第九十話 入学式三日前 ④ バターブロンド
安堵がしみて、もう少し甘えたくなった。
「東井、俺、前に怪我したじゃん」
「首?」
東井はすぐに反応し、焦点を雪本の首に合わせる。
「うん。首。事故で間違って切っちゃったって言ったけど、本当は違った。記憶が混乱してただけで、嘘ついてたわけじゃないんだけど……本当はね、自分で切ってた。死ぬ気で切ってた」
「……」
「ごめん。知ってて欲しくて」
東井はさすがに言葉を飲んだが、一瞬後には静かに頷いた。そして逡巡も見せず尋ねた。
「付き合ってた人の事が、あったから?」
雪本が高校二年の夏に、いっとき三人暮らしをしていたことも、そして夏休みの終わりごろ一人になっていたことも、ちょうどその頃首を怪我したことも、東井の頭の中のすぐ引き出せる場所にしまってあるらしかった。
「そう。その人のせいとは思ってないし、今は全然、死のうとは思ってないんだけどさ」
「あれから、顔を合わせる機会とか、あった?」
「ううん。会えてない。もう会えないかも知れないし」
「俺にできることがあればするけど、でも」
東井は慎重に首を傾げた。
「でも、会いづらい事情があるなら、無理に会おうとしなくていいと思う」
「うん。ありがと」
「うん……」
俺に言われるまでもなくって感じだろうけど……と、申し訳なさそうに続ける。そんな東井を、じっと見ているうちに、東井も雪本の視線に気がつき、不思議そうに尋ねてきた。
「何?」
「いや……今ね、急に、話したいなって思ったことがあったんだけど、でも東井がどう思うかわからなくて」
「……もう、そう聞いちゃったら気になるからさ」
東井は心底困ったような目で、まっすぐ雪本を見返した。ごめんね、と言った自分の声に心底冷たいものを感じて、残るカフェラテに口をつける。まだ辛うじて生ぬるい。
「今まで、一度も人に話したことが無いことなんだ。本当に、他に話す予定もなくて」
「榊にも?」
「そのうち話すかもしれないけど、今は考えてない。これから話すこと全部、東井しか知らない」
東井はすぐには返事をしなかったが、少しの間考えて、頷く時には、しっかりと目を見て笑ってみせた。
雪本は、それを確認してから切り出した。
「その、二年の時、俺が付き合ってた人……西口真菜さんって名前なの」
「いいの、そんなの教えてくれて」
「うん。だって、その方が話しやすいし。別に、忘れてくれてもいいんだけどね」
東井は、ああ、と、妙に納得したような顔をする。
「……じゃあさ、雪本と別に、またもう一人いたんだろ。そのもう一人の彼氏さんの方の名前は?」
「——川上さん。川上良さん」
「わかった。覚えておく」
東井は、どこか淡々としすぎるような声で言った。嘘のない目の向こう側で、メモを取っているのが見えてくるようだった。
その眼差しに、覚悟が決まって、ほとんどまとまらない言葉をそのまま吐き出す。
「真菜が好きで、川上さんもいい人で、川上さんも真菜が好きで、だから一緒の家に住んでた。勝手に出て来ちゃって、そのまま戻れなくなって……でも、今でもずっと好きなんだよな」
一年半ぶりに呼ぶ名前にくすぐられて笑った。
「真菜も、川上さんも、同じように好き。二人の事が、世界で一番好き」
声がかすかに上ずって、指先が熱く、赤くなる。疑う余地は残っていない。
「恋だと思う」
東井は、ただ吸い込まれるようにじっと雪本の目を見返し続けている。
「……びっくりした?」
「いや。想像はしてなかったけど、驚いてもない。言われて納得したし……」
そこで不意に、東井の言葉が途切れる。
「東井?」
「俺、出来ること探す」
「え?」
「お前に頼まれてなくても、首突っ込む。嫌だと思うことは絶対しない。勝手によそに話したりしない。でも俺は、この件、ちゃんと関わってたい。力になれるようにしておきたい」
そこまで一息に話して、東井は、痛みをこらえる様に呟いた。
「今まで、その、真菜って人の事が好きで、その人と離れ離れになったのが一番きついんだと思ってた。どっちか言うと三角関係で、結局それで揉めたのかなって。……でも、違うんだよな。本当は。そんな話じゃなかったんだ」
痛々しいほど、眦が強ばった。
「俺が思ってたより、ずっと苦しかったんだな」
真っ赤に震える目から、ゆっくり涙が溢れた。東井はすぐに気づいて慌てて拭き取る。そこでやっと目を伏せた。
「ごめん」
「ううん。いきなり重い話したのはこっちだし」
「そんなことない。ありがとう。──あとごめん、なんか腹減ってきたな」
「いいよ、俺もだし。食べよ食べよ」
そう笑いながらメニューを差し出して、雪本はただ自分の指が震えないようにと気をつけた。
東井と解散して、家に帰ると午後の五時ごろだった。榊が検温に来るまでは二時間以上かかる。酷い疲れがこびりついていて、電気もつけずに部屋着を漁りはじめる。
偶然引っ張り出した、中学三年生の頃から着ている長袖のTシャツが、わずかに小さくなっていた。丈も短くなったようなら捨てたほうが良いだろう。姿見を覗き込む。
雪本は愕然とした。
リビングには三月の夕暮れの光が差し込み、いたるところ陰をつけている。そのくせ髪はことごとく茜色を反射して輝く。プラチナブロンドの、まさしく黄金に輝きうる粒子という粒子が、夕日に乗せられ溶けだして、全く別の金色に変わる。
部屋着はすっかり丈が短くなって、腹が見えかかっていた。やはり捨てなければならない。高校二年の夏まではまだまだ着られたもののはずだ。あれから背丈は四センチ伸びた。
鏡に映る青年が、困ったように力なく笑う。川上良に瓜二つだった。




