第八十九話 入学式三日前 ③ カフェラテ
東井の言葉に、雪本はとにかく、また笑う。
「なんでって……そんなのここで話したら、申し訳なくない」
「雪本は知らないの?」
「体調崩したとは聞いたけど」
「それは俺も聞いた。でも……違うかなって思ってる」
「違うって?」
「棄権したわけじゃないんだろ」
東井は、半ばにらむようだけれど、にらむにしては静かな目で、まっすぐに雪本を見た。
「試験がダメになるくらいの体調不良なら、さっさと途中で抜けてくると思う。そうでないなら無理にでも問題だけは解いてくるはずだ。そもそもあいつ、身体がきついとか、怪我がどうとか、そういうの鈍い感じがするし」
痣だらけの姿でも平気でいた榊を思い出しながら、バレないように息を呑み込む。
東井は一体、どこからそう感じたのだろう。どこをどう見て、榊のその性質を見抜いているのだろう。
「……榊、学校に参考書とか過去問持ってきたことが一度も無いんだ」
「それは、家で勉強してるからじゃないの」
「家じゃない」
東井は静かに首を横に振った。
「あいつが誘いを断る時は、『塾に行くから』って言ってた。だったら、塾の指定した参考書とか、一回くらい学校に持ってきたっていいはずなんだ」
「家に置いてたのかもよ、参考書は」
「それも違うよ。塾に行くって『言ってる』時は、学校から、俺が使う駅まで直接来て、そのまま電車でどこかに行ってた……」
流石についていかなかったけど、と、東井はまたエスプレッソに口をつける。
苦みに慣れてきたのか、初めは軽く舐めるのがやっとくらいだったのが嘘のように、落ち着いた仕草で一口二つ口飲み込んで、ゆっくりと眉をひそめた。
「わざとだろ」
「……わざと?」
「榊は、わざと入試に落ちたんだと思う」
東井は、じっと雪本を見据えてそう言い切った。
「……確かに榊は、頭いいけど」
返す言葉が鈍かった。
「でも、あいつの受けた大学って、トップもトップだし」
「うん」
「さっき東井が言ったように、体調が悪かったならさっさと入試を棄権するだろってのもわかる。榊が大学落ちるんだったら誰が受かるんだよって感じるのもわかる。でも、それでもそれ以上に具合悪い時もあると思うし、諦めきれずにずっと試験場に居ちゃうって言うのも無くはないと思う」
「うん、それはそう。それは分かってる。榊に聞いても、やっぱり、体調不良だとしか言わなかった。本当に体調不良なら、それ以上聞いても榊に嫌な思いさせるだけだし」
雪本は何も答えなかった。東井の言っていることが正しいことかどうか、自分がそれを判断すべきかどうか、榊にとっての正解は何かわからない。
榊のことになると、とりわけ、いつも口を噤むようにしていた。うっかり口を開いても、息が詰まって声が出ない。
「──俺さ、今回受験勉強してて、思ったことがあって」
東井の声は明瞭だった。エスプレッソは気づけば空になっている。
「結果は結果でしかないんだよなって。例えば一週間でドリルを一周しようって決めたとして、その目標を達成するじゃん。それで次の模試の結果が良くなったからって、それが、ドリルを計画通り消化できたからなのかどうかは、誰にも分からない。誰にも分からないのに、ドリルを計画通り消化したから結果が出たって思っちゃう。もっと言うと、『一度決めた目標を真面目にこなしたから』結果に繋がるんだって思い込む。『真面目な人間』が報われるんだって……」
「だからもっと真面目にやらなくちゃって?」
「そう。それでいらない目標増やして……」
「要らないってことないんじゃない?そうやってがむしゃらに、目先の目標作るって大事だと思うけど」
「でも、それを絶対だと思ってたら意味が無い。曖昧なことでどんどん不自由になるんだ。俺はそんなのばっかりだった」
「そうかな?」
「うん」
「俺は思ったことないけど」
「『友達がなにか隠してる』からって、『自分が信頼されてないから』とは限らないだろ」
東井は淡々と言った。
「少なくとも、本当のことは、隠してる本人にしか分からない。言ってくれない相手のせいにしても、言ってもらえない俺のせいにしても、なんにもならない。──自分でなにか考えて、自分で選んで実行してると思ってた。でも違った。目標は完遂するべきとか、計画を立てて実行するべきとか、友達には正直な気持ちを言うべきとか、誰かがどっかで言ってたような思い込みがうつっちゃってただけだった」
東井はどこか心地よさそうに、深く呼吸する。
「俺は、俺が好きなことを好きなだけやっていくのに必要な大学を選べばそれで良かったし、勉強も休みたかったら休めばよかった」
「——」
「で、別に、友達が隠し事してるのを許せないわけでもなんでもない。本人が話したくないなら、無理にとは言わない。……でも無視もできない。気になるもん」
照れたようにひとつ笑う。
それでいて強かだった。
「だから勝手に調べようと思う。『隠し事なんて何も無いです』って言ってる相手なんだったら、探り入れても、止めないだろうし」
「なるほどね」
「ダメかな」
「いや。俺は、それでいいと思う。俺はね」
「よかった。お前に言って貰うと、なに、ホッとする」
東井ははにかむように俯きがちに笑った。
そして真正面から尋ねる。
「雪本、榊と何かあった?」
「え?ないけど」
首を傾げる雪本に、東井は、そっか、と笑って頷いた。雪本はカフェラテに口をつけ、飲み干しながら、不思議な荷物を胃の中に落とし込む。
東井と気楽に話すことはこの先難しくなるかもしれない。
探っている、と宣言されて、自分もそれを承諾しながら嘘で返しているようなものだ。けれど探られているかもしれないと思い、嘘をつかれているかもしれないと思いながら、全てをうやむやにすることで重さばかりなくしても、三半規管は狂ってくる。
東井が、荷を半分だけ持たせてくれたと思った。




