触れた瞬間に力を加える。それだけで決着がつく。
倒れる音だけが遅れて届く。配置を見る。障害か否か。
「っ、何処だ!」
声が飛ぶ。振り向く途中へ入り込む。死角へ滑り込む。刃が走る。浅い軌跡の次で終わる。新たに一人が崩れ落ちる。視線はすでに次の対象へ移っている。
路地の奥に身を潜ませている三剣龍之介は無傷。
血の匂いも混ざっていない。
(ならいい)
今度は正面の男の首が揺れ、体が落ちる。
「……っ!」
誰も動けない。存在だけが圧となる。気付いた時には終わっている。
「下がれ!」
誰かが叫ぶ。その命令すら──途中で切れた。
「政宗命令だ。逃げろ」
「嫌だ」
「逃げろ。自分の命も勘定に入れられない奴を恋人にした覚えはない。逃げないなら本当に殺すぞ」
「殺せるもんなら殺してみろ。死んだら地獄で君に愛してるって叫んでやる。だから伊澄」
路地から姿を現した三剣は、コートのポケットからナイフを取り出す。「これやるよ」放られたそれを、七条は片手で受け止める。
「これ……」
「スペアで買ったやつ。だからおそろいだ。それで俺の敵倒してくれよ?」
七条は何の迷いもなく自身のナイフを、ポケットへ戻した。
「……これでやれってか。上等だ」
刃の重みを確かめるように、指先で軽く回す。まるで最初からそれが自分の得物だったみたいに。
「政宗。今命令してるのは俺だ。命令するな、馬鹿野郎」
「そりゃ失礼しました。ベイブ」
七条はナイフを遊ぶように回す。その刃先に映るのは、血でも敵でもない。三剣だけだ。
「最高の呪いをかけるなら、一回くらい俺の命令を聞け」
世界は静まり返り、血と灰の匂いが濃く漂っていた。多対一の状況でも、七条は落ち着いている。七条の光るその瞳は狂気染みていて、でも、愛に溢れている。
「お前が居ると、俺は全力で戦えない」
「……は?」
指先の遊びは、どこか楽しげで危険そのものだった。
「お前の血が飛ぶ場所で、制御なしで動けると思うか?」
言葉は刃のようにまっすぐだった。
「……けど」
「俺は失敗しない。だから逃げろ、邪魔だ。俺は誰かを守りながら戦える程器用じゃない」
胸が苦しい。七条は負けない。解っていても、逃げるのはプライドを削る行為だ。その葛藤を七条は見抜いていた。
「……行かねぇと、俺まで壊れる」
三剣はポケットの中のナイフを握り、心を決める。逃げるけど、心は置いていかない。七条が全て片付けて、必ず迎えに来る事を、知っているから。
七条はその背を見送り踏み込む。狂犬の目には、愛と執着しか映っていない。
「…行け」
そこから先は、一方的な処理だった。
戦場に身を投じる七条は、誰よりも恐ろしく、同時に三剣を守りたくて仕方がない。ナイフを振るう指先、荒れ狂う闘志、そして愛──。




