第八十八話 入学式三日前 ② エスプレッソ
東井は結果として、石崎と同じ大学に入学することになった。周りの人間からすれば「馴染みのメンツがいてよかったね」で済むくらいだったが、当人たちはほとんどひっくり返らんばかりに驚いていた。今でも顔を合わせれば話すような距離感なので、もちろん衝撃の後にはポジティブなものしかないのだが。
「びっっくりした。いや、俺の家からは近いところだけど、高校からはちょっと遠すぎってくらいだし、まさか同じとこ行くやついるとは思わなくて……」
「実際、東井はどうしてそこにしたの?確か途中までは目指してなかったよね?」
「うん、あんまり色々受験しすぎても、俺パンクするし、第一志望しか見えてなかったのもあって、第二志望までしか用意してなかったんだ。最初は学科もだいぶ絞り込んでたし……」
雪本から見ていても、東井は、『この学科でこういう勉強をする』と決め込んで、それで二校分の対策を精いっぱいとっているという印象が強かった。滑り止めとして時間の許す限り多くの学校に出願するという手段も、勿論知ってはいたのだが、本人の生真面目さがそうした保身を許さないようにも見えた。
「でも、第一志望がちょっとギリギリかなってなって、焦ったタイミングでたまたまいい大学見つけたんだよね。スケジュール的にも受験しやすくて、バスケ強くて……学科はちょっと特殊な感じだったけど、でも興味あったし、図書館もバカでかいからちょうどいいかなって」
「実際俺も、いいとこ見つけたなって思ったよ。土壇場で選んだって感じしなかった。……嫌だったら答えなくていいんだけどさ」
「うん?」
「第二志望にしてたところは、どうだったの」
「あ、受かった受かった」
東井は慌てたように頷いた。
「そうだごめん、言ってなかった。第一は落ちちゃったけど、第二は受かってたんだ」
「そうだったんだ」
「だから、第二に行こうか、急遽受けたほうに行こうか、結構悩んでたんだけど——」
東井が第二志望にしていた大学は、知名度が非常に高く、東井の志望していた学科については特に、教授やカリキュラムの評判が良かった。第一志望の大学に比べれば難易度的にまだ易しいが、押しも押されぬ有名私立大学であるのは間違いなく、特に東井が重要視していたバスケットボール部のレベルが高いのも含めて、東井の意欲に真正面から合致しているはずだった。
「いざ悩みだした時に、よぎったのが、雪本に言ってもらったことだったりもして」
「俺?」
「前にさ、ちょっとブレても逆転できるって言ってくれたじゃん、覚えてない」
「ああ。——覚えてる」
雪本が頷くと、東井は雪本よりうんとゆっくり頷いた。
「俺が色々考えて、計画して受験したのは第二志望の方だった。でも、ちょっとくらい目指してたのと違ったとしても、結果オーライに持って行けそうな気がしたんだよ。第二の方より、今行こうとしてるところの方が家から近くて、一人暮らしの必要もなさそうだったし」
「そっか。一人暮らししようとしてたもんね」
「元々は。でもよく考えると、親はいてもいいって言ってるし、俺も実家で不便があるわけじゃないし……そこは重要じゃないんじゃないかなって」
大学に入ったら一人暮らしをする。そういう話をしている生徒は、高校の中で少なくなかった。遠方の大学に行く生徒は勿論、そうでなくても、一種のけじめとしてそういう選択を取るのだ。けじめと言ってもあくまで、親と約束していたり、自分が自分に課すけじめでしかないのだが、そちらの方がより『しっかりしている』という風潮があるのも事実だった。
誰よりもしっかり者の東井が、初めは計画していた一人暮らしを、合理的な判断の結果として見送った。そのことを雪本は、密かに誇りに思った。
すると東井は、子供らしく顔をゆがめる。
「バスケ部の先輩にさ、第二志望の大学に進んでる人がいるんだけど」
「うん」
「その人が言ったんだよね。うちに来た方が就職とかでも受けがいいよって——」
「就職か、なるほど」
大学受験でいっぱいいっぱいになっていた雪本が、単純に『就職』という単語を転がすと、東井は苦そうにエスプレッソを飲んで言った。
「ムカついた。だからもう第二の方にはいかない。確かに、俺がこれから行く大学のバスケ部は、強いっちゃ強いけど、まだ若い部活だから、コネとか評判とかが定着してないんだと思う。だからちょっと心は揺れた。——でも、うん。本当、就職の事が気になるとかならないとか以前に、その先輩の全部が気に入らなかったから。表情とかタイミングとか言い方とか全部」
東井は口の端を薄く持ち上げた。
「だからその場で、わかりましたって返事して、すっごいにこにこしておいた。調べたら、第一志望の大学ならさらに就職強いみたいだし、いざとなったらもっかい受験すりゃいいんだ」
「すごい」
「だから勉強忘れないようにしようと思って、家庭教師のバイト探してんだ。まあ結局再受験はしない気もするし、せめて金くらい貯めておくかって」
「いいと思う」
「うん。俺も今、満足してる。これからどうなるかはわかんないけど」
「東井っぽくていい」
「榊にも言われた」
ばつが悪そうな東井に、雪本はわざと小さく声を上げて笑って、隠れるようにカフェラテに口をつけた。
「榊、今日来れないっぽいかな」
東井がスマートホンを見ながらつぶやく。三人のグループには、榊から『用事が早く終わったら行く』とメッセージが入っていた。雪本は朝の検温のタイミングで、今日は合流するつもりが無い、と榊本人が話しているのを聞いていた。
「卒業式から、三人で揃う機会無かったから——今日はって思ったんだけどな」
「しょうがない、だってあいつ、まだ受験続いてるんだし。勉強とか忙しいんだろ」
雪本は一息にそう答えた。榊からそう説明されたわけではない。今日、榊が来られない理由も、雪本は特に問い詰めてはいなかった。
東井はまた一口エスプレッソを飲んで、独り言のように
「榊はなんで落ちたの?」
と言った。




