第八十三話 できないこと
「雪本」
渋滞が動いたのか、景色がまた変わっていた。信号待ちのさなか、榊に声をかけられた。雪本はすぐに気がついて、ネクタイの結び目から手を離す。ネクタイやマフラーをつけると、無意識に触りながらきつく締め直す癖がついていた。
「ごめん、またやってた」
「到着するまで、ネクタイはとっておいたほうが——どうせ、座りっぱなしになるし」
「考えとく」
雪本はそう言って、少しだけネクタイを緩めた。
首の怪我が治って、包帯が外れると、雪本はある変化に気が付いた。
首元が開いている服が気持ち悪くて仕方が無いのだ。
見られている、いないにかかわらず——いや、その要素も含めて、とにかく、白い首に何も触れていないと、妙に薄寒く感じて、酷い時は全身に震えが出る。
制服は毎日、第一ボタンまで閉めて登校した。榊からもらったTシャツもじきに着られなくなった。襟足を伸ばして首に沿わせても、鬱陶しいと思わなくなった。一度、真菜に貰ったターコイズブルーのネックレスを、インターネットで探し当てたことがある。思っていたよりは高価だった。それでも買えないほどの値段ではない。
けれど雪本は、買わないままそのサイトを閉じて、二度と調べなおさなかった。
雪本は、二年生の冬の間、毎日少しずつ時間を使って、自分にできることと出来ないことを確かめていった。
一人での料理は「できること」のうちに入った。刃物を使わずに済むレシピは、転じて言えば、手間のかからないレシピという事でもあるので、それほど苦も無く完成した。それを一人で食べることもできた。しかし「食べられる」という事実を確かめるためだけに食べているようだった。
コーヒーは、きちんと飲めた。ブラックコーヒーもゆっくりと飲めるようになっていった。しかし榊にインスタントを入れてやることはできなかった。料理を食べると榊はまるでそれが規則のように決まって眠りについたけれど、その一方目には隈がついたままで、とてもコーヒーなど飲ませられない。
アイスコーヒーを淹れることはほとんど出来なくなった。教わったことを忘れたわけではない。コツも、楽しさも、香りも、音も覚えていた。なにもかも忘れられなかった。
石崎からリクエストされた、チョコレートケーキの作成は「できること」だった。手間はかかっただけあって満足感も誇らしさも重厚だった。一人でそれを試食しても楽しかったし、配ったらもっと楽しかった。
それでも他の街に出て行って、評判の良いチョコレートケーキを食べても、またそれを再現しても、それは「できる」という事実の確認にとどまる。
そして出かけたついでに、例えば真菜のマンションがあった駅を訪ねたり、例えば真菜の働いていたカフェの周りを歩いたりすることは、ずっとできないままだった。
*****
写真のモデルをすることはできた。高校二年の十二月末に、佐原は、予定通りきちんと雪本に会いに来てくれた。以前よりうんと若々しくずっと元気そうに、また格好良くなったねと、臆面もなく息子を讃えた。
写真のモデルをするにあたって、首元を隠さず過ごすことは、辛うじてできた。
佐原は息子の体のうち、とりわけ顔と並ぶほどに、首を撮りたがっていたのだ。
雪本の首は血管がよく見える。寒さや温かさですぐに色が変わる。顔と一緒に、そこを映すか映さないかで、写真の意義がそもそも変わってしまう、と佐原は言った。
「変わるって言ったって、どっちがどう悪いってことでも無いから、無理はしなくていいよ」
そう気遣う佐原に、半ば意地を張るようにして首を晒した。休み休みマフラーをつけ、何度か『寒い』と文句を言って、神経が緊張しているタイミングの幾枚かは笑顔もない。せっかく来てくれた佐原を、振り回してしまうようなこともあった。
「俺、表情硬い?」
「そんなことない」
佐原は満足そうにカメラを撫でながら微笑む。
「硬いなんて、とんでもない。こんなに自然な表情ないよ」
「でも——でも、もっと楽しく撮りたかったのかなって」
「楽しく撮るのが大事なわけじゃない。直を撮って、直と東京を散歩して、それが楽しく感じられる今が一番大事なんだ。直に負担をかけてるかもしれないけど」
「いや」
雪本は噛みしめるように首を横に振った。
「俺も、ちょっと無理してでも、こうやって写真撮りたいって思ったから」
「うん。……おかげで、全部丸ごと写真におさめられた」
佐原は、写真を一枚見せてきた。初日の正しく一枚目の写真だ。
「今から十分くらい撮るよ」と言われて、マフラーを外そうとしている瞬間の雪本だった。
微笑を浮かべているくせに、唇の端をこっそり噛み付けているのが正確に撮られている。たっぷりとしたマフラーの下に首が見えた。温もりに守られていたほの赤い首の中に、血管が透けている。顎に向かうにつれて徐々に色が薄まっていき、頬からは打って変わって石膏のように白い。それが目元の辺りだけ青い隈を描く。
通行人の視線を睨み返すような黒目が異様に目立っていた。
「命がかかってるんだよな」
佐原はそう言って、真っ直ぐに笑った。雪本も心から笑った。皮肉めいたものが交じった。佐原はそれをしっかりと見つめて問いかける。
「大変だった?」
「うん」
雪本はすぐに頷く。佐原は何も言わず、雪本の首にマフラーをかけると、もう一枚写真を見せてくれた。
「ごめん、これは、許可取らずに撮っちゃったものなんだけど……」
「……何これ」
佐原は愉快そうに笑う。
「だって、冗談みたいに綺麗に寝てるから」
雪本が熟睡している写真だった。佐原と共に滞在していたホテルで、初日の撮影の後に眠りこけたところを撮られていたらしい。シャワーだけ浴びて部屋着になったところなので、血色がやけにいい。夕日が窓から差し込んで、部屋を斜めに横切っている。そのど真ん中で、雪本ただひとりが、心底心地よさそうな顔で、なんの計算もなしに眠っている。
「嫌だよ、母さんにも見られたくないよ」
「沙苗はともかく──でも僕も、この写真は公開したくない」
「そうだよ、だらしない」
「そうじゃない。すごく綺麗な写真なんだ。ただ綺麗すぎて、できるだけ多くの人の目に、とは言えない」
「──」
「だから、このデータは直に任せる。直に送ったら、僕はバックアップも消しておくよ。見て欲しいと思う人にだけ見せてあげれば、それでいい。もちろん消しちゃってもいい。勝手に撮ってごめん──」
その写真は、いまだに保存されたまま、誰にも見せられずにいる。
真菜や川上に送ってみようと考えたこともあった。それをきっかけに、前使っていた端末を起動させようと思った時期もあった。
けれど結局、できなかった。




