第八十二話 高校二年の十月 ④ (場違いな光の向こう)
雪本は構わず限界まで腕を伸ばして体を寄せる。そうして、どこかに落ちているはずの、つい先刻雪本がかけた言葉を探ってもがいた。聞こえてくるのは雪本の分の嗚咽ばかりで、榊は呼吸の音すら立てない。
しばらくすると、雪本の体が震えはじめた。榊の背で触れ合わせた左手と右手の指先が、そろって冷たくなっていく。
「榊」
呼びかけた声が自分の頭の中で反響する。榊が返事をしても、聞こえないくらい、雪本自身の言葉ばかりがうるさく木霊していた。そのまま自分がかけた言葉を、自分勝手に再生する。
コーヒーを飲んだ。
コーヒーを買った。
参考書も買った。
——コーヒーを飲もうと思ったのなら、真菜の働いていたカフェに行くことだってできた。しかし当然のように雪本はそことは別の店を選んで入った。それがもう、くだらない話だった。
参考書を買った。石崎に励まされて買ったのだ。泣きそうになって、石崎にハンカチまで出させて、そうしてやっと参考書を買った。
石崎に励まされるのは、これが初めてなわけではない。一年生の六月、石崎と交際していた頃にも励ましてもらっていた。ロミオ役を応援してもらった。交際一か月の記念にと、ポーチを手作りしてもらった。そのささやかなお礼に、あの喫茶店のコーヒーを一杯おごったこともあった。
何度も何度も礼を言う雪本に、誇らしげに自信作の解説をしていた石崎が、不意に「場違いな光」の方角をまっすぐ見詰めて、こう言ったのだ。
『あれ、榊君きてたんだ』
『……榊がいたの?』
『みたいだよ。でも今出てっちゃった。混んでるからかな』
石崎はきっと、今も昔も、榊については何も知らない。けれど自分は当時からよくよく知っていた。けれどそんな記憶さえこの瞬間まで曖昧にしていられたのだ。
二年生の夏休み前、一年越しに振り返った石崎との記憶に、雪本はぼろぼろ泣いて、そのそばには真菜がいた。
夏を超えて秋になったこの日、真菜や川上を思って泣きそうになるのを、石崎が許してくれた。
しかし、榊が泣いている現場は一度も見たことが無い。石崎と付き合っている時も、真菜や川上と暮らしている時も、榊は涙の一滴たりとも見せない。今この瞬間がそうであるように。何も言わない榊に向かって、雪本だけが勝手に話し、捕らえて、涙を流している。
こうなってみれば、さっきまでの自分の言葉が彼に聞こえていなくて良かったと思う。
石崎に勇気づけてもらったことを、雪本の手柄のように自慢してしまうところだった。それとも石崎の人間性を自慢するのか。
他の誰でもない、榊に向かって。
「……ごめん、急に、勝手に騒いで」
雪本はせめて、榊を掴む手の力を緩めた。
「でも今日は普通に、心配だし、泊ってほしい」
その頼みに、榊はすんなりと頷いた。雪本は、ありがとう、と言おうとしてやめた。
「榊、夕飯とった?」
「いや、まだ——」
「じゃあ、俺、作るよ」
「作る?」
「今日、ちょうど、そろそろ料理したいなって思って、久しぶりにいろいろ買ってきたから——」
雪本がそう言うと、榊は不意に、申し訳なさそうに苦笑いした。
「雪本」
「うん?」
「言ってなかったけど……」
榊はそこで言葉を切って、キッチンの隅を指さした。縦長の金庫のようなものが、いつの間にか置かれているのは、前から雪本も気が付いていた。榊の物なんだろうと思ったが、金庫は鍵がかかっていて開けられないし、邪魔になっているわけではないので、放っておいていた。
「あそこに、刃物を全部入れてある」
「えっ?」
「ハサミ類とか、カッターとか……包丁だとか」
なぜ、と聞くことも馬鹿馬鹿しかった。強いて言うなら、金庫があるなと気づいているのに、『あれ何?』と聞こうともしない状態だからだ、ということになってしまうのだろう。
「使うことを制限したいわけじゃない。ただ、あの番号はこちらで管理しているから、使う時には許可を取って、見ている前でやってもらう」
「そうだね」
雪本は思わず深くうなずいた。
「包丁なくても、出来る料理はあるし」
そもそもゼリーを呑んでいたから今の今まで包丁を取られていることに気が付かなかったのだ。料理には慣れているが、習慣になっているとは言えない。
「じゃあ、料理の前に、一旦お前、風呂入ってきていいよ。あがってもまだ作ってると思うけど、ちょっと待ってな」
「手伝う」
「ありがとう。でも、頭痛いとかあったら、無理にはやらなくていいから」
雪本は榊のための着替えを探した。沙苗が大量によこして言ったストックのおかげで、肌着から何から何まで、一式貸すのには問題なかった。
そして、本棚に入れておいた参考書を、クローゼットの奥にしまって、布で包む。
榊も志望している大学の入試問題をまとめたものだ。
『本当の一番上』と言われて、真っ先に名前が浮かんだ大学だった。
仮に合格できたとしても、雪本と榊では恐らく学科は違うだろうが、まだしも会話が共有できるかもしれないと思った。
けれど、そもそも榊は、雪本から離れるために転校をしようとまで考えていたのだ。それを知っておきながら、同じ大学を受験することをわざわざ話のネタにしようとする時点で、くだらない話だった。
それでも大学は目指そうと思った。ちょうどではなく、自分のできるところまでを目指そうと思った。もし目指し切れたら、少しは川上に顔向けができるような気がしたのだ。けれど榊には最後まで伝えないつもりでいた。伝えても気にされないかもしれないとも思ったが、気にされないならなおの事伝える理由が無い。もちろん石崎にも、これ以上面倒を見てもらうつもりはなかった。
自分の目標を見つけた。納得できる目標を見つけた。それに向けて一歩を踏み出した。そのために計画を立て、そのために努力をしようとしている。泣くこともあるかもしれない。
それを当たり前のように人に聞いてもらおうとする。
応援してもらい、励ましてもらい、見守ってもらおうとする。
自分で望んで怪我をしたくせに、榊に完治を診断されて平気で喜んでいる。榊は今も昔も、徹頭徹尾、一人きりでどうにかするしかなかったのに。彼がどんな毎日を送っているかも知らないまま。
それでも、出来上がった料理を一口食べた時、榊はかすかに目を細めた。丁寧な手つきで、端正なしぐさで、ゆっくり噛んで食べる。雪本の体調以上に、自分の怪我や頭痛以上に、ひょっとすると雪本が眼前にいる以上に、ただ集中して食べる。雪本も榊が気持ちよく食べているのに乗せられて、一口食べる。二口、三口と止まらなくなる。
「ご馳走様でした」
榊が手を揃えて頭を下げた。姿勢を戻す拍子に目が合う。榊はその日初めて、ばつが悪そうに視線を揺らしながら、美味しかった、と呟いた。
榊はその後、雪本が少し目を離したすきに、テーブルに顔を伏せるようにして眠ってしまった。せめて横になったほうがと思って、軽く揺さぶってみても全く起きる気配が無い。それだけ深く眠っていた。
雪本はそれ以降、週に幾度か料理をした。榊の来訪が遅い時間になった時、次の日が休みの時は料理を作る。料理を食べると決まって榊は睡魔に襲われてしまうので、宿泊するのが前提だった。
魚が嫌いだったりするのか、野菜は好きなのか、アレルギーはないのか。持って回って尋ねても、榊は、なんでも食べる、と一言で答えた。実際榊は、いつも美味しそうに食べ、美味しいと口に出した。雪本もそれにつられて、いつもより量を食べる。
榊にもし好き嫌いがあって、美味しくないと言われたらどうするのか。また食欲がなくなるのか。これ以上、何を榊に背負わせるつもりだろう。
榊が食事を平らげて、美味しいというごとに、雪本はただ頷いて、手伝ってもらった感謝を丁寧に伝えた。そして榊が出す体調管理の指示に従って、自分に必要なのだろう栄養を取れるような食事を作ることに集中することにした。




