第八十五話 高校三年の二月末 ② 誰にも負けないくらい
「今日告白してくれた人ね、返事は、いつまででも待てるって言ってくれたの。というより、最低一年、返事を保留してもらえませんかって、向こうからお願いされてね。同じ大学目指してくれるんだって。どうせこれから一年間直で会うのが難しいなら、その間にゆっくり考えてって」
「泉美さん、それ、なんて返したの」
「わかりましたって。私、もともとそう言いたい気持ちはわかるの。でも今日、言われる側に立ってみて、言われる立場の気持ちも考えてみなきゃ、胸張ってられないなって。そう思った」
泉美は姿勢を改めると、座席に横向きに座るようにして、雪本に体ごと向き直った。
「私ね、榊くんにフラれちゃった時、言ったんだ。榊くんの恋に見込みがないなって本当に思って、他に相手がいなかった時、考えてもらえませんかって。何年後でもいいからそれを待ってちゃダメですかって。榊くん、了解してくれた」
「——えっと、浜上さんは——」
「もちろん、浜上ちゃんの事は、本気で応援してた」
泉美は屈託なく堂々と笑う。
「私の気持ちはもう榊くんに伝えてるし、その上でずっと顔を合わせてるんだもん。浜上ちゃんが毎日告白したって、トントンみたいなもんでしょう?あとは榊くんの問題じゃない」
「そうだね」
泉美が微笑むので、雪本も頷いた。
そして泉美は静かに切り出した。
「二年生の、十月の初めかな。私、榊くんにまたフラれた。……その一か月くらい前にね、榊くん、一回、陸上をやめかけてたんだ」
「なんで」
「本人は、記録も伸びないし、体調も悪くなってきたから、それで部長職だけとはいかない……って」
確かに榊は、ずっと補欠の選手だった。しっかりした体幹と体力と、そして基礎的な競技における強さを買われて、信頼の上でそのポジションにあったのだ。本人も、そのポジションを理解していたはずだった。少なくとも雪本からは、そう見えていた。
結局、新しい部長を任せられるのは榊しかいないという点について、部員全員の意見が一致していることから、榊が無理をしない範囲に制限をしても良いから、それでも部に残ってほしいという話に落ち着いたらしい。
間鍋部長も、清良女子リーダーも、問答無用で退部を引き止めたという。とにかく辞めるな、一旦続けろ、そんな言葉を必死に尽くして。
「今だから言うとね、雪本くんの退部のときも、裏でものすごく色々粘ってたんだよ、間鍋さんたち。雪本くんはすごく優秀な選手だし、後輩の指導も出来てたから、勿体ないって。でも、雪本くんと直接喋って、雪本くんの気持ちを信じて、雪本くんの気持ちはもう変わらないなって納得をして、だから退部も認めるしかなかった。……でもあの後は、一時間ぶっ通しで愚痴ってたんだから」
「ありがと。真に受けとくよ」
「雪本くん」
「……ごめん。信じるよ。ありがとう」
泉美に本気で睨まれて、みっともなく頭を下げる。泉美は頭を下げさせたのが自分の手落ちでもあるような、嫌な寂しさのある顔で話を続けた。
「でも榊くんの退部は——そういうのとは、ちょっと違った。あんな頭ごなしに『ダメ』って言う間鍋さん、初めて見た。部長云々以上に、多分、なんで辞めたいのかっていう説明が、最後まで納得いかなかったんだと思う。私も納得いかなかった」
「榊が、嘘をついてるってこと?」
「うん。……なんというか、上手く言えないけど、どうしてもしっくり来なくて。陸上が嫌になったとか、そういう話じゃない気もして……だからこそ、今、言われるがままにやめさせちゃうのは違うかなって」
泉美はそこで、少しだけ沈黙して続けた。
「その少し後に、今度は、私が榊くんにフラれちゃった」
「——」
「これからはもう、好きな人のこと相談したりもしないって。だからてっきり、うまく行ったのかと思った。だとしたら本当にすごいなって。……だって、大変そうだったから。榊君もその人も。もし本当にうまく行ったんなら、その時ばかりは、私、なんでも我慢できるなって思ったんだよ」
泉美は目を見る。ハッキリと、雪本の目を捕らえる。
「そうじゃないんでしょ?」
雪本は答えなかった。どう返事をしても、泣き出しそうな気がしたのだ。
「『泉美さんの時間が勿体ないから』って」
「——言ったの?あいつが」
「うん」
言葉を失う雪本に、泉美は目をしばたかせながら言い募る。
「私、怒った。すっごく怒った。それで散々、いろいろ言ったの。言うだけじゃなくて引っぱたいた。でも榊君は、何も言わない。泣きもしない——」
泉美は紅潮してくる頬を抑え、少し呼吸した。雪本は、雪本自身が嫌というほど知っているその痛みに、半ば飲まれながら言った。
「本当にあいつ……よく泣くんだね」
「知らなかった?」
「うん。泣けないのかと思ってた——」
「気持ち悪い、何それ」
泉美は絞り出すような声をぶつけた。
「泣けないって、どういう意味?泣いた方がいいって言いたいの?」
叫ぶようなささやきが落ちる。
「あんな風に泣いたって、何にも解決しないのに。安心するのは、私だけだよ」
「違う」
「勝手にわかった気になるだけだよ。可哀想だなって、でも側にいてあげてよかったって勝手に」
「でも」
雪本は酷い力みをこじ開けるようにして、言った。
「でも、何もわかんないより、いいよ。解決しても、しなくても。泣きたいと思った時、泣いてるところを見られたんでしょ」
泉美はじっと雪本を見つめる。陳腐なことでも、言わなければならないと思った。
「羨ましい」
雪本がそう言うと、泉美は、否定も、怒りもせず、笑いもせずに頷いた。
「ごめんね、きついこと言って」
「ううん。俺こそごめん」
「これでもね、私、雪本君が、誰にも負けないくらい榊君の事心配してるの、わかってるよ」
雪本は返事ができなかった。誰にも負けないくらい、と願っているのも事実、だとしても。それ自体が誇れない話でしかない。泉美の前で、彼女にも負けないと胸を張ることはできない。




