第八十四話 高校三年の二月末 ① 好きな人
二年生の三学期頃から、雪本だけでなく、学年全体が本格的な受験ムードを帯び始めた。
雪本は第一志望をごく限られた教職員以外の誰にも伝えなかった。雪本の興味は幅が広く、転じて言えば、文系の学科がある大学ならば極論どこでもよかったので、家からの距離、学費、施設等の環境的な条件から、行きたいと思える学校を絞り込んだ。
絞った大学については、叶う限り、それぞれに会った受験対策を徹底した。きちんと選んで受けた分、受けた大学のうちであれば、どこに入ってもいい。だからこそ、受験する一校一校が、どんな試験でどんな点数をとったら受かるのか把握してから、結果を見届けることに意義があった。進路のための受験勉強ではなくて、一種の壮大な模試に近かった。
高校三年の二月末、第一志望の大学の試験が終わった。
その時点で第一志望以下の試験は、全てクリアーしていた。
雪本は順当に、第二志望の私立大学の、最も興味をそそられた学科に入ろうと考えていた。
第一志望の結果はまだ来ていないが、受かる確率よりは落ちる確率の方が圧倒的に高いだろうと自覚があった。できる範囲の事はしたし、試験中に不調だったということもない。もともと模試でもボーダーライン上を行ったり来たりしていたのだ。
雪本はむしろ、卒業間際の自由登校期間ほど、学校に通った。入学を決めた先の教授が書いた論文を読んだり、その論文に使われた資料をさらに探して、図書館にこもったり、教室で読んでみたりしながら、時折訪れたクラスメイトや他の学年の生徒と会話をする。
教室の窓から見える陸上部の活動をぼんやりと見守ったりもしていた。特に目的意識もないが、活動をする時間になると、暗くなるのも忘れてつい眺めてしまうのだ。こっそり遠巻きに見ているつもりが、すぐバレる。体調がよければそのままグラウンドに出て練習にも付き合った。
せっかくの書籍も頭に入らない——かと思えば、不思議なほど理解が進むこともあり、そう言ったあいまいな快い時間を、あいまいなまま慎重に吸い込むような数週間を送っていた。
こういう風に三年間を過ごせたらよかったのにと、思いついてしまった時が少しばかり苦しかった。
下級生にしろ同級生にしろ、三日もすれば雪本が毎日学校に来ている事は察知されてしまい、来訪者の数も、その種類も、少しずつ増えてきた。
ある日突然、泉美が教室に顔を出した。偶然誰もいなかった。
「あ、雪本君、本当にいるんだ」
「久しぶり」
「久しぶり。——最近は呼びだし三昧?」
「本を読みに来てるだけだよ」
「そっか。じゃあ、呼び出しは一度も?」
「まあ、本を読みに行こうかなって思う時と、呼び出しが被ることはあるよ」
「なるほどね。例えば?」
「昨日とか一昨日とか」
「それ呼びだし三昧じゃないの——」
泉美は優しく苦笑いしながら、雪本の隣の席に着いた。もともとそこは泉美の席なのだ。
「今日は、呼び出しは無いの?」
「うん。なんにも。駆け込みはあるかもしれないけど」
「でもこうしてたら、私が告白しにきてるみたいか」
余りにタチの悪い言葉に、雪本は極力柔らかく笑って、首を横に振った。
「そうじゃないのは、わかってる」
泉美も微笑んだ。まっすぐに目を見てくる。雪本も勢いそれに応戦したが、そのうちやめるかもしれなかった。
「内緒ね」
泉美は一言そう言って、スクールバッグから皺ひとつない無地の封筒を取り出した。
「ラブレター貰っちゃった」
「今日?」
「うん。呼びだされてね。一個下の後輩の人なんだけど」
泉美は落ち着かなさそうに手紙を見ては少しずつはにかむ。
「陸上部?」
「うん……。雪本君、多分、察し付けてるんじゃないかな、なんて」
「ええ?」
「本人がそんなことちらっと言ってたの。つかぬ事聞くけど、花火大会で身に覚えは?」
「なんにも」
「ええ、雪本君きらーい」
二人で笑った。泉美は常より目元が赤らいでいて、どことなく声が上ずっていた。
しかしその波が引いてくると、泉美は少し恥じ入ったようにしゃんと背を伸ばした。
「あんまりはしゃぐとよくないね」
「そうかな?」
「うん」
そして泉美はまた、バッグの中に手紙を戻した。丁寧な手つきだった。
「変な感じ。私、告白されたのって初めてで」
「そう?——それは、意外だけど——」
「お気遣いどうも」
「本当の事だよ」
雪本は咎めるように泉美を見据えた。泉美は今度こそ真面目に頷いた。
「ありがとう」
「うん。手紙をくれた人の目を、疑うようなこと言っちゃダメだよ」
「はい。でも、雪本君もだよ」
「うん?」
「雪本君も、雪本君を呼びだしてくれた人を、疑っちゃダメだよ」
「そうだね」
雪本は自分で合わせた目を、自分で反らしながら尋ねた。
「泉美さん」
「なあに?」
「告白を、泉美さんがしたことはあるの?」
「あるよ。フラれちゃった」
「いつ頃?」
「一年生の、クリスマス周辺かな? そもそも私ね、その人に好きな人がいるって知ってて、相談っていうか……よく、話を聞かせてもらってたんだ。だから、ほとんどヤケみたいな感じで、勢いでぽろっと言っちゃった。……だから、今日の人みたいに、落ち着いて、きっちり告白するのって、憧れるし、凄いなって思うの。私は多分、落ち着いたら言えなかったから。——私の好きな人、知ってる?」
「今でも、好きなの?」
「うん。目移りはしてない」
「そっか」
視線を合わせる。その目の美しさで、もう勝てないと思った。
「榊でしょ?」
「すごい、バレバレ」
泉美は光る眼を細めながら笑って、質問を重ねる。
「……いつから?」
「……」
雪本は右手をこっそりと握りしめた。
「一年生の五月の、解剖実験くらいかな」
「すごいね。ほんとに最初だ」
「うん」
「わかった」
握った手の甲にさらに爪を立てる。そうしなければ笑っていられない。
『いつから?』
『わかった』
榊と泉美はよく似ている。こんな場面で、聞くことも言うこともそっくりだ。
「……一年生の夏くらいかな、たまたまね、榊くんが、泣いてるところを見ちゃって」
「泣いてるところ?」
「うん。最初はそれで話を聞くようになったの」
「泣いてたんだ」
「泣くのをコントロールできる人だから」
泉美は少し、顔色を曇らせた。
「場所を選んで、瞬間的に泣けるのよ。それで頭を空っぽにするの」
蛇口みたいな言い方をする、と、雪本は泉美に毒づこうとしてやめた。
本当に、栓を捻るタイミングが有れば、流すのには困らないくらい、いつだって溢れそうになっていたのかもしれない。
「雪本くん、榊君の好きな人は知ってる?」
泉美は真っ直ぐにこちらを見据えながら尋ねてきた。
「知ってるよ」
「やっぱり、そっか」
泉美は困ったように首を傾げた。
「そうかなとは思ってたんだ」
「本人は、知られてるかもしれないとか、そういうことは言ってたの?」
「なんにも。話題にしなかった。だから私も、なんにも言わなかった。知られるのが一番怖いんだから、せめて、知られているかどうかもわからないまま、いなくなっちゃいたかったんだと思う。無理だろうなとも思ったけど」
雪本が問いかけるように視線をよこすと、泉美は笑った。
「その人にとって、榊君が、意味を持っているから」
「意味?」
「榊君がその人に向けるのと、同じ種類かどうかは、正直わからないけど。でもその人は、榊君でなければできないことを、きっと何か見つけてて——それが大きいにせよ、小さいにせよ、榊君が本気で絶交宣言でもしない限りは、時間を共有したいって考えるんだと思う。榊君、そういうことできる人ではないし」
と言ってから、さらに首を横に振って、自分の言葉を修正する。
「——いや、でも、絶交したとしても、その人は榊君を避けてあげるために、榊君の事を頭のどこかで考え続ける。特別ってそういう事だもん」
雪本は音もなくうなずいた。
泉美はその雪本の動作に、初めて笑みを消した。




