第八十一話 高校二年の十月 ③(雨の夜の遅刻)
「ごめん、石崎」
「何?」
「泣きそう」
「ああ、いいよいいよ」
石崎は流石に笑いを収めながらも、チョコレートケーキをもうひと切れ刺した。
「なんか、怪我とかもしてたし、色々大変そうかなって思ってたんだ。話くらいは聞けるよ。——あ、そうだ」
石崎は不意に思いついたように、リュックサックの中を漁った。フォークが刺さったままのケーキが皿に残されるが、きりりとけなげにバランスを保っている。と、石崎がタオルハンカチを差し出してきた。
「はい、使っていいから。何でも話して」
両手で差し出されたハンカチを雪本が受け取ると、石崎は少し誇らしげにチョコレートケーキを食べる。絶対に、どうあっても、自分で元気になれる石崎が、本当に頼もしかった。
ありがとうございました、と、出入り口の扉の方で、店主の声がすると、客の一人が出て行ったのか、扉からまた場違いな、白いばかりの光がさす。晴天のはずだが、明暗の差が激しいので、こちらからは変に白っぽいばかりに見えるのだ。石崎もそちらの方に顔を向けた。
雪本はひっそりと、首を傾げる。
以前、ほとんど同じような景色を見た気がするのだ。白昼夢はあまり見ない。そもそも石崎とは、交際当時はしばしばこの喫茶店を訪ねていたのだから、見覚えらしき見覚えは至る所にあるはずなのに、特にその光景が抜きん出て『前に見た』と強く訴えてくる。
不思議だと首をひねってみると、渡されたタオルハンカチのデザインが目に付いて、噴き出した。
「いや——、いや、柄——」
「動物園で買ったんだ、かわいいでしょ」
「いや、ちょっとごめん、ちょっとだけ気持ち悪い……」
目が大きくデフォルメされたミミズクが大量に描かれているタオルハンカチだった。
「ええ、可愛いって」
「いや、わかるけど、でもずっと誰かしらと目ぇ合うよ」
「見守ってんだって」
「ありがとう。涙引っ込んじゃった」
気が付くと、コーヒーを飲み干していた。石崎がお代わりはいるかと進めてくれたが、その甲斐性だけ受け取って店を後にする。石崎の勉強の邪魔になるのも申し訳ないし、自分は自分で、出来ることを探すべきだ。
レジの前には、店オリジナルのインスタントコーヒーの粉末が売られていた。雪本は、今月から追加されたという新しい豆をつかった物を、二袋購入した。榊のメニュー制覇に多少なりとも貢献しよう。よく考えれば、今まで、体温を測るにしろ、問診をするにしろ、榊にお茶一つ出したことがない。榊の指示を消化するのでいっぱいいっぱいで、余裕が無かったのだ。
店を出ると、すぐに書店のある駅前の方へと向かう。参考書を買うつもりだった。どうしても受かりたいわけではないが、受かれるかどうか試して、本当に通えたら、とても嬉しい大学があった。
榊はその晩、予定の時間になっても来なかった。珍しい事だった。そもそも榊が時間に遅れたことが無い。
五分過ぎたあたりで、一時間遅れる、とメッセージが届いた。雪本は特に不都合もない。ただ気を付けるようにとだけ返信する。一時間遅れれば、到着は十時半だ。少し前から雨も降ってきていて、気温が下がっている。風邪を引きそうだった。
榊は結局、十一時を少し過ぎた頃に到着した。
「悪い、遅くなった」
「ううん。ごめん、もしなんかあったんなら、今日くらい休んでよかったのに——」
雪本はそこで声を呑んだ。
榊は、先の折れた傘を一本携えて、もう一本ビニール傘を持っていた。服が濡れていて、びしょ濡れとは言わないまでも、ある程度降られたことがわかる。
制服姿のままということは、一度も家に戻っていないのかもしれなかった。
榊は自分が雨に降られたことにも、遅刻の理由にも言及せずに、いつも通り検温を始めた。
だから雪本も、話そうと思っていたことを、普通に話すことにした。
「今日、首、やっぱ治ってたよ。榊のおじい様がそう言ってくれた」
「そうか。よかった」
榊の態度からして、初めて聞いた様子だった。やはり、家に戻っていないのだ。学校に行ったっきり、こんな時刻になったのか。
「今日さ、コーヒー買って来たんだ」
妙に声が小さくなった。よく考えると、彼がここにきている間で、こちらから話しかける事は少なくなっていた。体調に関係ない話ならなおさらだ。
「問題ないと思う。最近は割と眠れているみたいだし」
榊はそう言いながら、淡々とメモを取っていた。
「そう——あの、喫茶店あるじゃん。やたらメニュー多いとこ……」
雪本はそこまで言って、ふと榊の右頬から右瞼にまたがるあたりに、青い痣を見つけた。
絶対に、朝の段階では存在していなかったものだ。咄嗟に榊がまくっている袖を眺める。右腕に、どこかにぶつけたか、擦過したような跡がある。出血を止めたあとかもしれない。
体温計が鳴った。榊は体温計を受け取って、体温のメモを取った。
雪本は一人、必死に言い募る。
「……そこで、あの、新商品出てたから、インスタントなんだけど、買って——寒いし、もし時間あったら、飲んでかない?すぐ淹れられると思う」
榊は頑なに目を伏せていた。いつもよりも、うんと重たそうに視線を下げて、手つきばかり素早く体温計をしまって、
「体温は今朝と変わらない。最近は朝晩安定してるな」
と告げる。声が掠れ気味だった。雪本はただ
「そっか。よかった」
と返すしかない。榊はさらにいつも通り、
「他に変わったことは?」
と続ける。
「特にないつもり。体力もちょっとずつ戻ってきてる。今日とか、色々歩き回ったんだけどさ——」
「息切れやめまいは」
「ない。全然」
「わかった」
榊はそう言って、またスマートホンにメモを取る。
「……あ、で、そう、今日すっごい久しぶりに本屋も寄ってさ。初めて表紙だけで買ったりした。でも、それはついでっていうか、大学受験の準備しようかなって思って。買うだけで満足しないようにしなきゃいけないけど……」
雪本が話を続ける間、榊はずっと、端末に目を落としていた。言葉はなく、何を見ているのか、何か操作しているのかも分からない。瞼が小刻みに震えている。唇も青い。寒そうだった。
「風呂とか、入ったほうが良くない? 良いよ、全然、お湯は張ってるし。……あ、でも、怪我してるか」
不意に榊が、重たい視線を上げて時計を見る。雪本の言葉に反応した訳では無いらしい。もう十一時半だった。そのまま鞄を肩にかけて立ち上がった。
雪本はそれを邪魔した。思い切り手を掴んで体重をかける。ありていに言えばかんしゃくを起こしたようなものだった。せめておどけるくらいの義務はあると思い、一応声音を明るくした。
「ねえ、」
ぐいと力を入れて引っ張り、孤独でひきつる口角を何とかごまかして笑って、榊の視線を上げさせると——榊は、なぜ腕を引かれたのかわからないという様に、全く何の思惑もない虚を突かれた目で雪本を見つめ返した。雪本はそれを奇妙に思うより先に、彼の右腕の異常な『冷たさ』が気がかりだった。
「ねえ、なんか、あったかいの飲んだほうが良いって。俺の話は別に、大したこと話してないから、無視しても良いけど」
「……無視……?」
榊は呆然と、ただ雪本の言ったことを繰り返した。
「……話って、どの……」
「いや————えっと、今話してたこと。今日コーヒー買ってさ、あの、純喫茶の、渋いところの。だから、飲もうよって。榊、寒そうだし————」
榊は頷きも、首を横に振りもしないまま、急に景色が見えたようなしぐさで掴まれている右腕を見ると、咄嗟に振りほどいた。
「雪本、血が——」
榊がポケットティッシュを取って、雪本に差し出す。しかし雪本は自分の手についている血を見た。もちろん自分の血ではない
掌にくっきりと、擦過傷からにじみ出た、榊の血液がついていた。
「……榊、怪我、どうしたの」
「大したことじゃないんだ。説明するようなことでもなくて」
「俺の話は」
雪本は榊の肩を掴んだ。肩口に触れる榊の髪が、はたから見るよりずっと濡れて冷え切っていた。
「聞いてた?」
「——」
榊は瞬きを多くしながら、息苦しそうに雪本の手を払った。
「——頭が痛くて……」
「聞こえてないの?」
「でも、体調は問題ないみたいだし。——ああ、床を汚した、申し訳ない」
榊は苦笑いしながら鞄の中からタオルを取り出して、自分がいた場所に落ちた雨を払いはじめた。
「妙に時間がかかったけど、もうこれを拭いたら帰るから、休んで——」
雪本は榊の手を掴んで捕らえた。
「いい。それやらなくて。汚れてないもん、だって」
「わかった——」
「わかってない。ダメだよ、外に出ちゃ……」
語尾が震えた、と思った時には、唇も震えはじめていた。掴んでいる指先まで強張って、力が抜けそうになるのを必死につかみなおす。榊に痛みを与えているかもしれないと思いながら、力を加減できなかった。どんなに力がこもっても、榊の腕はひと月前から、ずっと冷たいままだった。
「ごめん、駄目、今から外は絶対に駄目、だって——だってもう、日付変わる」
「だからこそ、帰ったほうが良いと思うけど」
「でも——危ないし、雨酷いし、家は歩きだと遠いし」
雪本が絞り出すような声で言うと、榊は首をひねった。とぼけているのではなく、嘘をついているのでもなく、本当に要領を得ない顔だった。
雪本は榊を胴体ごと捕まえた。榊はしりもちをつかされても、思い切り体重をかけられても、動揺の一つも見せず、何も言わなかった。




