第九十四話 十八歳の四月一日 ③
「気にしないでいい」
「榊」
視線を上げると、深い、深い色をした眼差しが、雪本を迎えた。
雪本はその時、不意に答えに行きついて言葉を失う。
榊の気持ちを、本人を目の前にして口に出してしまった、その理由が、その答えが、突然手元に落ちてきた。
少なからず、その心中の衝撃を表情に出した雪本に対し、榊はかけらも動揺を見せなかった。ただ静かに雪本の肩にふれ、一定のリズムでさする。退院したばかりの雪本が玄関でうずくまった時と全く同じように。
「気にしないでいい。自分でも気にしてない。仮に雪本がどういう風にふるまっていても、何を言っても、自分でどれだけ何をしていても。勝手に何か見つけて、ぐるぐるぐるぐる追いかけて、追いかけられて、考えが止まらない。止め方がわからなくなった」
高校二年生の八月、花火大会の日の川辺で、榊は言った。
『元々考え込みやすいのを、適当に流して切り上げてやってきたのが、急に上手くいかなくなった』
『好きな人ができてから?』
そう尋ねると、榊は否定も肯定もしなかった。
普段、きっかけや原因を他所に求めようとしない彼が、そこだけ否定をしなかったのだ。
「わかっても、きっと止められない。心のどこかでずっと疑う。そうして勝手にストレスを作る。——自分で作るんだ。何もないところから」
「榊」
「何を食べたいかって、聞いてくれただろ」
「『聞いてくれた』って……だって、俺が作りたかったし。俺が聞きたかっただけだよ」
「でも答えられなかった。申し訳ない。今更だけど」
「おかしいよ、お前」
雪本は震える声を奮い立たせた。
「俺が勝手にしたくてしてることばっかりなのに、お前が謝んなきゃいけないって、そんなの——」
「どう答えるのが最善かわからなかった」
榊は笑顔も崩さず言った。
「作るのも食べるのも結局は雪本だから、気の進まないものを頼むのも申し訳ない。だからって雪本の食べたいようにと答えても、余計に気を遣わせるかもしれない。そもそもあまり食欲がないと言ってるんだし。……ひょっとしたら、断ったほうが雪本としては楽で、礼儀というか体裁で聞いているだけかもしれない。美味しいのも本当だし嬉しい。だからこそリスクがあったら、」
榊は雪本の顔を見て、笑みを少し小さくして、俯きがちに、悪い、とまた謝った。
雪本は呆然としながら、頭の片隅で、自分の頬のあたりの涙の感触を追っていた。
肩から榊の掌が離れる。
「——本当に、キリがないしくだらない。自分でそう思う。まともに向き合うだけ無駄なんだ。どうしようもないんだから、どうもしなければいい。雪本にしても、自分にしても、やるべきことはいくらでもある」
雪本、と、呼びかけられる。
「約束を守ってほしい。もう、それだけでいい。それだけ守ってくれればいい。そのためにできることは、なんでもする」
「でも、……でも、だからこそ、いつまでやるの、そんなこと」
「さっきからいつまでってやけに聞くけど……どうしてそんなことを聞くんだ?」
榊は重心の定まらない声音で、ためらいがちに尋ねる。
「だって俺は、当たり前だけど、いつかは死ぬよ」
「──雪本だってそうじゃないのか?」
「何が?」
「例えば西口さんや川上さんや——世界中で一番大切な人間が死んだら、それがいつでも苦しいんじゃないのか。どんな理由でも納得できないんじゃないのか。そこから先一秒だって、生きていてやる義理が無い……」
雪本は押し黙った。
榊がその沈黙に殴られたように、苦しそうに笑ったのを見て、とらえたままの彼の手にじっくり爪を立てる。それでも反応しない。気づいているのかさえわからなかった。
榊自身も自身の体に爪を押し当てていた。単に癖なんだと言っていた。
自分に傷をつけるのが癖になっていた人間。
痛みにやけに鈍い人間。
「聞いていい、榊」
「うん」
「もし、俺が、ここまで言われてまだ約束を破ったら、その時お前はどうするの。俺が破りたくなくたって、事故とか病気とか」
「お前の言う『事故』は信用してない。病気でも同じことだ」
榊は即座に、そう言った。
「死ぬ理由は大した問題じゃない。雪本が死んでいたら、お二人に責任があるとみなすし、責任をとっていただく」
「二人の話なんかしてない。俺が死んだら、お前はその後、どうするの」
「さっき話しただろ」
その返事を聞いて、雪本は、考えるより先に手を出していた。
榊は思い切り頬を叩かれても、抵抗どころか怒りの色一つさえ見せず、ただ少しだけ瞬きの回数を増やした。
「馬鹿」
雪本はもう一発の代わりにするように叫んだ。
「先に言えよ、そこから話せよ」
「——」
「なんで榊の話をしないんだよ」
もしかすると、ずっとずっと昔から、榊の考え方は変わっていないのかもしれない。休む間もなく外の情報と戦いながら、内心を切り落としてやりすごす。
"尻尾切り戦法"なんて、前に泉美は名付けたが、本物の蜥蜴の自切は、本来なら最後の最後の手段だという。体力の消耗は激しく、後から生えてくる尾は神経もないただの軟骨で、切り落とせるのは一度だけで、次はない。蜥蜴はそうして死んでいく。
それでも榊は、一度どころか、数えきれないほど尾を切り落としつづけている。痛みも無視して、まるでただの軟骨になるのを待つように、ずっと切り落とし続けている。
そうやって死ぬまでやり過ごすつもりかもしれない。
いつか彼の身体が終わる時、とっくの昔に神経が絶え、自分の価値を見失ってしまっていたとしたら、彼自身にとって、その終わりがどれだけの意味を持てるだろう。
それは死とすら呼べないはずだ。
雪本は、榊の死を思い描こうとした。その度に身体が震え、熱を作る。受け付けなかった。受け付けてたまるかと思った。
最近の榊の体には傷跡ひとつない。
その一方で恵まれた体格はやつれ、身長ばかりが肉を置き去りにして発達する。
自分の腕を掴む癖があった榊は、今はどこにも掴まらず、どこにも何も表さず、どこにも居なくなろうとしている。
「わかった。もう、俺は死なない」
雪本が叩きつけるようにそう言うと、ただこちらを見つめていた榊の目に、わずかな揺らぎが生じる。
骨と筋の陰影が強張り、少し伸びた髪の一本一本は息をひそめる様に静止して、切れ長の三白眼の眦は固い。
今の榊は、それでも確かに生きている。
「死なない。絶対に死なないから」
真菜と川上に何かあったらきっと耐えられないだろう。その事実は確かに大きい。それでも全てではなかった。榊がもし、彼らの存在だけで雪本を語りつくせると思っているなら許せなかった。




