第七十七話 それだけ
「俺が榊に、できることってある?」
返事はない。言葉がもう届かないかのように。それが何より苦しかった。
「俺は、いいよ。なんでも。榊だったら、いい。でも俺馬鹿だから、言ってもらったほうが良いんだ」
声に力がこもる。
「ちょっとでも榊の為になるなら、なんでもする」
本当に、榊がすることについてならなんでも、嫌悪感を持つことは無いという自信があった。それが例え、ほかのどんな人間にも許さないことだとしても。
すると榊は、合わせた目の中に、不意に思考の色を灯した。内側から光って、雪本をまじまじと見つめる。
「『なんでも』?」
榊はそう、確認するように呟いた。
その声には嫌味が全くなかった。ただ条件を確認するため聞き返したという以外、何もないように聞こえた。
どんな求めでも受け取る気でいた雪本は、むしろ、その、一切私欲のない声が恐ろしかった。
「うん。なんでも──」
雪本はそう答えた。
瞳の光が内側に吸い込まれ、動力を飲んだように、榊の頭が回転を始める。ゆっくりと、しかし何かを確実に見定めて。
榊は不意に、素早くまばたきをした。そのまま玄関わきの棚に軽く手をつき立ち上がる。
「明日、一時間もらう。鍵は閉めていていいから」
それだけ言って踵を返し、大きく扉を引き開ける。吸い込まれそうなほど美しい茜色の空だった。榊はただうつむきがちに、扉の陰からマンションの壁の陰に向かって潜り込む。
すぐに姿が見えなくなった。
そこから、どう時間を過ごしたかは覚えていない。いつの間にか眠っていた。けれど起きた場所が床だったかベッドだったかすらもわからない。何はともあれ、家にかかってきた電話の音で、雪本は飛び起きた。
「はい」
『こんばんは、雪本さん』
「ああ、新島さん————」
『坊ちゃん、お泊りですよね?そろそろお着替え持って行ったほうが良いかなって』
時計を確認した。日付をまたいで、五分経過している。
「……」
『雪本さん?』
「あ、すみません、そうだった、連絡忘れてた」
雪本は咄嗟に口を回した。
「なんか、お願いするタイミングも遅くなっちゃったし、下着とかくらいならコンビニで買えそうだし。俺も服余ってるから、要らないかなってなってたんです」
新島は少し不思議そうにしながら、それでも、わかりましたと電話を切った。
雪本は携帯電話の電源に手を伸ばした。すぐにでも連絡だけは取らなければならないのに、手が震えて何度も床に取り落とし、どうしても立ち上げられない。やむなく携帯電話の番号をおぼろげに思い返して、家の電話からかけた。間違い電話になってもこの際仕方がない。
数秒して、無機質なバイブレーションの音がした。受話器を元に戻さないまま音を辿って歩いていくと、やはり玄関に行きついた。直前、榊が手をついた棚の上に、彼の端末があって、そこで静かに震えている。その代わり、その携帯電話のある、すぐ近くのあたりに置いてあったはずの、部屋の鍵が無い。
受話器を戻して、雪本は着替えを探し始めた。ついでに栄養ゼリーを冷凍庫から探り当て、冷蔵庫に入れる。入浴後にはちょうど良くなっているだろう。それだけ飲んで寝てしまおう。何かを思った瞬間に呼吸を無くしそうだった。
不意に肩を誰かが触って、雪本は飛び起きた。息を大きく吸い込んでしまいむせていると、榊が申し訳なさそうに背中をさすった。
「声をかけても、起きなかったから——」
「大丈夫。痛かったとかじゃない」
榊は昨日と同じ服のまま、ベッド近くのローテーブルにビニール袋を置いていた。
「今話せるか」
「いいよ。待ってた」
自分の言葉が遠くに聞こえた。どうしてこんなに普通に話しているのだろう。考える間もなく、榊は首を軽く傾げて問いかけてきた。
「確認だけど、『なんでも』の数は限定していなかったという認識で、合ってるよな」
「うん」
榊はすぐに頷いて、じゃあ、と、ローテーブルの上に、全く同じ鍵を二つ並べた。
「許可を取らずに申し訳ないけど、鍵を複製させてもらった。緊急時の念の為だ。普段使う気はない。使う時もできるだけ事前に連絡する」
雪本は頷いたが、榊は確認するそぶりを見せずに自分のジーンズのポケットに鍵を一つ入れた。
「どこか泊まったんだ」
ごくわずかにシャンプーの香りがした。
「新島さんが、心配してた。適当に誤魔化したけど」
「なんて誤魔化した?」
「コンビニでいるもの揃えられそうだから、新島さんに頼まなくてもいいかって話になったって」
「わかった。そういう事にしておく。雪本、体温計は家にあるのか」
「今?持ってないと思う」
「だったら、これを置いておいて、無くしたら言ってほしい」
袋から、新品の体温計が出てきた。
「いいの」
「今、測ってほしい。悪いけど」
断る理由は特にないので、その場で測り始めた。榊は既に自分のスマートホンを探し当てている。
「なんで、置いてったの」
「鳴ったらうるさいから」
榊はそう答えて、携帯電話に目を落としたまま尋ねる。
「何時に眠った?」
「二時くらい」
「じゃあ五時間は寝たんだな。普段との誤差はどのくらいある?」
「いや、普段からこのくらい。多くて六時間」
「平熱は?」
「三十六度ちょうど。毎日は測ってないけど」
二分もしないうちに、体温計の音が鳴った。言われないうちに差し出すと、榊は表示を見て少し眉をひそめる。
「高い」
「風邪とか?」
「いや。多分違うと思う」
榊は時間を確認した。雪本が起きてから十二分ほどだった。
「雪本、夜に用事は?」
「何にもない。けど、榊は、うち帰らないと」
「今から帰る。二十時過ぎに夕飯が終わったら、また来て測る」
「測るんだ」
「結果次第で、少しだけ睡眠薬を渡すかもしれない。多分今日は必要ないと思うけど」
榊は綺麗にレジ袋を畳んでポケットに入れた。
「体温が高くなると、睡眠のリズムが崩れる。食事のバランスは一人暮らしだと面倒なことも多いんだろうし、今はいい。——一時間とは言ったけど、夜の分を合わせても大体三十分と少しか。意外と早く済んでよかった」
榊はそこで、その日初めて雪本の目を見た。何の淀みもない目だった。
「時間帯は、いくらでも都合をつけるけど、ここから毎日三十分だけ時間を貰いたい。やることは基本的に、今と変わらない。話を聞いて熱を測るだけだ。それ以上はまだ知識が無いから対応できない」
「うん」
「俺が出した、健康に関する指示には、できるだけ従ってほしい。どうしてもいやなことや、無理なことがあれば、それはもちろん調整する。朝と夜、二回ずつ来るから、そのタイミングでは必ず連絡がつく状態にしておいてほしい」
「うん」
雪本は頷いた。榊はその頷きだけ厳密に確認する。
「じゃあ、また」
そのまま平気で、榊は出て行った。
雪本は再びベッドに倒れた。
目を閉じて、暫くすると、川上と真菜の声が聞こえた。




