第九十五話 十八歳の四月一日 ④
「今日はもう、二人には会わない。これから二人に会いに行ったとして、そこで何かあったら、何するか自分でもわからないし。——榊についてきてもらえたら、多分、死にはしないんだろうけど。……死にたいなって思いながら、『約束の為』に『仕方なく』生きてくのは、絶対に嫌なんだ」
二人と会う日が遠ざかる。
川上が買った四つのグラスはまだあるだろうか。
置き去りにしたひまわりはあれから何日もったのか。
真菜に貰ったターコイズブルーのネックレスは見つけてもらえているだろうか。川上が押し込めていた猫のペアマグは、三人で使っていた急ごしらえの揃いのカップは。
「二人に会うなら、二人にどんなに嫌われても、もう一緒に暮らせなくても、それでもまだまだ生きていたいって——そのくらい幸せになってからにする。二人のことは、すごく好きだし、大好きだし、ずっと一番なんだけどさ。変わんないんだけどさ、多分」
真菜と川上と暮らしている時、自分を含め、目に映るものすべてに、どうしようもなく意味があった。ただ二人の思いやりと息遣いを感じられるのが嬉しかった。二人といれば、それ以外のこと全てに向き合う勇気が持てた。
幸せだから向き合えたし、向き合えたから幸せだった。
今の二人は、中身も見た目も別人のように変わっているかもしれない。雪本も二人に愛してもらえた頃の自分ではないかもしれない。
それでも二人からもらった言葉は消えていない。あの時間は消えていない。時間は元に戻せなくても、過去にあった出来事が消えていくこともない。
現に雪本は、相も変わらず二人の事を愛している。
「二人なしでも生きていかなきゃいけないなら、二人なしでも幸せでいたい。二人のせいにも、榊のせいにもしたくない。俺は俺の為だけに生きる。俺のわがままの為に、俺の責任で生きる。約束だって俺が守りたいと思ったから守るんだ。もし、幸せになれなくて、ただただ辛くて苦しくても——幸せになりたいって、ずっと思いながら生きたい」
そこで榊の目を見た。
「だから、頼みがある」
榊は視線を意図的に合わされたことに気が付いて、少し驚いて、伏せるのを忘れている。
卑怯かもしれない、と思いながら、それでも負けたくなかったので、目で勝負することにした。
「まず、俺のいろんな面倒、今まで通りお願いしたい。ちゃんと約束は守りたい。だからきっちり見張ってて」
「雪本」
「もうひとつ。榊も幸せになろうとして。どんな形でもいいから、榊の気持ちを大事にしてほしい」
榊はまだ雪本の目を見たまま、そらしもせずに、ただ焦点を結んでいるふりをした。
「どうして?」
「俺がそうしてほしいだけ」
雪本はそれでも構わず彼の目を見続けた。
「今の榊は死んでないだけだ。俺にはそう見える。キリがないから、要らないからって、思ってること全部捨てて、最初から無かったことにしてる。約束しかない」
「約束自体がこっちの都合だ」
榊は感情の読めない声で返した。
「約束を守ってほしいのもこっちだし。守ってくれたらそれでいい。それを無理してるとか雪本が思うなら、単に感覚の違いなんだろ」
「無理をしてるとは思わない。だけど榊が、他に何も要らないって言うのは、本当に要らないからじゃない」
聡い榊はそこで目を伏せる。榊の視線を三十度下に傾ける薄い瞼を、破らないように、雪本はゆっくりと言葉を続けた。
「ただ苦しいから。気持ちごと捨ててるだけだ——」
雪本の声の震えを、榊の瞼が受け取って、さらに頑なに俯く。雪本はそれをゆり戻すように、よりはっきりと声を出すよう腹に力を入れた。
体の内側すべてが熱い。
「…………俺が嫌なんだ。約束は守るけど、大事なのは約束じゃない」
「雪本」
「榊が榊を大事にしないなら、俺だって榊との約束なんか守らない。守るけど、何だよそれって、ずっと思うよ。俺はそんなの絶対嫌だ。……自分じゃ無理なら、大事にさせてよ、俺じゃなくても誰でもいいから」
それが榊にとって、根本的に、或いは総合的に良いことと言えるかはわからない。もし、川上の言っていたことが正しいとするなら、どれだけ考え抜いたところで、「良いこと」なんて見つからないだろう。人間はどうせ、偏った目で勝負をする事しかできないのだ。
「榊は、どうしたい?」
雪本がそう尋ねると、大した間も置かずに
「どうもしたくない」
と答える。
「したいことが無いの?……何かをするって事が嫌?」
「……」
「例えばだけど、俺がやりたいって思う事に榊を誘っても良いの?」
「雪本がそうしたいなら」
「榊がしたくないことは何?」
「……」
「嫌いなものとか、辛いこととか」
すると、榊は首を横に振って、やっと声を絞り出した。
「ありすぎて嫌になる」
「……」
「いくらでも思いつく。したいことも、したくないことも、嫌いなものも——そのうち引きずられるんだ。自分で自分に引きずりまわされる」
「だから、考えたくないってこと?」
雪本の問いかけに榊は俯き、俯いたままで、恥じるような声で続けた。
「石崎が嫌いなんだ」
不意を突かれた雪本は、つい言葉が出なくなった。榊はその沈黙に潰されるように、固い、厚みを失った声を辛うじて発し続けた。
「初めからそうなわけじゃない。人としては信頼してる。——いろんな人間から、好き勝手言われていたけど、それは見る側の心づもりの問題で……誰にだってある欠点をあら捜しされてただけだし、本人は外から何を言われたって、気にもしてなかった。——だからこそ、エスカレートしかけてもいたから、泉美さんがいてよかったと思う」
雪本が口を開くと、榊はかき消すように
「私は止めなかった」
と言って、光の揺れる眼で雪本を見据えた。
「誰かが何か言っていても、止めもしないでただその場に居座って、自分が言いたがってる言葉を、誰かが代わりに言うのを、待った」
その言葉の後に、雪本の声が続くことはなかった。沈黙のたびに榊が押しつぶされそうになっていくのを見て取りながら、それでも雪本は、すぐに声を出せなかった。
石崎の事は雪本にとって昔の話だ。榊にとっても勿論、過去の出来事でしかない。過去の生傷の痛みを二年たっても忘れられず、そして今また繰り返す。
どう言えばいいのか——目の前の榊の、その視線の動きにつられて溢れそうになる感情を、果たして、何と呼ぶべきなのか。




