第七十八話 朔日
体が揺れた。それほど大きな揺れではない。優しく流されながら、少しあやされているような、ゆりかごのような揺れだった。
「ほら、そろそろ起きないと」
真菜の声が真剣に強張っているから、冗談ではなくて、本当にいい加減起きたほうが良いのかもしれない。平坦にくぐもったスピーカー越しの声が、半年前のオープンキャンパスでも聞いた地名を繰り返す。ああっと真菜が焦って、川上がため息をこぼし、朴訥としたチャイムが鳴る。起床にむかって傾斜がつけられている。
「ねえ、乗り過ごしたら大変だよ」
左肩を揺さぶられる。他の乗客に遠慮して声を潜めた反動からか、真菜の手つきはいつにも増して乱暴だった。目を開けて文句を言ってやろうとすると、雪本の右ほほに肩を貸している川上が何か身動きする。
「疲れてるんだろ。緊張してるだろうし」
「でも、遅刻したら可哀想じゃん。せっかくの入学式だよ」
「大学なんだから、無理に出るものでもないだろ」
そう言って川上は、髪を軽く撫でた。まるでその仕草で、ふと目を覚ませばいいと思っているようなしぐさだった。「起こした」という責任を取りたくないとでも言うような気配がある。雪本は却って、今起きてやろうと決めた。ちょうど車が速度を緩めて静かに停止する。いよいよついたのか。
立ち上がりながら目を開けようとして————そのまま雪本の体はビクともせず、瞼だけがしっかりと開いた。真っ黒なシートベルトに固定されている。
吸い付くような黒いレザーの後部座席で、並んで座る者はなかった。
「ごめん、どのくらい寝てた?」
「もうしばらく寝てていい。ちょうど渋滞につかまった」
雪本は左右の窓を眺めた。いつ終わるともわからない車の列が倒れる前のドミノのように連なっている。
「ほんとだ、すごいな」
眠りにつく前と一変した景色を半ば面白がっていると、榊が運転席から後部座席へと半身だけで振り返る。日に日に浮き出てくる首の筋に、やや伸びた襟足が影を巻き付けている。
「遅れるかもしれない」
「平気。榊が悪いわけじゃないし、ゆっくりでいいから」
四月一日の午前十一時過ぎ。数十分後に大学の入学式を控えている。高校は三週間前に卒業した。
榊は十八歳の四月一日現在、浪人生という立場だった。模試での成績は危なげなく、最難関大学であっても合格は確実と目されていた中での、不合格だった。
ふと思い立って、雪本はスマートホンを手に取った。
「沙苗さんに電話するけど、大丈夫?」
尋ねると、榊は黙ってバックミラー越しに頷いた。
沙苗は三月の中旬から日本に戻ってきている。二か月ほどこちらで働いていくらしい。
偶然にも、今日の入学式が沙苗の休日と重なったので、式の三十分前に待ち合わせて写真を撮る約束をしていたのだ。
「もしもし、母さん」
『直ちゃん、もう、私ついちゃった。今どのあたり?』
「ああ、ごめんなさい、今、道が混んでいて……」
『あ、そうだったの、ごめんね、急かすようなこと言って』
少なくとも榊が自分の家族には敢えて伝えてはいないようだったので、雪本もそれに倣って、沙苗にはタクシーで向かっているとだけ伝えていた。
「入学式には間に合うと思うんですけど、写真撮る時間は少なくなっちゃうかもしれないです」
『いいの。大丈夫よ』
「その分、今日は早めに帰って、お夕飯作りますよ。どこか出かけてもいいですけど……」
『そんな、いいのいいの。それはまた今度でもできるし、部活の勧誘とかあるかもしれない。————お邪魔するときは、事前に連絡してからにするから』
沙苗は、今日はのんびり自由に過ごして、と笑って電話を切った。
雪本はそのまま、沙苗とのメッセージのやり取りが表示されている画面を、ありったけスクロールした。母さん、母さん、と呼びかけるメッセージばかり並ぶ。端末は十六歳の九月初めに買い替えた物なので、沙苗さん、と呼びかけている履歴はなかった。
沙苗は、ここ一年半、帰国しても息子のマンションに顔を出さないタイミングが多くなった。かといって、息子に会うのを嫌がっている様子ではなかった。むしろメッセージは以前より頻繁に、これといった用事がなくともよこす。ただ電話と来訪の頻度は下がっていった。
困らせちゃったら嫌だから、と、沙苗の方で日程を相談して、事前に決めてくるようになった。
母さんと呼ばれることで意識に変化があったのか。息子が過去に語った「同棲相手」を今でも気遣っているのか。正確なことはわからない。
ただ、もし仮に今でも真菜や川上と関係が続いていたら、もうそろそろ紹介することを考えたかもしれなかった。なんと言っても十八歳で、大学生になるのだ。そういう話し合いくらいは始まってもおかしくないだろう。
以前のように『沙苗さん』と呼ぶことを強く望んでいるわけではない。違和感は未だにあるが、違和感がある状態に慣れてしまって、少なくとも沙苗自身が喜んでいるのを敢えてひっくり返すほどの動機にはならなかった。
けれどもし、真菜の事を、川上の事を、沙苗に紹介する時が来たら、その時はまず、沙苗さん、と呼びかけるところから始めようと、それだけ考えている。
真菜と川上の連絡先が入った古い方の端末は廃棄せず、榊に預けることにした。
いつか、連絡できるように。
そんないつかは来ない。
捨てられないが、触れる勇気も出ない。だから預ける。そう、正直に口にする勇気さえ残っていなかった。言い方を変えたところで自分を誤魔化すこともできず、ただ目をそらす雪本に、榊は正面から頷いて、端末を預かってくれた。
榊は一日も欠かす事無く、朝と晩に雪本の体温を測り、体調を聞き取って、時に睡眠薬や栄養剤の類を渡していく。大学まで車で送ると提案されたのは、昨晩の来訪中の事だ。
「車、ありがとう」
「いや、むしろ土壇場の提案で申し訳なかったけど」
「でも、本当に助かったもん。学校までの電車、結構混むみたいだし、ちょっとやだなって思って——」
車の列が少し動いた。榊は静かに視線を上げて、丁寧に車を動かすと、またゆっくり止まった。
「車酔いは」
「平気。運転、めちゃくちゃ丁寧だから、あんま疲れてもないし。……榊が疲れたら、でも、それは遠慮なく休んでよ」
榊は少しだけ微笑を浮かべ、
「何かあったら安全な場所に止めるから——」
とだけ言った。
榊が大学受験で不合格になった時、生徒、教職員の別なく、知った者は軒並み愕然としたが、試験中に体調を崩したためであると本人から説明されると、その驚愕はまたいとも素早く解消された。
榊が二年生の途中から、学校を欠席したり、陸上部での活動をセーブしていたことは広く知られている。うち何割かは、雪本が体調を崩すなどした際に対応をするための調整だったが、本当に体調を崩している日も少なからずあった。
学校や陸上部側にどのように説明していたかはわからないが、その体調不良というのは、具体的には「頭痛」だった。
榊が時折、激しい頭痛を訴えることがあったのだ。どれだけ強い頭痛薬を呑んでも効かない。一度発生したら痛みが引くまでじっと待っているしかない。
榊が受験に落ちたと聞いた時、雪本が真っ先に思い浮かべたのは、その頭痛だった。本人に確認していないので断言はできないが、あの症状が試験中に出たのであれば不合格でも不自然ではない。
だからこそ雪本は、全くではないにしろ、他の人間に比べればさほど驚かなかった。




