第七十六話 思慕
「──いつから」
榊は乾いた声で尋ねた。
涙も零せないほど強張った目の向こうから、卓抜した頭脳の営みだけが、いつものように、感じとれた。
「最初から」
雪本が答えると、榊はそれを予測していたように頷いた。
「わかった」
今まさに壊れて死んでいきそうな榊を前にして、雪本は悼むこともままならず、無為な涙ばかり流した。
去年の四月一日。
雪本は新入生として、入学式に参列していた。
新入生代表の挨拶まで式辞が進み、一人の生徒が名前を呼ばれ、壇上に立った。新入生代表者。つまり入学試験で最優秀の成績を収めた生徒だ。それが榊知理だった。
雪本はその日の事を、その新入生代表の挨拶くらいしか記憶していない。
長身を持て余すことなく、伸ばした背筋を保ったまま自然な仕草で壇を上がる、その姿が既に卓抜していた。挨拶の内容そのものは、教師陣が事前にある程度用意していることもあってか定例的なものだったが、それでも彼が素晴らしい知力の持ち主であることは誰の目にも明らかだった。
大した抑揚もなく、声の大きさとしてはやや小さい。しかし彼の口から出てくる言葉が、しっかりとその頭脳を通過したことを確信させる。本人の前では言わないが、雪本の学年の人間は皆、その日の榊の挨拶を極めて印象的に覚えていた。初めに彼の顔を覚えたという人間も少なくない。
雪本も例に漏れず、その聡明さに圧倒された。しかしさらに印象的だったのは、彼がところどころ、客席の反応を確認しながら読み進めていたことだった。負けず嫌いなのか、生真面目なのか、その両方なのか。新入生代表の挨拶を意味あるものにしようとする、その純粋な真剣さが、自然と響いてきた。
挨拶を終えると、榊は万雷の拍手を送られた。淡々と礼をして壇上を後にするついでに、榊は眼前に整列する同級生と保護者に視線を流していた。まるで自分が、その一瞬で、どれだけ人の顔を覚えられるか試すような目付きだった。
雪本も彼を観察するのに集中していて、彼の視線を不躾なほど追いかけていた。そのせいで、勘づかれたのか。
榊の視線は、それまでの流れをやや逸脱する形で、ひょいと移動し、雪本を捉えた。
榊は、珍しい何かを見たようなハッキリとした瞬きを一つして、雪本の顔の輪郭とパーツをなぞると、視線をもう一度合わせて、けれどすぐ流した。
それは一秒にも満たなかった。しかし、雪本は確信を持った。似た視線を幾度も受け取ってきたのだ。
榊は決して、振る舞いや仕草や言葉の一つ一つに、その秘密が滲まないようにしていた。部活動の合間に、雪本の下らない話に笑って見せたり、馬鹿にして返したり、時に納得がいかないことがあれば毅然とした態度をとることもあった。
大きな大きな嘘をつきながら、その中であるべきように振る舞う。その自然とも不自然ともつかない、整然とした精神にありったけの敬意を払いながら、雪本は、そのさらに奥へと続く扉の前で立ちすくんだ。
嘘がどんどん上手くなっていく榊に、雪本はただ焦り通した。
雪本が近づけば近づくだけ、榊の嘘は増えていった。榊にとって、誰よりも優しい人間でなければならない。そうでなければ見失ってしまう。
そう思ってきた。
「ごめん」
心臓がつぶれたような声しか出なかった。
「ろくなことできなくて」
「お前が謝ることなんて何もない」
榊の体温がいつの間にか冷えていた。脈拍は早いまま、皮膚ばかり氷のように冷たい。
「伝えるつもりもないのに、気づかれたほうが悪いと思う」
「違う、それは。榊を悪く思ったこととか、本当に一度も無い」
遠ざかる熱を追うように強くつかんでも、榊の体に力が入ることはなかった。ただ雪本の動揺に合わせてその腕が締め付けられる。
「でも、ただ俺が、同じようには」
「それはそうだ」
榊は静かに頷いた。
「期待したことも無い」
彼のその声も、答えも、雪本の想定の範疇を完全に外れた。呆然としたその一瞬で、雪本は、どんな言葉をかけるつもりだったのか、全く見失ってしまった。
全部わかっているなんてとんでもない。雪本が知っていたのは、一つの事実だけだった。榊が一番知られたくなかった事実だけ、よくよく知り尽くしていた。
もう既にその時点で、できることなど何もないのに、どうして今更、口に出したのだろう。
仮に、その動機にたどり着いたとして、それを榊に説明しても、榊は半分だけ信じ、そして半分は疑うだろう。疑った分の空白はそれ以外の理由を探して、その都度傷を増やすだろう。
雪本を疑う以上に、自分自身を疑って、検証をするために、何度でも同じ位置に傷をつけなおしていくだろう。雪本が何をしても、その分だけ同じことを繰り返していくしかない。確信が「百」に至るまで、何度も何度も。
あれだけ流れていた涙が一気に冷えて、呼吸も小さくなっていった。頭が回転するのをやめていた。その意義が無いことに気が付いたのだ。
もし自分の帰る家に真菜と川上がいるのなら、まだ何かしようとしたかもしれない。榊の為には何もしてやれなくとも、真菜と川上と暮らしている自分の為に、二人を好きでいる自分の為に、責任を投げず、雪本直哉として、何かをできるのかもしれない。
けれど今はそれもかなわない。
真菜と、川上と、過ごした時間で、色々なものを貰ったはずだ。
自分が一番望むものがなにか、ハッキリ見えていたはずだ。
自分が何を思っているか、手に取るように分かったはずだ。
それが間違いだったとは思わない。ただ単に、しかるべき道を通って、少なくとも今この瞬間は、一切合切手元に残っていなかった。
榊の病院で親切にしてもらった。心配している沙苗に母さんと呼びかけた。榊が自分を案じているなら、榊に話したいことがあるなら、それを話し合うべきだと考えていた。
その果てに、今、ここにきて、雪本はやっと、自分が空になっていることに気が付いた。
「榊は、どうしたい?」
不意にそんなことを尋ねた。




