第八十話 高校二年の十月 ② (1/5チョコケーキ)
「揉めてはないけど、自主遠距離タイムなの」
「うん?」
「自主的に、会うの控えて、連絡も抑えめにしようねーってこと。高野さん今、三年の十月で、もう、こう、受験!!!って時でしょ。部活もこないだ引退したし、会おうとしなきゃ会わないわけで。部活がなくなるのって、受験のためみたいなところもあるでしょ? なのにそういう空いた時間を、会うために使うのってモヤモヤする。だから、ちょっとしばらくはって話をしたの。私が」
「お前がかよ」
「ええ、会ってると喋っちゃうもん」
「甲斐性なしじゃん」
「だから、会うこと自体やめちゃえって。それで甲斐性鍛えるの。部活だともう見慣れちゃって、感覚マヒしてたんだけどさ、受験に向かって準備してるところか見てると、やっぱこの人凄いよなあって思うんだ」
「それは、わかる。結局面倒見も良いし」
「そうそう。すっごい丁寧に根性使う人だからさ、ここでちょっとくらい、完全に集中できる時間があったほうがいいだろうなって。だから私も最近、まねっこしてるの」
石崎はそう言って、大学受験用の参考書をいくつか出した。
「いいなあって思う大学も見つけたからさ、そこ第一志望にして、今からきっちり頑張って見ようかなって。こういうのは楽しいと思える時にやったほうが良いから」
「なるほど、いいね」
「いいでしょ?」
石崎は屈託なく笑った。雪本は頷く振りをして目を伏せる。
高野ではなくて、石崎が、心の底から羨ましかった。お気に入りの喫茶店で、高野に選んでもらった服を、高野に見せるでもなく当然のように着て、迷いなく勉強に熱中する——そんな石崎のよこす視線が眩しい。どんな今後を見ているのかと思うだけでも微笑ましくて、祝いたくて、申し訳なくて、視線が合わせられなかった。
「雪本君は、もうバリバリに勉強してる感じ?」
「え?いや——」
「そうなの?意外だ」
「そう?」
「だって、一年の時かな、言ってた気がするよ。自分の頑張れるとこまで勉強頑張りたいんだーって」
「ああ……」
雪本は言われてようやく思い出した。石崎と付き合った五月初めごろ、雪本は中間試験に向けてかなり勉強を積んでいた。高校受験が過ぎ去って三か月ほど経過していたが、どうにも力を出し切れなかったという感覚が強くこびりついている時期でもあった。
「普通に今でも、ぼちぼちやってはいるんだけどね」
「ていうか成績良いじゃん」
「まあ、部活も何にもやってないしなあ。時間がゆっくり取れるってだけだよ」
恋人もいないから。とは言えなかった。いないと言いたくなかったし、そもそも、いないのかもわからない。石崎は真菜の事も川上の事も知らない。今後を祈ってもらって、それきりだった。
「やりたいことがいまいちわかんなくなっちゃったんだよね。頑張ろうにも目安が無いっていうか……どんなに頑張ってもさ、一位にはなれないんだなって思うし」
「まあ、他はともかく、近くに榊君がいるってのはあるけど」
「でしょ?」
「でも、榊君越えを目指すくらいは、やって損になるもんじゃないと思うけどな」
「そうすると……自分、そんなに勉強したいのかなって、思っちゃうんだよね」
「面倒になっちゃう?」
「いや、面倒ってことではないんだけど——石崎とか、だから、凄いなって思う」
「どうして?」
石崎はやってきたブラックコーヒーに口をつけるのも忘れて、真剣に首を傾げた。
「この大学に行きたいって思ったら、その大学に行く為に頑張ればいいし、そういうのがあるのに越したことないから。そう言うのを決められること自体が、ちゃんとしてるなって思うし」
「確かに、楽しくはあるけど——でも、雪本君にそう言うのが向いてるかって言うと、私は別に、そうでもないと思う」
「え?」
「だって雪本君、なんだかんだ、何でもできるじゃん」
あっけらかんと、石崎は言い切った。
「勉強も勉強でコツ掴んでるし、陸上も陸上でできちゃうし、他のスポーツもできるし、なんだかんだ、やるってなったら楽しくやれるでしょ?逆に、雪本君が『ここに行きたい!!ここしかない!!』って言って入った場所でも、周りがいちゃもんつけてくることはあるからさ」
そうかな、とつぶやく。聞こえないくらいの音量だったが、聞こえてしまったようで、石崎は元気よく笑って頷いた。雪本は悔しくて、清々しくて、笑みにつられた。
「勉強はもういいかなって感じ?嫌いになった?」
「いや——でも、無理するほどじゃないかなって思う」
「そりゃ無理はしちゃだめだよ、当たり前じゃん」
「うん」
雪本は精いっぱいに石崎の目を見た。
「……やりたいよ。できるところまで」
「じゃあ、一番上狙おう」
「ええ」
「いいなーって思う大学の中の、一番上。第二志望第三志望は、ちょっとずつ下げていって、ちゃんと滑り止めもしておく。その分、第一志望は、ほんとのほんとに一番上にする、とか」
咄嗟に頭に浮かぶものがあった。石崎は目ざとかった。
「あるんだ?じゃあそこ第一志望にしちゃお」
「いや、でも結構、上だし——」
「ダメだったら落っこちるだけなんだからさ」
「そうだけど、でも、本気で狙っていけない人もいっぱいいるだろうし、もうちょっと妥当ってか、ちょうどのところが——」
「ちょうどなんてないって」
石崎がけらけらと笑う。不自然に黙る雪本の前でコーヒーを飲んで、悠々と一息ついた。
「そうだね」
雪本の言葉に、石崎は満足げに頷く。雪本も目を合わせて頷いた。そのまま甘すぎるコーヒーを眺める。
川上の顔を思い浮かべた。
いつものように、ただぼんやりと描く、想像上の物ではなくて、事実として記憶に残っている川上の顔だ。今は想像しただけの顔よりうんと鮮明だ。しかし時が経てば記憶の方が薄れていくのかもしれない。明るい金髪。高い背。「ちょうどなんてないよ」と言って、雪本が欲しいものを探し出すまで歩幅を合わせて付き添った。ただ、旅行に行った時は背中をずっと押されていた。雪本の歩みがのろくて、うっとうしかったかもしれない。けれど押してくれる手が心地よかった。その手でそのまま引っ張り戻してもらいたかった。
石崎はいつの間に注文したのか、店員に愛想よく挨拶してケーキを受け取った。
「食べる?」
「いいの?」
「元気ないから、五分の一あげる」
「ありがとう」
少ないとも多いともつかない。石崎の率直な優しさの分量なのだろう。
石崎は、切り分けたチョコレートケーキの先端の方を雪本に差し出した。雪本はフォークを新たに取って、その欠片を刺して口に運ぶ。思ったより何倍も濃厚で、酸素を取られそうなほど香り高かった。中に入ったベリーがきゅっと引き締める。
「美味しい」
「でも、雪本くんなら自分で作れたりしちゃうんじゃない?去年バレンタインでさ、クラスの子全員にチョコマフィン配ったって聞いたよ」
「レベルが全然違うよ、無理だって」
「大丈夫。このくらい屁でもないって」
「屁でもないとかいうんじゃないよ、お店の商品に……」
「ああ、やばい、睨まれちゃう」
くすくす笑う石崎が、しかし、まっすぐ目を見て、少し緊張した面持ちで言った。
「でも、真面目な話ね、私、雪本君は基本、本当に、頑張れば何でもできちゃうんじゃないかなって思うんだよね」
「自分じゃあんまり思わないけど」
「だって、あんまり頑張らないから」
「そっか、そうだった」
「頑張んなくたっていいんだけどね、それこそ、無理には。……でも雪本君がもし、自分にできることが少ないなって思って悩んでたり、元気無くしちゃってるんだったら、それは絶対、違うと思う。雪本君は絶対、何でもできる人だよ。どうにかはできるって、絶対」
「そう?」
「だってロミオやれちゃうんだからさ」
「オチに使うのやめてくれない?」
石崎は容赦なく笑った。大きな声で笑って、慌てて周囲を見渡して声を潜めて、それでも笑った。雪本もくすぐられたようにして笑ってしまった。




