第九十二話 十八歳の四月一日 ①
「着いた」
榊が告げた。周囲を見渡すと、車の周りの景色はいつの間にか静止していた。
時計は入学式の開始五分前を指し示しているのに、新入生と思しきスーツ姿の人間が何人も校門のあたりで屯している。
「遅れてる人、結構いるんだ」
「まあ、大学の入学式は、出ない人間も多いらしいし」
「人が引けてから入ってもいいかな」
「全く問題ないと思う。ただ沙苗さんには一言かけたほうが」
「うん。……自販機あったよね、その辺。俺コーヒー飲みたい。榊は、カフェイン系はやめとく?」
「できればそのほうが良い」
「わかった」
雪本の言葉に、榊はすぐ車の扉を開いて答えた。すぐ後ろの道の角に自動販売機がある。通り過ぎざま、以前高野が買ってきてくれたかなり味のいい缶コーヒーがあるのを見つけていたのだ。榊が好むスポーツドリンクも入っているので、彼にはそれを買っていくつもりだった。
すぐわきの道を、スーツを着た同年代の女子学生が、露骨すぎる視線をよこしながら歩いていく。フェンスを挟んだすぐ向こう側は部活棟になっていて、その三階からダンス部と思しき学生が、男女こもごもに数名が窓辺に寄って指をさしていた。
一応、その場で道にいる人間を確認したが、角度から考えてどう見ても雪本を指していた。
忘れ物をした振りをして、車の中に戻る。榊がすぐにハンドルを握った。
「少し移動する」
「見てた?」
問いかけると、榊が淡々と頷いて車を出す。雪本は苦笑いを浮かべようとして、口角が持ち上がらないことに気が付いた。
「年齢も上がるし、人数も多いし、高校より落ち着くもんだと思ったんだけど……」
疲れていた。
榊がすぐに学校の外壁を周り込んで、人気の少ない、しかし門には徒歩で行ける距離に車を停める。雪本はまた時計を見た。
「二分前か」
「雪本」
榊が体をひねって、後部座席の雪本に体を向けた。数十分ぶりに直接視線が交わる。
「うん?」
「入学式、無理に行かなくていいと思う」
「……」
「勿論、出席さえしてしまえば案外楽かもしれないけど。行かなきゃならないってことはない」
「ありがとう。でも、行く。やっぱり、沙苗さんがせっかく来てくれてるし」
「わかった」
榊は頷くと、またバックミラーに向き直った。雪本はすぐ側にある大学から漏れ聞こえる喧騒に眉を顰める。
大学が悪いのではない。騒々しさが必ずしも厭わしい訳では無い。引きずられ、ブレて、腹立たしいのは自分自身だった。しかしブレを正してまとまろうにも道標がない。髪色を変えたことで、今の容貌は雪本本人にとってすらまだ赤の他人のようだった。いっそ川上のようにでも振舞えばいいのだろうか。
「東井の件、断ろうか」
榊の声に視線を向けると、バックミラー越しに目と目がかち合う。三白眼を、さらに持ち上げるように見据える癖が、バックミラーの高さもあってより角度がついてしまっているはずなのに、その目には奇妙なほど鋭さが無かった。
「それで入学式の後、いつでも帰れるようにこのあたりで待機しておく」
「いや」
雪本はすぐに首を横に振りながら、なかなか出てこない言葉を引っ張り出した。
「——そんな、悪いし。東井も可哀想だし。——明日から、どうせ、毎日ここにくるんだし。いつまでもそんな風にできるわけじゃないもん」
「いや。明日以降も車は出せる」
「え?」
「一年目だし、人間関係も環境も変わって、ただでさえ負担が大きいだろ。減らせるストレスは減らしておいたほうが良い。こっちはちょうど一年時間があるから。——新島さんにもお願いできるかもしれないし」
「新島さん?」
「新島さんはこの車を使うことを承知してくださってる。運転の練習も付き合ってもらった」
「ありがたい、けど……」
早く、扉を開けて、誰に見られていようがいまいが、入学式に行くべきだ。
榊に時間があろうが、車を借りられようが、そういう問題ではない。
今も、今までも、榊に散々世話をかけた。新島まで間接的にとはいえ力を貸してくれているらしい。大学の学費だって決して雪本が自分で稼いだわけではなく、沙苗や佐原の力で出してもらっているものだ。
進学も強制されたわけではない。自分でわざわざ足を運んで、時間をかけて勉強をしてきたはずだ。
確かな価値を見出して、目指してきた大学はこの壁の向こう側にある。雪本は正真正銘その大学の一員だ。
それでも今は、入学式の開始時刻に間に合わせるつもりもなく佇んでいる。
似合う髪色と似合うスーツをさらに自分の好みで身に着け、何の不自由もない。生きているだけの雪本には重たかった。
真菜と川上と会えなくなって一年半、その間に重ねてきた自由な選択の結果が、着実に実を結んで重たい。実ったことはうれしく思う。
けれど一つ口に入れたら、きっと歯がきしむだろう。育てるのが大変だったとそればかり噛みしめて、こんなに応援してもらったとそれだけを飲み込むだろう。
遠くで真菜や川上の声を聴けばうずくまって隠れている。二人と食べればきっとおいしいと知りながら、二人の声が過ぎ去るのを待つ。
ぼんやり成果を見上げて「こんなに実ってどうしよう」と——始終、疲れ通している。
眠っても何もならないと知っているのに、眠らなければと薬まで飲む。質の良い眠りも、雪本を包んだ瞬間にその価値を腐らせて、夢の中では必ず真菜や川上と会って、夢から覚めれば結局のところ、悲しくなるのだ。
「榊」
「うん?」
榊が首を軽くかしげる。川上によく似た仕草だった。
雪本にすっかりと染みついた仕草がいつの間にか榊の方までうつっていた事に、その時、初めて気が付いた。
雪本のしぐさや口癖や習慣のうち、何か一つでも、真菜や川上にうつって、残ったものがあるだろうか?
「——帰りたい」
「どこに?」
榊がすぐに問いかける。雪本はしばらく答えずに、ただ榊のその言葉をかみしめて、賢いなと思っていた。続けて、賢い以上に優しい子だ、と、何度思ったかわからないような当たり前の事を思う。
東井がいてよかった。
榊が一人でなくてよかった。
「わからない。でも、帰りたい。まだ決めてないけど……気分で、適当にふらふらっとどっか行くから、一旦、人の少ない駅まで行ってほしい」
「電車か」
「うん。それで、その後榊は東井と合流して」
榊は鋭く黙って、バックミラー越しに雪本の目を捕らえようとした。雪本は俯く。
「それでそのまま、その後、俺と連絡取れなくなっても、ほっといていい」
「どうして?」
榊が静かな声で尋ねる。雪本も務めて、冷静に続けた。
「二人に会いたい。——でも、会いたくないって思ってる」
「同棲していた人たちに?」
「今の俺が何かをするなら、絶対に助けがいる」
雪本は歯を食いしばるような勢いで言った。
「今も、助けてもらってる。皆のおかげで、きっと大体の事は実現できるし、手に入ると思う」
「言うまでもないことだけど」
榊が静かに遮る。
「それは、雪本自身が、助けられている以上の努力をしているからだってことを、忘れないでほしい」
ありがとう、と小さく返す。榊はそれ以上何も言わず、雪本の言葉を待っていた。
「多分、二人に会って、また一緒に暮らそうって言ってもらえたら……、俺は、今の俺のこと大好きになれると思う。いろんな人に助けてもらったことも、全部ひっくるめて胸を張れるんだ。だけど二人から嫌われてたり、迷惑そうにされたら……俺……」
声がうまく出せなくなった。
一年と半年前、雪本は真菜に言った。
絶対に離れてやらない。死んでもしがみついてやる。
その気持ちは確かだった。真菜と川上と過ごす時間が、一番幸せだった。
それでも、雪本は逃げ、真菜も川上も追わなかった。
会うまでもない、それが答えじゃないのかと、何度も何度もよぎるのだ。
荒れる呼吸の隙間を縫うように振り絞る。
「多分、無理だと思う。もともと、榊に助けてもらわなかったら、とっくの昔に死んでた。無理なものは無理だ、どう頑張っても。……でも、それならそれでいいと思う。二人で全部が決まるなら、人の力を借りる前に、自分で二人に会いに行って、結論を貰うところから始めなきゃいけないんだ。それで……何か、嫌な思いして、死ぬほど苦しかった時は、今度こそひとりで勝手に死ねば良い」
視線を上げると、榊がバックミラー越しにじっと雪本の方を見ていた。
雪本は努めてその視線を揺らさないように合わせ、声の震えを抑えた。
「だから榊は、途中まで来てくれたらそれでいい。そこから先、何の責任も負わなくていい。——そこから先は何が起こっても、お前のせいじゃない」
雪本がそう言い終えてからも、榊はしばらく雪本の方に視線をやって、言葉がその後に続かないかを確認していた。
数秒待って、榊は言った。
「いつかはそう言うだろうと思った」
穏やかな声に嘘をついている気配は感じられない。本当にそんな覚悟を決めながら、一年半を過ごしてきていたようだった。




