第九十一話 入学式三日前 ⑤ 扉ひとつ
いつの間にか眠っていて、榊の鳴らしたインターホンで目を覚ました。
「やっほ」
藪から棒に扉を開ける。榊の反応も見ずにまくしたてた。
「見て見て、髪染めた」
「見ればわかる」
「東井がめっちゃびっくりしてた」
「かなり変わったし——」
「派手すぎ? 悪ノリだったかも」
「いい色だと思うけど」
榊が、何の衒いもない声でそう言った。瞬きもせずに、じっと、髪と顔とを照らし合わせるように眺める。
「そうかな、よかった」
雪本がそう返事して、初めて榊は、やや慌てたように目を伏せた。
その後、食事をとる時も、気づくと榊はしばしば雪本の髪を見ていた。軽く首を動かして、光の角度と髪の彩度の関係を調べるように、無心になって眺めている。
雪本は、榊の『観察』の熱が落ち着いてきたころを見計らい、会話を投げた。
すると今度は、会話に応じながら、髪を見たり、雪本の表情を追ったりする。視線の動きは、先ほどまでと比べればうんと小さい。
短く、必要事項ばかりの会話を終えて、互いに食事を完食し、食器を片付け始めるころには、榊の視線は伏せがちになり、より一層、その動きは密やかになる。
たまたま視線がかち合ったとき、瞳は見慣れた色を灯していた。
榊自身の態度もまた、いつもの通り淡々としていて、片付けのついでに雪本の体調や状況を聞くだけ聞いては、そのうち食後の眠気に従い、行儀よく眠りにつく。
初めは奇妙に弾みがついていた雪本の声音も、徐々に徐々に、自然と気が抜けてしまった。未だに慣れない、一新された髪の光を、一通り知り尽くしたような気分だった。
そうして眠りにつこうとして、ふと思う。
東井に話して良かった。真菜だけでなく、川上に恋をしていたと、はっきり口に出してよかった。目の前の人間の、恋の形を、痛みそのものを受け取れる、そんな友人を持ててよかった。
榊がいつか、東井にすべて話しても、東井はきっと榊の痛みを理解できるし、寄り添うことができるだろう。その時東井はきっと、榊を傷つけた雪本の事を、許してくれなくなるだろう。東井がそんな友人で、本当に良かった。榊が一人きりでなくて、本当に良かった。それを確かめる恐怖を、榊の分まで肩代わりすることができて、本当に良かった。
けれど東井は、今日聞いた話を誰にも伝えないだろう。雪本も榊にその話をするつもりはなかった。川上を愛していたこと、それを東井に伝えたこと、東井がそれをただ一つの愛情として尊重し、痛みを共有してくれたこと。そんなことを榊に伝える勇気はない。
そして榊が自分から東井に話すのにはもっと、ずっと、勇気を必要とするだろう。榊がそこまで思いつめる日なんて、来て欲しくはない。
ここから先に繋がるものは何も無い。足踏みするのがやっとだった。
気がつくと目が冴えてきていた。扉をへだてた廊下の向こうでは、来客用の布団の中、榊が物音ひとつ立てずに眠っている。
雪本もできるだけ音を立てずに起き上がった。棚を探って睡眠薬を取り出し、ベッドサイドに置いてあるミネラルウォーターで流し込む。
不意に、部屋の電気がついた。
「ごめん、起こした?」
「なんで薬を持ってる?」
榊はそれまで熟睡していたのが嘘のように、淀みない声で尋ねた。
「——前、寝つきが悪かった時にちょっともらったじゃん。それを結局使わずに済んでたから……」
雪本の話を聞く前からおよその検討をつけているように、榊は棚を探って残りの薬をとっていった。
「飲まなかった分は返せって言ったろ」
「ごめん、でも、あったほうが便利だと思って」
「そもそも飲む飲まないの判断は毎回こちらが決めているから……」
「ごめん」
雪本は咄嗟に榊の手を掴んだ。
「ごめん、榊、確かにそうだ」
榊は振り払うでもなく、ただ逆の手に薬を持ち換えて自分のパーカーのポケットに入れる。
「今、急に眠れなくなって」
「吐いてどうにかなる類じゃないし、飲んだからっていきなり調子を崩すわけでもない」
「うん」
雪本が手を離しても、榊は反応を示さない。
「薬を渡した時は、飲んだ後の空の容器を朝に回収することにする。飲まないなら飲まないで、薬ごと返してくれればいい。これからはそれで判断するから」
それだけ言うと、榊はまた廊下に出て、扉を閉めた。
これからはそれで判断するから。
榊のこれからは、このどうしようもない時間がいかに早く終わるのかにかかっているのではないか。雪本が完全に元気に回復するのは難しくても、これを終わらせてしまう方法ならばいくらでもある。
不毛な考えが回るだけ回った後、ほどなく眠気に押し流された。その日も、真菜と川上の夢を見た。
相も変わらず、真菜も川上も、大それたことを言うわけではない。ただ日常の中で流れる時間にちりばめられた、日記に書けない程度の些細ななにかが、気まぐれのように姿を見せた。夢の中だけでなくて、起床している時間の中にもその息遣いを感じるのだ。気が付けば手に触れていて、掴めばそのまますり抜ける。あまりに些細な記憶過ぎて、整理することも、処分することもできない。
それでもずっと、いつまで経っても愛おしかった。




