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第七十九話 高校二年の十月 ① (場違いな光)

 高校二年の、十月半ばの土曜日のこと。

 朝にマンションを訪れた榊が、雪本の首の傷を確認し、恐らくもう完全に治っているだろうと判断した。切りつけてしまってから一か月半も経っていたし、ずっと痛みもなかったので、雪本本人の方でもそう思ってはいたが、他でもない榊の口からハッキリと明言されると、自然と「やった」と声に出た。

「一応、今日にでも一信さんに見てもらったほうが良いと思う」

「わかった、ありがとう」

 榊は、わずかに広げた荷物を手際よくまとめてから、ローテーブルを前に再度正座した。

 なんとなく雪本も向かいあうように座りなおすと、榊は却って居心地が悪そうにしながら、慎重に切り出した。

「これは本当に、いつ考えてもらってもいいことなんだけど」

「うん」

「陸上部の方でこの間、代替わりがあって」

「ああ。……じゃあ、お前、部長になったんだ。大変だろうけど、おめでとう」

榊は、かすかに力んだ素振りでうなずきつつ、視線を雪本に合わせた。

「それで、今、最高学年になった二年生の代が、一年生の面倒を見る余裕がなくなってきていて」

「一年生は人数が多いしなぁ……」

「二年生も二年生で、自分たちの記録をよくするのも手は抜けないし、一年生もそれはわかっているからこそ気軽に相談がしづらい。だから、引退した三年はもちろん、もう退部した人間にも、時々様子を見に来れないか打診してる。もし雪本に、興味があれば……」

「いいの?」

雪本が思わずそう尋ね返すと、榊は目の端を鋭く光らせながら

「体に無理のない範囲であるのが前提ではあるけど。あと、外部コーチを依頼する話も出てはいるから、やるならやるで変に気負わずやってほしい」

「やりたい。……俺が教えて、何か力になれるならだけど」

「それは心配いらないと思う」

榊は立ち上がりながら付け足した。

「意識する余裕が無かったかもしれないけど、雪本の教え方は、基本評判がいいんだよ」


 数時間後、雪本は病院で一信にも見てもらい、『傷が完治している』と正式に診断を受けた。

 診察が終わると、いよいよ雪本は何の用事もないままに、外傷のなくなった体を外に放り出されることになった。帰ってもいいが、天気がよくて、変に体が暖かい。そのままどこかに行こうと思った。

 よく考えれば、通院と通学以外で外に出ること自体がひと月ぶりだった。全く何の用もなく外に出ることは、この町に来てからは初めてに近いかもしれない。川上や真菜と過ごしている時は、彼らにまつわる用事が必ずあった。

 榊は朝の会話があってからすぐにどこかに行ってしまった。これは今日に始まったことでない。わざわざ言わないだけで多忙なのだろう。平日も休日もかかわりなく、朝にしろ夜にしろ、検温と問診が終わり次第すぐに移動してしまう。制服姿だったことを思えば、学校に行く用があるのかもしれない。

 少し考えて、コーヒーを飲もう、と決めた。

それまでずっと避けていたのだ。真菜と川上に出会う以前から好きだったものを、そして二人と出会ってさらに好きになっていた物を、今の自分が飲めなくなってしまっていたら。

 しかしその日は、飲んで一息つきたくなった。当たり前のことだが、コーヒーを飲んだくらいで死ぬわけはないのだから、と思うと、自然と足取りも軽くなる。


 榊医院から近い位置にある、純喫茶の店の扉を開いた。

 古びてはいるが丁寧に清掃されているので、外観も内観も心地よい。窓が無く、外から見られる心配がないので、石崎と交際していた一か月の間に、何度か来店したことがある場所だった。石崎は未だに泉美などとよく訪れるようだ。泉美が榊と相談するのに使っているというのもここだった。

 とにかくページ数の多いメニューも懐かしい。頻繁に新作が出ているのか、以前よりも分厚くなっている気がした。全品制覇を狙っているという榊にとって、これは果たして、モチベーションを上昇させるのか低下させるのか、収集癖のない雪本には見当が付かない。

 ——川上や真菜が話題に出したことがあるような名前の物がいくつもあった。川上にプレゼントした種類も載っていて、この店の説明文が正確に各コーヒーの味の説明をしていることを改めて実感する。

 それが苦しかった。

 慌ててページをめくって、新作のコーヒーを注文する。苦みが薄く、もとから甘みの強い豆を使ったカフェオレの上に、生クリームとチョコレートパウダーをトッピングしたという物なので、ほとんどデザートのような代物だ。

 しかし実際に完成品が出てくると、思ったよりはコーヒーの香りが存在感を放っていて、少し胃がきしむ。一口飲んで、息をついた。美味しかった。多分川上も真菜も好まないだろうが、とにかく今の雪本には、間違いなく、コーヒーが美味しかった。

 石崎はそんなときに、ひょっこりと顔を出した。

「あれ、雪本君」

 リュックサックを背負った石崎が、バタバタとした動きで手を振る。地下でもないので扉を開ければ鮮烈に光がさす。その瞬間の「場違いっぽい感じ」が渋くて格好いいと、石崎本人が言っていたのを思い出した。

「どうしたの。珍しいね、雪本くんがここ来るの」

店員が来るより先に、雪本のテーブルへとすたすた歩み寄る。雪本は思わず苦笑いした。

「ちょっと、勝手に相席すんな」

「お向かい座っていーですか」

「いーですよ」

「ホントめんどくさいな」

 石崎はにべもなく言い捨てながらそそくさとリュックサックを椅子の背もたれにかけた。赤いざっくりとしたセーターにデニム生地のロングスカート。

「高野のチョイス、結構いいな」

「……え、待って、待って待って、言ったっけ」

「いや」

「えっ」

石崎は水を置きに来た店員に会釈するのも忘れて、目を白黒させた。

「……なんで知ってるの……?」

「陸上部のやつから聞いたけど。……え、隠してるつもりだったの」

「隠せてない?」

「いや……いや、噂だけならもう、陸上部と言わず……」

「ええ、本当?」

 花火大会のさなかに、高野が石崎に想いを伝え、石崎もそれを受け取った。その話は、文化祭前には既に雪本の耳に入っていた。

 本当を言うと、二学期に始めて登校した日、高野とすれ違った際の表情で、話を聞く前からなんとなく予測はしていた。石崎も石崎だが、高野は高野で結局わかりやすい。

 陸上部の同級生——泉美から話を聞いた時、その話されぶりからして、陸上部内は高野と石崎の二人に対して祝福ムードであるらしかった。二人の人柄のなせる部分はもちろん大きいだろう。ただ、もしかすると、花火大会で榊と浜上が結局なにもなかったことで、宙ぶらりんになりかねなかった祝福の分が、不意打ちのように現れた高野と石崎のご縁に向かって満開になっているということもあるのかもしれない。

「もしかして、この後来る?」

「あ、ううん。会う予定ないよ」

「せっかく休みなのに。……ごめん、もしかして、ちょっと揉めてたりする?」

話題に出してしまったことが後ろめたくなってくると、石崎は慌てて首を振った。

「いやいや、揉めてるわけじゃないよ。喧嘩はしょっちゅうだけども」

「もう喧嘩してんの」

「お互いなんでもハッキリ言うから、意見が分かれると大体喧嘩みたいになっちゃう」

石崎はニコニコと平気で笑っていた。


 しかし、さらに続く言葉は、少しだけ言いづらそうだった。


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