第九十七話 十八歳の四月一日 ⑥
榊は雪本から視線を外し、扉の取っ手に手をかける。運転席に戻るのだろう。
呼び止めなくてはならない、今ここで扉を開けて、運転席に戻ったら、榊はまた何事もなく医者としてふるまうだろう。その前にいた分の榊は、後部座席から運転席に移動する一瞬の外気の中で死んでいく。
扉が開かれ、四月一日らしい春の空気が日差しと共に入り込む。
「知理」
何かに背中を押されるように、そう呼びかけた。
初めて口に出した名前は、焦りからか、奇妙に呼びづらく、発音し損ねたような気がした。
彼が動きを止め、声もないまま振り返る。雪本の目をじっと見つめて、ただその意図を問いかけてずっと奥まで探ってくる。
「知理」
もう一度、確かめるように呼びかけた。手早く呼ぼうとするとどこかで舌を噛んでしまいそうな、まるくて捉えどころのない響きをしていた。
こんな名前だったのか。
不安も緊張も、その名前に飲まれたような、変な心持がした。
視線の先で彼の目の奥が揺れ始める。かすかに聞こえる呼吸の音がばらばらと乱れて、唇が力みながら震えている。
「俺は、好きな人でも嫌いな人でも、家族でも他人でも、名字で呼んだり名前で呼んだり、色々で。呼びやすい方で呼ぶだけなんだけど……」
口から出まかせみたいなものだった。本当は名字の榊の方がうんと呼びやすい。丁寧に口にしなければ、自分も呼び損ね、相手も呼ばれ損ねる。
『知理』は、本当に良い名前だった。
「嫌だと思ったら、いつでも言って。そしたら謝る、良いって言うまで呼ばないようにする。——今は、さっきみたいに呼んでも平気?」
雪本がまばたきを打つと、彼も一瞬遅れて、思い出したように同じく一度まばたきをした。
そのすぐ後に頷く。
雪本は、もう負けていいと思って一瞬そらして、結局すぐに見たくなってまた目を見た。二度負けた気分だった。
「俺のことも、好きなように呼んで。どんな理由で、どんな風に呼んでも良いよ。毎回違う呼び方でもいい。呼びたいように呼んで。絶対に返事する」
「——わかった」
雪本は、ついさっきまで掴んでいた彼の腕を弱く引いた。やはり痣になっていた。
「ごめん」
「痛くないから——」
「俺も痛くなかったよ」
雪本は、自分の右腕をさすった。
「本当に、全然痛くなかったんだよ」
右手で捉える榊の腕から、筋肉が酷く緊張するのが伝わる。悲しいほどの生真面目さでまだ雪本を見返している。雪本も瞬きを惜しんでそれを受け取った。
榊の腕が静かに動き、雪本の右手首を掴み返す。親指で脈を探り当てると、その温度に溶かされるように、目から涙が落ちた。
その時に伏せた視線を、しばらくじっとそのまま瞬かせ、雪本の手から、腕へ、スーツの光沢へ、ピンの光へ、タイの結び目へ伝い上る。
ブロンドの光彩をちらちらと受け止めながら、顔立ちの輪郭だけはなぞるのを控えめにして。
そうして最後に目を合わせ、ゆっくりと息をする。
ずっと強ばり続けていた眼から、いとも簡単に力が抜けて、柔らかな弧を描く。脈に添えられた体温が上がった。
「直哉」
泣き腫れた喉から、丁寧に紡がれた音が響いた。また頬が濡れるのを少なからず気にしながら、それでも決して視線を外そうとしなかった。
「直哉」
「うん」
「生きてほしい」
「うん——」
その返事を聞くと、彼は耐える術を失ったように涙に沈んだ。
雪本は彼の正確な発音に、心臓を掴まれたままでいた。
直哉。
その名前を貰って生きる自分が、本当にひたむきなのか。そう問いかけて、判断するのは、今は榊知理だけでいい。
榊は呼吸を整えようとしながら、何度も何度も体温を上げ、そのたびに噎せていた。
「やっぱ、飲み物買ってくるよ」
「いや——」
「俺もコーヒー飲みたいし。スポーツドリンクがあったけど、お前はそれで平気?」
そう問いかけると、不意に黙って、ついに首を横に振る。
「他のがいい?」
「飲めるかわからないけど——」
「……コーヒーにする?」
「コーヒーでなくてもいい」
そう言って、自分から充血した目を雪本に向ける。
「同じものなら」
「わかった。じゃあ俺が好きなの二つ持ってくる。美味いから普通に期待してて」
雪本が半ば意地になっておどけると、苦笑いしながら手首を放した。
「今更まずいコーヒーなんか飲めないんだろ」
たった一言のうちに目の奥がまた揺らぐ。雪本は正直に笑って頷いた。彼もまた正直に疲れた目のまままた涙をこぼした。
「ちょっと待ってて」
雪本はそう言って、すぐに扉に手をかけた。こっそりと自分の指に爪を食い込ませる。呼吸さえ我慢して涙を飲んだ。今の榊に受け止めさせたくはなかった。
降りる直前、サイドミラー越しに自分を見つめて、より急いで車を降りる。
生まれて初めて見るようなみっともない顔だった。
すぐに踵を返して自動販売機へと向かう。涙を拭えば、後ろ姿でも動作で察されてしまう気がして、わざと軽快に小走りまでした。
榊はここからずっとずっと、深く長く苦しんでいく。どれだけ傷ついたところで、無数の不安におびえながら、いつか来るかもしれない——今はない幸福の為に、ただでさえ鋭い五感をまた育てていくのだ。
死を迎えるその瞬間の、恐怖も痛みも、その分重くなるのだろう。
その重さは、きっと命そのものの重さだ。
榊との約束を、雪本が正しく果たせば、きっと雪本よりも榊が先に死ぬだろう。その死は雪本にとって想像するだけでも重い。つぶれそうなほど重いのに、本人にとってそうでなければ、全ての意味が消えてしまう。
それがどうしても許せない。
川上や真菜の死と比べれば、重くないのかもしれない。榊にとっての雪本の死には全く及ばないかもしれない。
それでも榊知理の死を、限りなく重くしたかった。重さを共に感じたかった。そうでなくては雪本直哉の死まで、つられて軽くなると思った。
雪本はもう、一度ならず何かを失い、一度ならず逃げている。まだ逃げることもあるだろう。そのくせ結局のところ、一度だって己の気持ちを上手に切り落とすことはできなかった。真菜と川上は一年と半年前から片時だっていなくなってくれなかった。どれだけ足が速くとも、傷は積み重なっていく。
だからこそ、拘り抜きたい。食らいついてもがき抜いて、もっともっとと望み抜きたい。逃げて逃げて生き続けた、自分への愛のあかしとして、その終わりを肥やすべきだと思う。その途中には、確かに生きて幸福を目指す彼の姿を見ていたかった。
雪本が勝手にそう願っただけだ。たまたまそれを彼も望んでくれただけだ。だからこそ今、このわずかな時間だけでも、彼に全てを独占していてほしい。安らいでいてほしい。ただゆっくりと、彼がその静けさに孤独を感じ始めるまで。
自動販売機の前までくると、目当てのコーヒーは、以前見かけた缶ではなくて、少し容量の多いペットボトルの物だった。
彼には多すぎるかもしれない。飲みきれなかったときの為に、一本だけスポーツドリンクも買っていくことにした。好きな方を好きなだけ飲んでもらえればそれでいい。
無理やり三本飲み物を抱え上げ、お釣りの小銭を回収する。
「——」
振り向けなくなった。
冷たい飲み物を抱える手が、必要以上にかじかみ始める。感覚が遠くなる。
車はそこに無いかもしれない。
ただ移動するだけならまだいい。しかし今は、どこに行ったか分からなくなっていてもおかしくない気がした。車はあっても、中はもぬけの殻かもしれない。しばらく待っても、誰も駆けつけてこないかもしれない。
川上は来なかった。真菜も決して訪れなかった。雪本自身でさえ決してあの家に戻ってはいかなかった。
「雪ちゃん」
真菜の声が聞こえる。
いつも通りのその声に、雪本は初めて返事をした。
「平気。もう大丈夫」
すると真菜は、満足そうにくすくす笑った。軽快な足音が、あっさりと遠ざかっていく。
振り返ると、そこにはきちんと車があった。目を凝らせば、車の中に、榊の姿を見ることもできた。
空いている方の腕を大きく振る。込みあがってしまった笑みを少しでも誤魔化したかった。
そのまま緩い坂道を上る。入学式が始まって二十分ほど経っていた。
これで『蜥蜴の殺し方』は完結となります。
ここまで読んでいただけてありがとうございます。
雪本くんの今後は、この先お目にかけたいと思っておりますので、ぜひお待ちいただけたら幸いです。




