第九十六話 十八歳の四月一日 ⑤
「さっさと転校すればよかった」
「なんでそんなこというの」
「これだけ近くにいる人間が、内心で、酷いことばかり考えて——搾取じゃないのか、それは。気づかれてたならなおさら酷い暴力だ、自分の傍にいる人間がそうやって四六時中嘘をつくのを気づき続けなくちゃならないんだから——」
雪本は榊の左腕を掴んだ。今は無傷のその腕に、思い切り力を込めて引き寄せる。
「それ以上言ったら、本当に怒るからな」
榊は答えず、そして目も合わせなかった。ただ、雪本の怒りの激しさの分だけ、左腕が順当に痛いようだった。
「俺は、本当の搾取とか暴力とかを、何度も受けかかってきたよ。何度も何度も、子供のころから。——榊は、そんなんじゃない。榊からされて嫌だったことなんて一つもない」
「わからないだろ」
榊は息を詰めながら、懇願するように続けた。
「——わからないだろ。自分でだってわからない、自分が今、何をしてるか、何を思ってるか、心のどこかでずっと疑い続けてる」
「榊、」
「知られてるなんて思ってなかった……」
榊はかすれる声を振り絞った。雪本が掴む腕は細かく痙攣し続けていて、息をするごとに肩から揺れる。
「可能性を考えなかった。それがもうおかしい、ありえない、一番に予想してなきゃおかしい。都合の悪いことを、気づかないようにして、自覚まで騙し切ってたんなら——」
「じゃあ、今やってみればいいよ」
雪本はさらに指に力を込めた。榊の腕がうっ血するかもしれないほどの力だった。
「やりなよ。暴力でも何でも。やり返してみなよ」
「……」
「……逃げてもいいよ」
雪本がそうつけ足すのを待ち構えていたかのような勢いで、榊は掴まれている腕に力を込めた。
しかし外れない。どちらの方向に振り切ろうとしても、引き抜こうとしても、雪本の指が滑ることすらない。
大きな骨の感触が、皮下脂肪もろくにない皮膚越しに凹凸ごととらえられている。
一緒に陸上部にいた一年生や二年生の前半の頃までは、体力や腕力という面で言うなら、確実に榊の方があったはずだ。体格のめぐまれ方からしても、少なくとも雪本に膂力で劣りはしなかったはずだ。
一体いつから、榊の体はここまで密度を失っていたんだろう。
「……俺の体は俺が守る。お前になんかされたらし返す。お前の言う暴力にだって、やり返せる。俺の不幸は、全部、俺のせいだ。そうでなくちゃいけないんだ」
「違う」
逃げることもできなくなった榊は、それでも首を横に振った。
「勝手に雪本を生かしたのはこっちだ。——今も生かし続けてる。西口さんや川上さんを盾に取ってまで」
「じゃあ俺、死んでればよかった?」
「そう望んでたんだろ」
「答えになってない」
「ならどうして死のうとしたんだ」
榊の声は、奇妙に平たかった。
「自分が死んで誰も悲しまないと思ってたわけじゃないんだろ。それでも雪本は死のうとしたし、私はそれを勝手に助けた。これからだって何度でも同じように勝手に助け続けるし、約束は絶対に守らせる。それ以外はいらない」
雪本がより強く腕を引き、榊が小さく息を呑む。それこそ暴力を受け取ったようにおびえていた。暴力で構わなかった。腕をへし折ってでもここに留めてやるつもりだった。
「だから、俺も、それ以上何も言うなって言うの。言っちゃダメなの?」
掴む腕が青ざめて震えている。痣になっているかもしれない。それが気に入らないのなら、そう言えばいい。自由になるもう一本の腕で雪本を叩けばいい。
けれど榊はどうもしない。
ただ自分を疑っていて、だから掴まれている自分もまるきり信じていないのだ。当然、腕をつかんでいる張本人の雪本さえ。
「俺、ここにいるんだよ。俺がそうしたいから、だからここにいるんだよ。さっきから言ってるだろ、俺は榊と話がしたいだけだよ」
「嫌だ」
「話したくないの?——俺が信用できない?」
「自分を信用できない」
「俺は榊を信じてるよ。他の誰が言う事よりも、榊の事を信じてる」
それこそ、その信頼は、三年前の入学式で、その視線に気づいた時から、ずっと続いているものだった。
その時、雪本にとって、確かなものは容姿だけだった。どれだけの時間勉強しても、どれだけ身体を動かしていても、手元には何もないような気がした。人から何を思われたところで、それが自分に向けられている気がしない。その一方で、人と比べてしまっても、雪本が一位を取れるものなど無かった。二位までは上がれても、一位には遠い。誰かには必ず負けた。
本質や実態はおろか、形式としてさえ看板になりうる力は、生まれつき何の努力もなく手にしている容姿のほかは、何もなかった。
けれど、入学試験で主席だったらしい榊知理という少年は、全く違った。入試をすれば、誰かは必ず主席になる。それこそ比べた結果の一位に過ぎない。新入生代表の挨拶を引き受けたかったわけでもないだろう。それでもその入学式で、壇上から挨拶をする榊知理は、限りなく能動的だった。
それでいて彼を見返す数多の視線を、すべからく受け取っていた。
「榊はすごいって、ずっと思ってきた。入学式の時からずっと。榊が同じ学校で、同じクラスって言うだけで、俺の自慢になるんだよ」
雪本は流石に一度、息を呑んでから続けた。
「初めてだったんだ。人の気持ちが嬉しかったの。人から見られて、嬉しいって思った」
榊という人間を勝手に自慢にしてしまっていた分、雪本は、榊がなぜ自分を見つけたのかわからなかった。そんな大層なものじゃないとも思った。
それでも、榊を疑う事だけはどうしてもできずに、結局は自分の価値を信じざるを得なくなった。
少しだけ背筋を伸ばして歩くうち、他の人間の視線も、笑顔も、言葉も、ゆっくりと価値を持ち始めた。
「——ホッとした。俺は人の気持ちを受け取れるんだって、めちゃめちゃ嬉しかった。俺にとって、榊はそういう人だよ。これから先もずっと。榊が嫌だと思っても、俺の本音はそうだ。だから榊の本音だって大事にしたい」
榊の目が、ゆっくりと持ち上がって、雪本のそれをまっすぐに見返す。伏し目がちに憔悴して、まだ涙一つこぼせていない。雪本はそれでも、ひるまずさらに睨み返した。
「苦しいこととかつらいこととか、全部ちゃんと向き合ってほしい。このままだと、榊がどこにもいなくなるよ。……それは駄目だよ。嫌なんだよ、俺が。今まで榊がどんなにきつい思いをしてても、これは絶対に譲らない」
榊が幸福を取り逃がすのは、榊自身の性質によるところも大きいのかもしれない。
その原因には雪本がいるかもしれない。
それでも、榊がその眼差しの中に、一つと言わず幸福を見つけた時、どんな表情をするのか、見届けたくてならなかった。
榊自身もそう望んでいるのなら、もうなんでも、誰が何と言おうと構わないと思った。
榊の目は、しばらくすると、何かが途切れたようにあっさりと伏せられた。
「本当に、申し訳ない。——でも、雪本。このままでいい」
今までにないほど冷静な声で、榊は続ける。
「『いい』って言うのは、違うな。本当の意味で一番いいのは、雪本が言ってくれたように、自分と向き合っていくことなんだと思う。自分でもそうしたいと思えた。……それでも、このままでいるしか無い」
「どうしてって、聞いてもいい?」
尋ねると、榊は一瞬だけ目を合わせた。如実に助けを求める目をしておきながら、すぐ誤魔化すように笑った。
「——もう、今更、考えの整理ができない。危ないものは全部遠ざけて、その場しのぎをするのがやっとだったから。自分のためか、他人のためか、本音か嘘かも、全部混ざってる。ちょっとでも油断をすると、それが逆流しそうになる。引っ張りまわされるんだ」
榊はそこまで言って、雪本が掴んでいる自分の腕を、もう片方の人差し指で示した。
「なのに気が付くと傍にいて、ろくに離れようとしない。視点を何度回しても、最後は、同じ場所に戻る。……無意識のうちに。自分でも、何が何だかわからないうちに。それが一番怖い」
榊は腕を引いた。
不思議なほどにするりと抜けた。
「だから、このままでいる。言ってくれたことは忘れない。ありがとう」
言葉を探した。
全てを聞き届けたうえで結論を出した榊を、さらに引き留めるのに、一体どんな言葉が届くだろう。
真菜は『自分と会話してないと、どんな言葉の意味も本当には入ってこない』と言った。
川上は『自分で死のうと決めないうちは、人は死なない』と言った。
絶えず外の情報をとらえ吸収してしまう榊は、より膨らみ、より絡みあう自分自身との会話をあきらめ、そうすべきだとさえ決めて自分を殺し続けている。
雪本を救った言葉は、だから、榊の慰めにはなれない。
答えのないまま榊に言葉を投げること自体、暴力でしかないだろう。
しかし榊は、ついさっき、はっきりと言った。
自分と向き合っていたいと、そう言った。
榊が何かを望むなら、本人が諦めていても、絶対に引き下がりたくない。
今はただ、他でもない榊自身を、ここに確かに留めたかった。




