第九十三話 十八歳の四月一日 ②
高校二年生の九月二日から、大学一年生の四月一日までの一年半。榊は雪本の体調を来る日も来る日も診続けていながら、それでもいつか雪本が命を投げ出そうとするのを、予期していた。
「ごめん」
やっとのことで声を振り絞る。
「本当に、何も返せなくて」
「雪本はやるべきことをやってるよ。頼んだことは、きちんと実行してきてくれた」
榊はゆっくりと言葉に力を込める。
「今まで、自分から進んで指示を守ってくれてありがとう。おかげで色々スムーズだったし、本当に有意義に時間を使わせてもらってる。それが結果的に雪本の助けになったなら、良かったと思う」
でも、と、やけに具体的な口調で続けた。
「——全部が全部、自分の為にしてることでしかないと思ってる。自分の勝手な都合があって、雪本にはその協力をしてもらっているだけなんだ」
「……それは、だって、俺がお前になんでもするって言ったから」
「そう。だからその言葉に甘えて自分の要求を通して来た。雪本のためにしていることなんて一つもない。仮に雪本が死ぬほど苦しい思いをしようが、今までと同じことを同じように続けてもらうしかないし、どれだけ嫌になろうが約束は約束として守り続けてほしい。朝と夜の二回ずつ、連絡が付く状態にしておいてほしい。健康に関する指示には必ず従ってほしい。もちろん、こまごまとした調整はいくらでもするけど」
「榊、」
「雪本の行方が分からなくなったり、連絡が取れなくなったり、万が一のことがあったら、約束を破ったことになるはずだ」
榊はゆっくりとまばたきしながら、知らないはずの名前を口にした。
「西口真菜さんと、川上良さんの事だけど」
「——」
「それぞれの自宅と職場と実家の住所を知ってる」
「東井に聞いたの?」
「東井に話したのか?」
「名前だけは……」
その雪本の答えに、榊はすぐ噴き出した。
「——また面倒な相手に……」
と笑いながら、首を横に振る。
榊は不意に、預けていた雪本の過去の端末を取り出すと、迷いなく「0506」と入力した。
ロックが解除される。榊はそこで、本当に申し訳なさそうに笑った。
五月六日は石崎と雪本が交際を開始した記念日だ。
雪本が榊に預けた、真菜と川上の連絡先やトークが入った端末の、暗証番号でもあった。
一年生の頃、石崎と交際をはじめた時に、無邪気に暗証番号を変えて、交際しなくなってからも変えるタイミングを失い、ただそのままにしていたのだ。
もちろん雪本は、その番号を教えてなどいない。
榊が自分で推測し、正解に行きついてしまったのだろう。
「——実家は当然としても、自宅と職場がなかなか遠い。一度道を覚えても、引っ越しや転職の可能性も考えると定期的に確認したほうが良い。それで車が必要になった」
そんな時間いつとったの。と聞こうとして、止めた。答えて貰えない可能性の方が高い。それに時間を作る方法はいくらでもあっただろう。
高校三年生なんて、大学受験の準備を完全に切ってしまったとしたら、いくらでも自由に動けてしまう。
榊は運転席から外に出て、そのまま後部座席に回りんだ。雪本の隣に座って、かすかに背筋を伸ばす。
「仮に今から雪本がお二人に会いに行くとしても止めないし、手伝えることがあったら手伝う」
「……例えばそのまま、二人とまた暮らしても?」
「そういうつもりで言った。あの人たちは信頼できるし」
「じゃあ逆に、いつまでも二人に会わなかったら?」
「会わなければいい」
「それで——いつまでも、なにもできなかったら」
「なにもできない人間の立場はよくわかってる。生きている以上、雪本のことは雪本が決めるしかない」
榊はそう言うと、まっすぐに雪本の目を見据えた。ぴたりと焦点を合わせた目が、整った光をただ示し、その後に震え一つない声が続く。
「だからまず、『死なない』ことを示してほしい。約束を正確に守るなら、死ぬことはできないはずだ」
「——榊」
「他のものは何もいらない。意味が無いしどうでもいい。約束を守ってほしい、それを確かめさせてほしい、どれだけ雪本にとって負担だったとしても守ってもらうしかないんだ。だから雪本も自分の事だけ考えていていい。自分の為になることだけ考えて、自分で自分の心を守っておいてもらうしかないから……」
雪本は、力加減すら定めていない指先でむやみに榊の手を求めた。榊がどう思ったかはわからない。ただ雪本の指にのしかかられたまま、ピクリとも反応せず、雪本の流す涙だけに焦点を合わせて言葉をつづけた。
「それでも投げ出してしまうほど、すり減る時もあると思う。それはわかってるつもりだし、こちらとしても少しでも楽にやっていけるように、考えてはいくけど、それでもどうしてもだめになって、命ごと投げ打ちたくなる瞬間はあるはずなんだ。さっきがそうだった様に……」
低く一定だった声が、そこで僅かに揺れて途切れた。一度そこで俯いて、しかしすぐに目を合わせる。声の揺れはその一瞬で殺された。
「だからその時は、西口さんや川上さんの事を思い出したらいいと思う。二人のためによく考え直して欲しい。雪本が約束を破りそうだと判断したら、私はまずお二人に会いにいく」
本心から話しているということ以外、情報が無い声でそう言って、榊はただ真っ直ぐに目を合わせ続けた。
「……お前は……」
雪本が声を振り絞ると、息が足りずにむせた。もう一度大きく吸い込んでも、浅く胸につっかえるばかりで声にならない。
「お前は、——こんなこと、いつまで」
「……いつまで?」
「——俺がそうしろって言ったら、東井の誘い断って、ここにいるの?」
「いいよ」
榊はあっさりと頷いた。
「……来年、行きたい大学に受かったとして、俺の体調が崩れたら、大学も辞める?」
「場合によるけど、必要ならそうする」
「でも」
「雪本、本当に、雪本が気にすべきことじゃない。雪本が気に病むようなら、できるだけそういう選択はとらないように気を付ける。——ただ、雪本は、そもそもあの日、死のうとしていたんだから……命の助けなんて要らなかったはずだ。助けたことも、今も、何もかも、本当にこっちの勝手で」
「違う」
つい指先に力がこもった。それでも榊は反応を示さない。体温はずっと昔に下がったきり、上がってこなかった。
「……俺があの時……」
あんなことをしなければ、と続けようとして、かなわない。
家を出てこなければよかったのか。あの時、お客さんのようになった自分を心のどこかで客観した時、咄嗟に「死んでしまう」と思った。だからこそ必死に逃げた。
けれど「死んでしまう」と思った時には、とどめが刺されていたのだろう。それこそ首にでも、もうどうしようもない深さで、抉り傷がついていた。それに気がつけたのは逃げ切ってしまった後だった。
尻尾を切って逃げたところで、首の傷は今でもなお消えていないし、尻尾を落とした痛みも消えない。
自切にすら失敗していた。




